第62話 温かい身体

「メアリ!」


 わたしが落ちた涙をぬぐっていると、不意に手を引っ張られた。そして背中に腕が回されて抱きしめられる。


「へっ? え、えっと……」

「ごめんな……」

「……ラムズ?」

「泣かせるつもりはなかったんだ。メアリ……。辛かったよな、ごめんな……。泣くの、見られたくないよな。ここで泣いていいから」

「でも……」

「無理しなくていいよ。俺はそばにいるから」


 上からラムズの声が降ってくる。彼の言葉にのせられたせいか、抑えていた涙が溢れ出していく。


 ──そばにいる。


 独りだった心が、ふわっと温まっていく気がした。やっぱりわたしは寂しかったんだ。みんなと離れ離れになるのが……。知らないあいだに居心地がよかったって、そう思ってたもの。

 ラムズが戻ってきてくれてよかった。突き放したのに、戻ってきてくれて、本当によかった……。


 わたしの涙でラムズの服が濡れていく。申し訳ないと思って彼から離れようとすると、むしろ回す腕がきつくなった。それに、なぜかラムズの体は温かかった。


「……なんでっ、あったかいの?」

「魔法で今だけそうしたんだ。その方がいいだろ?」

「……うん」


 いつも冷たいラムズが温かいのは、なんだか変な感じがした。でも、体が温かいせいか、ラムズの声も優しかった。

 あれから一時間は経っているのに、ずっと探していたのかな。冷たいなんて思ってわたしは本当に酷かったわ。体が冷たいのだって仕方ないのに。わざわざ魔法で温めて、わたしのことを慰めてくれるなんて……。

 ラムズは体力がなさそうなのに、探すの、大変だったわよね。わたしがジウの涙一つで気を動転させちゃったから……。


 ラムズが、わたしの耳の近くで話し始めた。


「本当はメアリのことを置いていこうと思ったんだ。一人で鱗を直しに行こうとした。それが俺の運命だったんだ。けど、嫌だった……」

「……いや?」

「ああ。だから運命に抗ったんだ。本当は運命に抗うのは大変なんだ。けど、抗ってでもメアリにはいなくなって欲しくなかった……。いつもは運命を受け入れてるけど、今回は無理だったんだ」

「そっか……。でも、わたしのことは……」

「違う」


 即答だった。彼はわたしの服を背中越しにぎゅっと掴む。声を震わせながら──でも、強い口調でラムズが言った。


「メアリのことは宝石としても大切だけど、メアリ自身のことはもっと大切なんだ。嘘じゃないよ。メアリは、俺の特別なんだ」

「特別、なの?」

「そうだ。メアリが俺の全てなんだ……。だからどこにも行かないでくれ。俺の傍にいてくれ。俺は──」


 ラムズがわたしの頭をゆっくりと撫でた。その手も温かかった。なんだか安心する。熱い雫がわたしの目尻から垂れる。頬を伝って、それは地面まで落ちていく。


「俺はさ、独りなんだ。人間みたいに他人の心に同情できない。冷たいよな。だから俺の使族は嫌われてる。でも、メアリだけには嫌われたくないと思ったんだ。メアリだけは、俺からいなくならないでくれ……」


 ラムズの言葉尻が消えていく。嗚咽を押し殺したような声だった。

 ラムズも苦しかったんだ。みんなと違うから。誰にも同情できないせいで、誰にも理解してもらえないのかもしれない。人魚のわたしでも冷たいって思ったもの。きっと人間だったら、もっと冷たいって思うはず。

 けど、ラムズもそれを嫌がっていたんだ……。独りなのが寂しかったんだ。


 運命を知ってることも大変だったのね。知らなかった。何も知らないのに、運命を変えろって押し付けて……。わたしは間違ってた。やっぱりラムズだって普通だったのね。わたしの普通を押し付けちゃダメ。ラムズのことも受け入れてあげなきゃ……。



