幼き日の出会い
窓から入ってきた風が燭台の火を揺らめかせ、独房内に冷気を染み込ませる。貴人は寝台で擦り切れた毛布に包まりながら、山羊面の男のことを考えていた。
ここのところ、彼の様子が変だ。少し前からどことなくぎこちないところがあったが、首切り男が監獄を訪れて以来、いよいよおかしくなった。妙にそわそわしているかと思えば、貴人を見て苦しげに呻いたり、普段だったらあれこれ話をするところを、用が済んだらさっさと出て行ってしまう。きっと、あの日に首切り男との間に何かがあったのだ。
「……いいえ、あるいはぼくのせいかしら」
ついに風が燭台の火を吹き消し、独房内に夜の帳を下ろした。窓の外から淡い月明かりが差し込む。貴人は月から隠れるように毛布を頭にかぶった。
貴人の処刑日は刻々と近づいている。山羊男はきっと、それを恐れているのだ。
「初めまして、
あの日のことは今でもすっかり思い出せる。七年前――七歳の貴人は両親や姉と引き離され、この独房に収監された。大人の事情や政治というものをまだ知らなかった貴人は、子供には広すぎる石造りの部屋の中で縮こまっていることしかできなかった。そこにやってきたのが山羊面の男だった。
「わたくしは、今日からあなたさまの後見人となる者でございます」
奇妙な面で顔を隠した男に怯え、あなたはだあれ、と訊ねた貴人に山羊男はそう答えた。
「後見人ってなあに?」
「あなたのお父さまお母さまの代わりにあなたの暮らしの面倒を見るのです。これからあなたの生活はわたくしが取り仕切りますので、どうぞなんなりとお申し付けください」
慇懃な態度だったが、王宮で見た召使いとはどことなく違うように貴人には見えた。どうして今までついていた召使いでなく、この人が来たのだろう。お父さま達は今どうしているのだろう。気になることは山ほどあったが、訊ねることはできなかった。子供ながらに自分が今いかな状況に置かれているか察していたのだ。
だから、「わかった、これからのことは全てあなたに聞いたりお願いすればいいのだね」と素直に頷き、訊いても叱られなさそうなことから訊くことにした。
「あなたのお名前は? どうしてそんなお面を被っているの?」
「それは――」
山羊男は答えようとし、何かに気づいたかのように言葉を止めた。困り、うろたえて言葉が詰まってしまったのか。やがて山羊男は頭を深々と下げて申し訳なさそうに言った。
「――お許しください。わけあって、わたくしの名を明かすことはできないのです。顔も、お見せするわけにはいきません。こればかりは、どうしてもできないのです。どうか見逃してはくれませんか」
表情は窺えないが、山羊男の言葉には誠意がこもっているように感じられた。奇妙奇天烈な話だったが、やはり貴人は素直に頷くことにした。
「では、あなたのことはなんて呼べばいいかしら」
「どうぞお好きに。後見人とか、山羊とか、あなたの呼びやすいふうに呼んでください」
「なら、あなたは山羊のおじさまだよ。そう呼んでもいいのでしょう?」
山羊男は頷いた。そして咳払いし、荷物から空っぽの布袋のようなものを取り出した。
「さて、ここからが肝要なお話でございます。わたくしがあなたに身分を明かせないように、今日からあなたも、誰にも身分を明かせなくなるのです」
「どういうこと? ぼくはぼくと名乗ってはいけなくなるの?」
最後まで良い子に話を聞くつもりであったが、あまりに不可解な発言に思わず声を上げてしまった。後見人というものや、ここ数日顔を合わせられていない家族のことを思い出し、嫌な予感が胸を走る。
「あなたはもう、王子ではなくなってしまったのです。ここは最早王国ではなくなりました。民はみな、王の血を引くものを憎んでいるのです」
「なら、お父さまは――」
「王子であったあなたが生きていると知れれば、怒りに駆られた者達があなたの命を脅かさんとするでしょう。お許しください、これもあなたのためなのです」
そう言って、山羊男は貴人の顔に布袋を被せた。あまりのことに貴人はついに悲鳴を上げた。
「何をするの!」
「お許しください、お許しください! あなたは今日から何者でもなくなります。ただの罪人になるのです。あなたを生き永らえさせるためにはそれ以外ないのです!」
布袋に開けられた穴から山羊男を見上げる。抑え込んでいた恐怖が溢れ出し、貴人は震えてさらに縮こまった。山羊男の言葉一つ一つが恐ろしくて仕方なかった。
「ぼくはどうなってしまうの? あなたの言っているような人達に殺されてしまうの?」
「いいえ、そんなことは――……」
と、山羊男は再び言葉を切った。今度はなかなか続きが発されなかった。長い間黙り込んでいる山羊男に、気持ちが落ち着いてきた貴人は「どうしたの?」と声をかけた。仮面の下から呻き声のような音が聞こえた。
「……お許しください。いいえ、許さないで。どうかわたしを一生恨んでください。それだけでは飽き足らぬようなことを、あなたにしてしまった――」
泣いているのだと気づいた。そして、その嗚咽を堪える声が、少し前に会った人とよく似ていることにも気づく。彼はあのとき、隠れていた貴人を見つけた“お客さま”に違いなかった。
貴人の処刑日が伝えられたのは、その日からしばらく経ってからのことだった。貴人は彼の立場も振る舞いの理由も、全て察することができた。
「でも――彼は間違ったことなどしていないのに。おじさまはずっと、正しいことをしていたのに」
ようやく温まってきた毛布の中でまどろみながら貴人は思う。どうにかして、彼の憂いを晴らすことはできないだろうか。少しでも彼の気を楽にしてあげられたらと思うのに、山羊男は貴人の言葉を聞くたびに傷つき、惑っているのだ。
「こんなときはどうするのだろう、お父さま達なら――ぼくの友達なら」
文机の上に広げた、まだまっさらな羊皮紙の向こうにいる相手の真剣な顔を思い出し、貴人はそのまま眠りに落ちた。
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