罪深き英雄
手紙を横から覗き込んだ山羊面の男が言葉にならない呻き声をあげた。
上を見ると、鉄格子の隙間から貴人がこちらを見下ろしている。そんな表情をしているのだろう――顔を隠すあの被り者の下には、かつて自分が首を刎ねた国王夫妻とうり二つの顔があるのか。浮かんでくる様々な感情が一つの大きな流れとなって首切り男の中でうねる。しかしそれを吐き出すべき出口が見つからず、代わりに「ああ」と意味のないため息をついた。
――ありがとう、おれの友達。この話のつづきは、かえってからまた手紙で書こう。
やっとのことでそんな返信を書き、独房の中へ投げ入れる。それを読んだ貴人がどんな表情をしているのか、失望させてはいないか――それだけが心残りでならなかった。
家に帰る頃には、日はとっぷりと暮れ落ちていた。影のように黙ってついてきた山羊男と共に無言で中に入る。灯りを灯そうと、二人を包む薄暗い静けさは消えなかった。
「文通など、させなければよかった」
山羊男が口火を切る。疲れきり、声が掠れている。
「こうなることなど目に見えていた。いくら最初で最後の願いといえど、それであの方の心を――それ以上に大切なものまで傷つけてしまうのなら、引き受けるべきではなかったのだ」
「今更おれに文句を言うのか」
首切り男は椅子に掛ける。山羊男にも勧めたが、影法師のように立ち続ける。
「あのとき来たおまえの首を、問答無用で刎ねていたほうが良かったか?」
「ああ、いっそそうしてくれればよかった」
従順に頷く山羊男に、首切り男はかける言葉を失って押し黙る。貴人への手紙を書くときにはいくらでも出てくる言葉が、今はまったく出てこない。
「いや……わかっている。すべてわたしのせいなのだ。わたしがあのお方を殺してしまったのだ」
ふいに山羊男が言った。まるで気が触れたかのような言い草だったが、首切り男は黙って続きを促した。
「わたしは――かつて英雄と呼ばれていた」
そのときのわたしは、弁護士になりたての若者だった。おまえに言わせれば“世間知らずの傲慢な若造”と言ったところだろう。家族の為、故郷の為、そして何より国の為、誰よりも正義を燃やしていたつもりだったが、その実、現実というものが見えていなかったのだ。
世の中を知るにつれて、わたしの中で怒りの炎がめらめらと燃え上がっていった。とかく、この世は理不尽だった。
作物をいくら育てても自分の腹には入らない。枯れた畑の横で飢えた農民が死んでいる。路地裏には蝿がたかった幼子の骸、朽ちた骨を踏んで食い物を探す失業者。青息吐息で今日を凌いで、明日もしくじらず無事に生き延びられるように、いるかも知れない主に祈る。ラッパの音を待つまでもない、あの頃はこの世こそが地獄、世界の終わりだったのだ。
だのに、貴族の奴らはどうだ。民の食い扶持を巻き上げ、血をすすっていながら、それを飲み込まぬうちに吐き出しては寄越せ、もっと寄越せと催促する。ヒルの方がまだマシだ。おれ達は虫や草とは違う。食えなければ死ぬ。産めなければ減る。おれ達を藁のように押し潰して寝転がる腐った豚どもをなんとかしなければ、おれ達は――いや、この国はおしまいだ。……あの頃の、美しい理想だけを抱いていた革命前の時代に戻れたらと、今でも幾度となく考える。
恐ろしいことに、そんな野望を実現できるだけの力がわたし達にはあった。何もかもが上手くいってしまった。邪魔な貴族を次々片付け、国王すらも政権から退かせ、あとは新しい政府の地盤を固めるだけだった。どうしてそこで踏み止まれなかったのか。何も、国王を殺そうなどとは考えていなかったはずなのだ。穏便に政権さえ譲り受けられればそれで良かった。敵視する必要はなかった、貴族達の豪遊、放蕩三昧に頭を悩ませていた国王も、貴族達の被害者だったのだから。
だけど奴らも、おれ達を裏切った。
国外に逃げ出し、あまつさえ外国に情報を流して戦争を仕掛けさせ、新政府軍を倒そうとしていた。許せなかった。国を治める身でありながら、国のことなどどうでもいい、自分の身さえ守れればそれでいいと、奴らも結局青い血が流れているだけの豚だったのだ! そうしておれ達は暴れ牛のごとく怒り狂った。……その後のことは、もう想像がつくだろう?
国王一家が逃亡を企てているという情報を掴んだおれ達は一足早く奴らの宮殿に乗り込んだ。大慌てで荷物をまとめていた奴らの驚きと恐怖に満ちた顔! 悪魔と化したおれ達は逃げ惑い悲鳴を上げる召使いや王族を次々と捕らえた! 奴らの懇願すら耳に入らなかった、命だけはとか、息子がどうとか……そんなことよりも、誰か一人でも取り逃がしていないかに気を取られていた。王族を一人たりとも亡命させてはならない、おれ達の国を守るために!
子供が言った。お兄さん、こんにちは。お兄さんはお父さまのお客さまなの? 俺は答えた。ああ、そうだとも。きみはここで、何をしているのだ。きみのお父さまやお母さまは、あちらで待っておられる。きみも行かなければならぬ。
「いいえ、ここにいなければならないの。お母さまに言いつけられたのだもの。誰が来てもついていかず、ここに隠れていなさいって。お父さまかお母さまが迎えに来るまで」
迎えになど来るはずがないのだ。彼の両親はとうにおれ達が縄にかけてしまっているのだから。きみのお父さま達はこられなくなってしまった、おいで、一緒にお父さまのところへ行こう――そう言った。
「お父さま達はもう行ってしまったの? 今日はお出かけに連れて行ってくれる約束だったのに。一緒に、怖いことが何もない、安心の国へ行くのだって」
……いいや、ちゃんときみを待っているよ。
「じゃあ、もう心配ないのだね? もう家の中に閉じ籠って、怖い人達から隠れなくていいのだね? ぼく達家族はまた前のように、幸せに暮らしていけるようになったのだよね? ……ねえ、そうだと言っておくれよ」
わたしはこのときやっと、自分のしたことの意味を悟ったのだ。
目の前の子供は王子である以前に、まだ母親に甘えたいさかりの普通の子だった。同時に、その子の両親も我が子を守るのに必死な若い父母だ――彼らは国王であり、ありふれた家族、人間だった。そしてわたしは、この人達を離れ離れにして牢獄へ送り、やがては首を刎ねさせようとしている!
この子は王族として生まれただけの子供だ。囚われるような罪も、まして処刑される理由もない! そんな子供を
だが――もうすべてが遅かった。気づけば背後には、わたしの後を追った同志達がいた。姿を消していた王子を見つけ出したわたしを、同志達は口々に褒め称えた。お手柄だな、これで旧体制はおしまいだ、おまえは英雄だよ――と。
止められなかった。国王夫妻の処刑も、この子の罪を問う裁判も。罪なき子が身勝手な理由で収監され、成人を迎えると同時に処刑するという判決を、指をくわえて眺めることしかできなかった。何が弁護士だ、何が革命だ! おれは……なんのためにこんなことをしていたのだ。
わかっただろう、これがおまえの知りたがっていた真実だ。贖罪がしたかったのだ。わたしのせいで残酷な定めを受ける羽目になったあの方に……わたしのせいで死んでしまうあの方に少しでも償いがしたかった。
承知してくれたのなら、どうかわたしの首を刎ねてくれ。
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