貴人なるひと

 足取りが重い。

 山羊面の男は監獄の階段を上っていた。足が重い。懐に入れた手紙が鉛の塊であるかのように重い。いっそ重みに耐えきれず、このまま歩みを止めることができたらとすら思う。もちろんそうするわけにはいかず、理性に鞭打たれながら一歩一歩階段を上がる。

 あのお方――貴人はこの手紙を読んでどう思うだろうか。処刑人と文通だなんて馬鹿げた考えを捨ててくれるなら良いのだが、そうなれば彼は酷く失望するだろう。最後の誕生日の願いすら叶わないなんて……彼はどんな思いで残り一年を過ごすのだろうか。自分が処刑されるまでの残りの日々を。

 いよいよ階段を上がりきり、貴人が待つ独房の扉が見えてきた。看守に合図し、鍵を開けさせる。貴人はいつものように、鉄格子が嵌った窓から外の景色を眺めていた。

「おじさま!」

 山羊男の姿を認めると、貴人は勢いよく彼に向かって駆け出した。布製の被りものに開けられた二つの穴から覗く瞳が好奇心と期待でらんらんと輝いている。この布仮面は貴人が収監される際被るように義務付けられたもので、食事のときも就眠のときも絶対に外さず、顔貌を人目に晒してはならないように言いつけられているのだ。

「もうお返事が届いたの! 早く読ませておくれよ!」

「落ち着いてください、貴い人。手紙に足は生えていません。どうか座ってくださるよう」

 貴人は言われた通りに椅子に掛けたが、はやる気持ちが抑えられないのか両足をばたばた動かしている。

「それでは、首切りの人はぼくとお友達になってくれるのだね? ああ、嬉しい、嬉しい! 窓の外から明星が見えたときより、ずっと嬉しい!」

「………………」

 胸が苦しい。山羊男は黙って机に手紙を置いた。貴人は早速手紙を広げ、貪るように読み始めた。

「これはあなたの字だね? どういうことだろう」

 読み終わった貴人の第一声である。ああ、それはと事情を説明する。

「そうか、読み書きを習わない人もいるのだね。ぼくらの考えが足りていなかったんだ。おじさま、これからも手紙の代読と代筆をお願いね」

「ええ、はい……――今、なんと?」

「首切りの人は、代わりに手紙を読んだり書いたりする人が必要なのだと言ったのだろう? それとも、おじさまは何かご用事で忙しいのかしら」

 山羊男の目は独楽のようにぐるぐる回っていた。つまり、あの返信を読んで、まだ文通をしようとお思いになられているのか。

「いけません! おわかりになりませんか、あの処刑人がどれだけ野蛮で、粗野で、乱暴で、不躾な人物であるか! 礼儀も知らず、貴賤もわからない愚か者だ!」

「ぼくのお友達を悪く言わないでおくれ。手紙を書くのが初めてと言っていたから、作法なんてわからなくて仕方ないじゃないか」

「そういう問題ではありません! 大体、処刑人と友達になろうだなんて考えはおやめになってください! あれは、自分が仕えた王族も、忌まわしい穢れた罪人も、なんの違いもなく切ってしまうおぞましい人間だ……!」

「だって、それが彼の定められた仕事なのだろう? 前王陛下の首を切るのも、ぼくの首を切るのも、彼が自分で決めたことではないのだろう?」

 貴人が静かな声で言った。その声音に、山羊男もはっと冷静になる。

「ぼくと同じだ。彼もきっと、決められたことを決められたとおりにやっているのだね」

「ですが、彼はあなた様を」

「もう彼以外、ぼくに触れてくれる人はいないのだろう? ぼくの最期を看取ってくれる人と友達になれるなら、それ以上のことはないと思ったのだけど」

 布仮面から覗く目に責められているような気がして、山羊男はとっさに視線を逸らした。無論、そんなはずはない。貴人は山羊男の突然の動きにきょとんとしている。

「どうしたの?」

「いいえ、なんでもありません。……差し出がましいことを言ってしまいました、申し訳ありません」

「ううん、おじさまはぼくのことを考えて言ってくれたのだよね。おじさまはいつもぼくのためを思ってくれる」

 貴人は席を立ち、羊皮紙が広げられた文机に向かった。首切り男への返信を書くつもりらしい。

「ぼくは彼と文通をするよ。それでいいのだよね?」

「ええ、もちろん。あなた様の思うように」

 貴人の後ろ姿を見て、山羊男は小さくため息をついた。ぼくのため、か。どうなのだろう。結局自分は、首切り男の言う通り自分のことしか考えていないのだろう。貴人が悲しむのが嫌なのでなく、自分のせいで貴人が傷つくのが嫌なだけなのだ。自分のなすべきことを、滞りなくなせていると信じたいだけなのだ。

 何も抱えていないはずの懐が、また重く、苦しくなった。




 拝啓、ぼくの友達。素敵なお返事をありがとう。

 お仕事が大変なのですね。ぼくは今まで労働というものをしたことがなかったので、働いている人の気持ちを考えたことがありませんでした。仕事というのはきっと、とてもつらいことで、しかし素晴らしいことなのだと思います。

 国というのは、王や元首が治めているだけでは動かない。民が田畑を耕し、商人が品々を流通させているから、国家が成り立つのだと聞いています。どの仕事も国があるうえでは欠かせない、立派なものなのでしょう。きっと、あなたの仕事もそうなのですね。あなたが働いているからこそ、法が成り立ち、善く生きている人達の正義が存在できるのですね。

 あなたがいてくれて本当に良かったと思います。あなたと友達になれて本当に嬉しいです。

 ぼくも、この手紙であなたが楽しめるようにできたらと願っています。あなたの住む世界に、少しでも楽しいことを運べたらいいと思います。これから一年を、楽しいものにしましょう。

 この手紙が、なるべく早くあなたのところに届きますように。

 あなたの友達より


 追伸

 窓から鳥の羽根が入ってきたので、一緒に入れておきます。これはひばりではなくなのですが、こちらも可愛らしい声でよく鳴くのです。

 鳴き声も一緒に封筒に入れられたらいいのですが。

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