第70話 誘拐 *

[*三人称視点]


 ミティリイルは目の前の男をきっと睨んだ。腕を身体ごとツタで巻かれていて、彼女にはそれしか抵抗する術がないのだ。


「怖いなぁ。怒ってんのか? 感情がないヴァンピールなのに? あ、間違えた。感情がある方だったな!」


 くぐもった声が嘲笑った。男の黒い目が、月の光に反射して光っているように見える。


 ミティリイルは怜苑れおんに会いに行く途中、この男にさらわれたのだ。かつての恋人を拷問していると耳元で囁かれ、ついてこいと脅された。

 怜苑との約束の時間から、おそらく三時間は経っている。室内で監禁している訳ではない以上、すぐに解放するつもりではあるようだ。


 男の顔を覆う白いペストマスクの周りだけが、ぼんやりと明るい。ペストマスク──口元が鳥のくちばしのように長く尖っており、あとは目元だけが大きくくり抜かれているマスクだ。それ以外の部分はすべて覆われている。

 ペストマスクで見えにくいが、かろうじて男の髪が黒いのは分かった。顔は、あとは目が見えるだけだ。黒いジャケットとズボン、白いシャツを着ている。

 

 人間の血の匂いはしない。つまり男の使族は少なくとも人間ではないようだ。髪の色を察するに、エルフでもない。その他、人型を取っていることからケンタロウス、獣人ジューマの線も消える。

 目が赤くないのでヴァンピールではない。だがヴァンピールの眷属けんぞくの可能性はある。眷属ならば人間の血の匂いは消えているからだ。

 


 ──ここはどこだろう。

 ミティリイルは少しだけ頭を動かした。ペストマスクの男は、それを見ても大して反応は示さない。

 どうやらここは古い路地の奥であるようだ。アゴールからは離れていないだろう。ここに来るまで目はふさがれていたが、そんなに長い距離は歩いていない。

 ペストマスクの男の向こうで、ごくまれに人が通っていた。通ったのは浮浪者や身なりの汚い者ばかりだ。こちらの路地には見向きもしない。


 今は目は覆われておらず、背中を壁に預けて座っている。壁は何かの建物の裏だろう。口も塞がれていない。叫んで助けを呼ぶのはもう試した。特殊な魔法でもかけてあるのか、誰も来なかった。

 ミティリイルは不機嫌そうに声を出す。

 

「どうしてこんなことをするノ」

「こっちにも色々とあんだよ。それにしても、けっこう賭けだったんだけどな。よく付いてきてくれた!」


 くぐもった声は、たしかに喜んでいるようだった。闇に浮かぶ青白いペストマスクは不気味だ。マスクにくり抜かれた大きな目穴ごと、ミティリイルを捉えているような気がした。


 ミティリイルの前には、気絶した男が寝ている。彼女のかつての恋人だ。顔や腕が痣だらけで、唇からは血が流れている。だが致命傷ではない。


 ペストマスクの男は、言うほど冷酷ではないようだった。本気で恨みがあるならこれほどでは済まない、彼女は冷静にそう判断した。

 ミティリイルのことも、何回か怪我を負わせたあとは何もしてこなかった。強姦でもされるのかと思っていたが、そんなこともない。


 ミティリイルは、ますます男のやりたいことが分からなかった。だが、一つだけ思い当たる節がある。彼女はまた口を開いた。


「スワトの使い?」

「そう! お前ら動きすぎだってさ。ちょっと大人しくしといて。これはケーコク。

「分かったヨ。もう何もしない」

「さすが~。人間じゃねえとこういうのもやりやすいな。助かるぜ? 猫耳のヴァンピールちゃん」


 男の操っているツタが、ミティリイルの頬をわざとらしく撫でた。彼女の緑の髪にツタが巻きついていく。髪とツタを編むようにして、男は遊んでいる。

 ミティリイルの帽子は彼女の横に置いてあった。それを魔法でふわふわと浮かせたあと、また落とした。男のこもった笑い声が聞こえる。


 誘拐にしては、相当甘いとミティリイルは思った。

 男の言うようにただの警告なのか。だが本当にスワトからの警告だとしたら、殺しくらいしてもおかしくはない。少なくともミティリイルの元恋人は殺されているはずだ。



 男がミティリイルの方に近づく。ヒールのあるブーツを履いているためか、コツコツと不穏な音が響いた。

 男はミティリイルの顔を覗き込んだ。黒い深淵みたいな穴が彼女を凝視する。ペストマスクのくちばしが、ミティリイルの鼻をくすぐった。


「そろそろいいかな。もう一人の男にも、ちゃんと言っておくんだぜ? あの緑の髪の人間。寛大な俺に感謝しな」


 ミティリイルはこくりと頷いた。警告だと男が言っている以上、しばらくすれば怜苑がここにやって来るだろう。

 ミティリイルの顔の傷がゆっくりと治っていく。ヴァンピールの《高速治癒》のおかげだ。だが、怜苑が来るまでに完治するのは難しいだろう。ペストマスクの男は、それも計算して殴っていたような気がした。