 ラムズの胸の中で、わたしは言葉を落とした。


「わたしも、ごめんなさい。バラバラになるのは、嫌なの。戻ってきてくれて、よかった。ラムズのこと、嫌いじゃないわ」

「ならよかった。俺も嫌だったんだ。メアリがいなくなった時はショックだった。本当に辛かった。だからこうして追いかけた。メアリのことは俺が守るから、そばにいてくれ」

「うん……。分かったわ」

「ありがとう。もう、大丈夫か?」


 ラムズはわたしの身体を離した。彼はもう泣いてない。手を伸ばして、わたしの頬に触れる。流れていく涙を拭った。

 恥ずかしくなって、わたしは顔を逸らす。


「ど、どうして……。こういうの、するの? 他の人には、しないんでしょ? なんていうか、わたしにとっては、緊張、するから……」

「そうだな、メアリにしかしたことないよ。メアリには触れたいと思うんだ」

「けど、なんていうか……。ラムズはそういうの、簡単にやっちゃうから……」

「簡単でもないよ。そう見えてるだけだ。ほら」


 ラムズは、わたしの身体をもう一度自分の胸に押し当てた。彼の心臓の音が聞こえる。わたしと同じくらい、心拍は早い気がした。早いけど、聞いていると落ち着く、かも……。


「えっと、その……。わたしに触れたいって、どういうこと?」

「抱き締めたりしたいってことだよ」

「え? それは……」

「分からない?」

「わ、分からない、かな……。抱き締めたいって、どうして……」


 ラムズはわたしの肩を優しく掴んで、身体を離した。「取っていい?」と聞かれて、わたしは何のことか分からないままに頷く。ラムズは右手で眼帯を取った。

 サファイアみたいな青い宝石と、普通の青い目がわたしを捉える。



「メアリのことが、好きなんだ」



 彼の声と瞳に心臓がぎゅっと掴まれて、わたしは動けなくなった。柔らかい声がわたしの身体を包んだ。どんどん体温が上がっていく。

 どうしていいか分からない。


 ──告白、されてるの?


 わたしのことが好き? わたしのことが?


 ど、どうして。人魚なのに? いや、こんな時に人魚なんて関係ないわよね。けど、でも、好き? 宝石としてじゃなくて?


 心臓がどくんどくんと、さっきよりも大きな音で鳴り始めた。ラムズに聞かれそうなくらいだ。目を逸らしたいけど、逸らせない。


「え、えっと……」

「うん?」

「わたしが、好きなの?」

「そうだよ」

「宝石じゃなくて? 鱗?」

「違う。メアリが好き」


 優しい声だった。温かい視線で、じっとわたしのことを見ている。彼の言葉に、また胸がきゅっとなった。

 告白されたことなんて、一度もない。14歳のとき初めてサフィアに恋をして、そのあとはずっと色恋沙汰なんてなかった。人魚でいた時はまだそんなのは分からなかったし、陸に来てからはサフィアのことでいっぱいだったし──。今はようやくサフィアへの思いも断ち切ろうとしてたけど、でも、えっと。


 ラムズが……好き……。わたしを……?


「ど、どうして……」

「好きになるのに、理由なんてあるのか?」

「それは、わ、分からない。ない、わよね。えっと、好きだから、その」

「最初は宝石として大切にしてただけだった。けど、今回メアリがいなくなっただろ。それが本当に辛かったんだ。だからそう思った」

「でもそれは、宝石だから、かも……」


 ラムズは寂しそうな笑みを浮かべて、穏やかな声で言った。


「宝石としてだったら、抱きしめたり慰めたりしないよ」

「でも……じゃあ、キスしたりしたのも? させたのも?」


 ラムズは少しだけ息を吐いて、俯いた。こちらをうかがうようにして見たあと、自嘲じちょう気味に笑う。「ごめんな」と小さく声を落とす。


「俺さ、メアリの鱗が本当に好きだから、俺のモノにしたかったんだ。メアリが俺のことを好きになってくれたら、ずっとそばにいてくれると思ってさ」

「それは……まぁ、そうかもしれないけど……」

「だからキスしたり、させたりしてみた。俺も恋愛のやり方ってよく分からないんだよ」

「え……。えっと……、じゃあその時は好きでしていたわけじゃないってこと?」


 ラムズは瞳を細める。わたしに触れようと手を伸ばして、その手を落とした。


「そう。嫌われる、よな。本当にごめん」

「それは……。うん……」

「……けど」


 ラムズは顔を上げて、じっとわたしを見た。青い目が意志を持って強く光っている。


「今は本当だ。好きなのは本当だし、今慰めたいと思ったのも、抱きしめたのも、メアリが好きだからだ。それに気付いたんだ。──いやけど、好きになったのはいつなんだろう。俺にも分からない。今まで恋したことなんてなかったからさ」