 男はわざとらしく手を振り、路地を去っていった。




 ◆◆◆




 ミティリイルと待ち合わせていた小広場の噴水で、怜苑は一時間ほど待っていた。スワトがひそんでいる場所を聞く予定だったのだ。もし可能なら、今日会いに行こうとも思っていた。だがいくら待っても彼女はやって来ない。日はとっくに沈んでいる。


 昨日ヴァンピールの居酒屋『有か無か』の帰り道、ミティリイルが落ち込んでいたような雰囲気だったのを怜苑は思い出した。もしやミティリイルは自分を置いてアゴールを発ってしまったのかもしれない──。

 だが、そう考えるのはさすがに早計だ。ミティリイルに何かあったに違いない。怜苑は噴水の石段から立ち上がると、街の方へ歩き出した。





 怜苑はかれこれ三時間以上歩いている。どこを探してもミティリイルは見つからない。

 『有か無か』はもう立ち寄っていた。まだ事を荒立てるのはよくないと思ったので、ヴァンピールたちに詳細な説明はしなかった。


 怜苑は普段通ることのない路地まで来ていた。かなり怪しい雰囲気がただよっている。いつもよりも道が暗い。たしかに街灯が少ないから当たり前なのだが、それだけではない気もしていた。

 歩く人は身なりが汚く、刺青をしている者や厳つい雰囲気の男女が多い。客を誘う娼婦も多くなっていた。

 


 怜苑の足が重くなっていく。魔法が使えるようになったとはいえ、対人戦は未だに経験していない。襲われたらどうしようと、心が不安を感じ始めていた。

 怜苑は細い路地をのぞき込む。その時、首元をぐっと掴まれて路地に連れ込まれた。


「なっ! だれ」


 怜苑が叫ぶ前に、何者かが口を塞いだ。急に怜苑の視界が暗くなる。後ろに立つ者のが怜苑の顔にかかったのだ。


 怜苑は恐る恐る後ろを振り返った。黒髪黒目の男だ。髪は乱雑に横に跳ねていて、顎近くまである長い前髪は中心で分かれている。顔の下半分を黒い布で隠している。

 まるで忍者みたいだと、怜苑は思った。男の服はほとんど全身真っ黒だ。フード付きマントを着ており、そのフードを被っている。首に黒くて太いマフラーが巻かれている。長い手袋、、膝と肘にも防具が付いている。



 男は口を塞いでいる手を放した。「何も喋るな」とこもった声で言う。怜苑は頷いた。


「お前はレオンだな。ミティリイルを探している。合っていれば、首を縦に振れ」


 布の奥から低い声がする。その声は怜苑の脳まで震わせた。怜苑は言われた通り、首を縦に振った。


「ミティリイルの居場所を伝える。一度しか言わない。この三本先の路地を右に曲がったあと、赤い看板の横の道に入れ。そのあと右手五本目の路地に入れば、樽が並んでいる場所があるだろう。その樽を全部どかすと道がある。その道に入り、左に曲がれ」


 怜苑は情報を整理するが、覚えきれそうにない。だがとりあえずは頷いた。

 

 ──黒髪黒目。

 いつかラムズが教えてくれた化系トランシィ殊人シューマのシャドウキラーではないだろうか。暗殺に特化した神力を持つ化系トランシィ殊人シューマだ。足音もなかった気がする。彼が近寄っていたことに、怜苑は全く気付かなかったのだ。


 ──ここで殺さなかったらもう殺せない。


 ラムズにそう言われたことを思い出した。シャドウキラーは出会ったが最後、顔を忘れてしまう。そういう神力を持っている。

 

 

 自分がやるしかない。怜苑はごくりと唾を飲んで、腰の横で右手を開いた。下から氷柱つらら魔法を放つ──。もし心臓に直撃すれば、彼は死ぬかもしれない。


「【氷柱よ、槍に ── Hasta アスタ Stiriaスティーリア】」


 怜苑は小声で詠唱した。男は詠唱の声には気付かなかったようだ。怜苑のこめかみに汗が伝う。

 ──成功するかもしれない。


 だが氷柱が男の身体に触れるその瞬間、氷柱がみるみる溶けていった。ポタリと水が滴り落ちて、怜苑の靴を濡らした。


 男は落ちていく水を見やる。口元は黒い布で隠れて分からないが、たしかに眼はわらっている。

 

。だが勇気は時に無謀と呼ばれる。命を大切にするなら、そこを履き違えるな」


 男は怜苑を路地の奥に押し込んだ。怜苑は勢いで倒れる。

 男の冷えた眼がそれを見下ろした。身をひるがえして、通りの方へ歩いていく。黒いマントが最後にふわりと舞い、路地の角に消えた。


 怜苑は起き上がって、走って路地から出た。左右を見渡すが、男は既にいなくなっていた。




 道は覚えきれていなかったが、"樽"の話だけは記憶にあった。色々な道を曲がりながら、ようやく怜苑はミティリイルを見つけ出した。

 怜苑はツタで巻かれているミティリイルの方に走っていく。


「ミティリイル!」


 ミティリイルは虚ろな目で、怜苑の方に視線を向けた。疲れているようだ。怜苑は一本ずつツタを解いていく。


「大丈夫か? 誰がこんなこと……」

「スワトの警告だって言ってたヨ。もう首を突っ込むなってネ」

「そうだったのか……。ごめん、俺のせいでミティが……」

「別にいいヨ」


 ミティリイルはまるで感情がないかのように、淡々と言った。怜苑はミティリイルの横に倒れている男を見た。気絶している。彼の身体はあざだらけで、顔は血塗れだ。


「こいつは?」

「運んでほしい」

「おう、分かった」


 ミティリイルも顔や腕から血が流れていた。泥や土も一緒になって、服が汚くなっている。怜苑はさらに申し訳ない気持ちになった。

 ミティリイルは立ち上がって、服をぱんぱんと叩いた。横に落ちていたシルクハットを拾い上げる。彼女が歩けそうだと確認すると、怜苑は男を担いだ。



 二人は細い路地を出て、歩き始める。


「ごめんネ。運んでくれて助かるヨ」

「おう。こいつ誰なんだ?」


 ミティリイルは口をつぐんだ。シルクハットのせいか、彼女の顔が陰った。

 怜苑が聞いたことを後悔し始めていた頃、ミティリイルが小さな声で返した。


「前に付き合っていたヒト」

「……感情が、あったとき?」

「ソウ」

「そっか。おとりに使われたのか?」

「ウン。拷問していると言われて、連れてこられた」

「感情が切れていても、昔の恋人だったら気になるものなのか?」


 風が吹いて、二人の髪を揺らした。怜苑には長い沈黙に思えた。

 怜苑の背中に乗っている男が唸った。怜苑は顔を後ろに向けたが、まだ彼は気を失っているようだった。



「…………本来、ヴァンピールには感情がある」


 ミティリイルはポツリと呟いた。

 彼女の緑から銀のグラーデーションを持つその髪は、生気を失ったようにしなっている。毛先の銀は色素が抜けたみたいだ。いつものぼんやりした赤い瞳は見開かれているが、代わりに暗く濁っている。


「揺さぶられれば、その時の気持ちを思い出す。もう、聞かないで」


 怜苑は小声で謝った。




 ミティリイルは怜苑を盗み見た。彼は下を向いて、もう何も話さなくなっていた。冷たく返して悪かったと、今更ながらミティリイルは反省した。


 彼女はわざと感情を忘れていた。だが例のペストマスクの男が、ミティリイルが無意識下まで落とした感情を拾い上げ、それを上から振りかけたのだ。


 ──誘拐にしては甘いと思っていたけど、むしろ厳しかったかもしれない。性格の悪い男だ。寛大だなんて自分で言っていたけど、そんなの嘘だ。


 ミティリイルは唇をぐりっと噛んだ。尖った牙が下唇を割いて、血が流れていく。しばらくすると傷は消えた。


 ──また捨てるのも、一苦労するな。

 ミティリイルはシルクハットを深く被り直した。頬にこびり付いた涙と泥の混じったものが、いつまでも鬱陶うっとうしかった。

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