 ラムズは困ったように笑いかけて、首をかしげた。たしかにわたしも、サフィアの時はそんな感じだった。彼が消えてから気付いたんだ。

 だからラムズも‎最初は違ったけど、今は本当に──。


「前は、そばにいてくれるならそれでいいと思ってた。けど今は違う。俺のことを特別に思ってほしいんだ。俺がメアリをそう思うように。初めてだから色々俺も分からないけど……」

「うん……」

「ちゃんと信頼も取り戻すから。それも含めて、メアリと向き合いたいんだ。本当の俺を、好きになってほしい」

 

 彼の強い視線に胸が掴まれて、目が離せなくなる。喉が締め付けられ、気持ちが高ぶっていく。わたしは小さく呟いた。


「あの。その……、でもわたしは……。ラムズのことを……」

「そうだよな。うん、ゆっくりでいいよ。けど」


 ラムズはわたしの顎をくいっと上げた。彼の顔が間近に見えて、わたしは目を瞬く。耳まで熱くなっていくのが自分でも分かる。



「メアリ、俺のことを好きになって」



 ラムズはそう言って首を傾げると、あどけない瞳を優しく細めた。にこりと笑って、わたしの身体を抱きしめる。


 どうしたらいいか分からない。恋人じゃないなら抱き締めたりしないはずだけど、でも、分からない。ラムズはわたしのことが好きなんだから、抱き締めたいと思うのは、普通よね。それに、人魚とヴァンピールじゃ愛情表現もきっと違う。人間と人魚みたいに。だから、今はいいのかな……。


 えっと、けど、どうしたらいい? 好きになる? ラムズのことを?

 好きになっていいのかな。けどラムズは人間じゃない。人間じゃないなら、呪いは関係ないものね。それに異使族だからって恋愛しちゃいけないなんてことは、ない。人魚は人間以外となら大丈夫なはず。

 ドラゴンは誰とでも恋愛してるもの。わたしだって、別に、いいわよね

(ドラゴンはどの使族とでも子供を作ることが出来るの。だから他の使族と恋愛することが多いんだって)。


 いやでも、そうよ。ラムズのことを好きになるかなんて、分かんない、し……。



「ら、ラムズ……」

「どうかした?」

「好きになれるか、分からない、わよ……」

「好きにならせてあげるから、安心して」


 笑みを含んだような声で、ラムズがささやいた。彼の吐息が耳にかかって鳥肌が立つ。落ち着いていた心臓がまた鳴り始めた。

 これ以上彼に抱きしめられていたら、もう心臓が持たない。壊れちゃいそうだもの。


 わたしは手で彼の胸を押して離れた。ラムズは笑っている。


「元気になった?」

「な、ならないわよ……」


 ラムズはわたしを見てまた笑った。からかわれている気がする……。けど、優しい瞳だし、さっき言ったのはたぶん本当。


「かわいいな」

「えっ?! な、なにが?」

「メアリが」

「どうして……」

「んん、照れてるから?」

「そりゃ、好きって言われたら、照れる、わよ……」

「そうだな。かわいい」


 ラムズはまた微笑みを載せた。かわいいから笑っているのかな。というかかわいい? わたしが? いやでも、エディとかによく言われていたじゃない。レオンも言ってきたことがあった。それと同じよね。

 同じ……はずなのに、なんでこんなにドキドキするんだろう。やめてほしい。魔法でも使っているのかな? ラムズの顔が、見られないよ。



 ラムズはわたしの髪をすくった。さらりと彼のてのひらから流れていく。それを見ながら、わたしに声をかけた。


「ジウのこと、どうする?」

「へっ、あ、そうね……。ラムズはどうしたいの?」

「さっきも言ったけど、俺は運命に抗うのがけっこうキツいんだ。運命が分かるっていうと聞こえはいいけど、結局はただ縛られているだけだ。それ以外の選択ができない。運命と別の選択をするのは、それこそメアリが人間の足を持つようなものなんだよ」


 わたしは驚いて、ラムズを二度見した。人間の足を持つくらい辛いなら、相当なはずだ。わたしだったら絶対に運命に逆らえないかもしれない。

 恐る恐るラムズに尋ねる。


「そんなに……辛いの?」

「まあ、な。ここに来るのもけっこう大変だったんだ。だから時間がかかった。宝石を追っているというだけの理由じゃ、ここまでしないよ」


 つまり──わたしが宝石としてでなく好きだから、運命に抗ったってこと……。わたしはまた恥ずかしくなって目を伏せた。ラムズが「ごめん」と笑って言っている。


 わたしが顔を上げると、ラムズは話を戻した。


「メアリはジウのことを助けに行きたいんだろ?」

「えっと、そうね……。冒険者ギルドの掲示板に伝言を書いておいて、見るのかしら」


 ラムズは首をかしげた。目線を上げて何やら考えながら呟く。


「どうかな。そもそも、もうアゴールからはいなくなっているかもしれないな……」

「そっか……。どこに行ったのかは見当も付かない、わよね」

「ああ。実際、ベルンはハイマー王国の首都だし、そっちに行った可能性はあると思う」

「たしかに、そうかな……」

「とりあえずアゴールの知り合いには当たってみるよ」

「けど、辛いんでしょう?」

「メアリが辛い方が嫌だからな」


 ラムズは柔らかく微笑んで、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。

 さっきから、ラムズがラムズじゃないみたいだ。声も話し方も見た目も──。と言っても、おかしい感じは全然しない。最初からこれくらい優しかったって思えるくらい、柔らかくて温かくなるような雰囲気だ。本当だったら目の下に隈があるはずなのに、それも全く気にならないくらい、優しい顔つき。

 好きになられるって、こういうことなのかな……。


「本格的に探さなきゃ、そこまで辛くもないよ。今日中にアゴールを出られれば大丈夫」

「そうなの?」

「ああ。運命が切り替わったかな」

「わたしの方に来たから?」

「そう。本来はメアリの方に行くのは俺の運命じゃなかった。けど、メアリの方に来てこういうことになったから、何かが変わったんだろう」


 ──こういうこと。

 つまり、そういうことよね。今後どうやってラムズと接したらいいんだろう。今までとは違くなるの? ラムズが変わるってこと? 


 でもよかったのかな。もしもラムズのことを好きになれば、わたしはサフィアのことを何のわだかまりもなく殺せるかもしれない。何の蟠りもなく──はさすがに難しいかもしれないけど、ちょっとは気が楽になるかな。好きだった思いを忘れるってことだから。

 でも彼に会ったらまた変わるのかしら……。



「ラムズ……。わたし、これからどうやってラムズに接すればいいの?」

「別に今まで通りでいいよ。俺がメアリを好きなだけだから。俺のことが好きになったら教えて」

「へっ、あ、うん……。なったら、ね……」

「そういえば、これを渡すのを忘れてたな」


 ラムズはコートのポケットからブレスレットを出した。いつかのユニコーンの魔石が付いている。

 ブレスレットは、中心に水晶のような魔石、横には青色の宝石と貝殻、真珠が交互に並んでいる。金細工きんざいくの装飾がほどこされている部分もあって、すごく素敵だ。貝殻があるのは、わたしが人魚だからかな。


「これも特注で作ったんだからな?」


 ラムズはそう言うと、わたしの腕を手に取ってブレスレットをめた。


「俺が外さない限りは、もう取れない」

「えっ?」

「盗まれたら困るだろ? それに、メアリのことは俺が守りたいから。前も言ったけど、俺がいないところで危ない目にあったら魔石に血をつけろよ」

「わかったわ……」


 わたしはブレスレットをしげしげと眺めた。あいだにある青い宝石も透明で、奥が透けて見える。真珠は艶があって、形の整った球体だ。貝殻は加工がしてあるから、ちゃんとアクセサリーらしくなっていた。

 ラムズの方を見てありがとうと言うと、彼はどういたしましてと、笑いかけた。

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