第54話 酒の在庫 *
[*三人称視点]
「なんでなのぉおぉぉぉー!」
ヴァニラの大きな
外に出て、風がジウの頬をなぞる。
街の外壁から、僅かに太陽の余光が漏れている。周りの建物が赤く染まり、影が伸びてきた。街灯の灯りが付き始めている。
ジウたちが泊まっていた宿屋があるのは、あまり治安のいい通りとはいえなかった。歩く人の身なりは汚く、やつれた体つきの者が多い。娼婦などもおり、彼女らは道を歩く男に声をかけている。
ヴァニラが喚き立てていても、通行人は顔をしかめるだけで話しかけることはしなかった。治安の悪い場所で、無闇に他人に話しかけるのは危険なことなのだ。
「うわあぁぁあぁぁあん! ねえぇぇえ! どこなのぉぉお? ヴァニの、ヴァニのぉぉ……」
「ないんだってば! お酒はキミが全部飲み干したんだろ!」
「うるさいの!」
ヴァニラはジウに掴みかかった。ぴょんと飛んで、小さな掌でジウの首元を掴む。ジウは彼女の腕を抑えた。彼女の力はそれほど強くなく、ルテミスのジウならば簡単に放すことができる。
ジウはヴァニラの両手をまとめて掴んだ。そして彼女を引きずるようにしてずんずんと歩き始める。
「どこ行くの! ヴァニのぉ、ヴァニのお酒はぁー? ヴァニのぉ……」
ヴァニラはジウについて歩きながら、後ろで騒ぎ続けている。ジウは彼女の口を塞ぎたい気持ちに駆られた。だがなんとか思い留まる。なるべく早く彼女に酒を渡す方が、ずっと意味があるだろう。
ジウは少し歩いたところにある居酒屋に入った。ヴァニラもジウのあとに続く。
木造の居酒屋の中、熱気がむうっと二人を襲った。客が入ってきたことに気付いた店主が、厨房から声を張り上げる。
「お二人さん?! 何飲む!」
「お酒なの! お酒なの!」
「あいよ! エールでいいね!」
「いいの!」
瞳を輝かせ始めた彼女に、ジウは肺の底から息を吐いた。空いている席に座ると、ヴァニラにも座るよう促す。
そこの居酒屋はなかなか評判の良い所らしく、客は多かった。柄の悪そうな見た目の者もいるが、皆楽しそうに談笑している。乱雑に机が並べられ、その机に足を掛けて座っている者がいる。大きな笑い声がたまに響く。一人の娘は、忙しなく客席を回って料理を運んでいた。
ドンと、大きなグラスが二つ机に置かれた。先ほど話しかけてきた店の主人だ。
「エールだよ」
「ありがと」
主人はすぐに厨房に戻った。店のあちこちから注文を頼む声が聞こえる。
そそくさと酒を飲み始めるヴァニラに、ジウは疲れた顔で話しかけた。
「明日からどうすんの……」
「何がなの?」
「だから、あそこの宿の酒、もうないんだよ?」
「どうしようなの……」
「どうしようなの、じゃないから!」
ヴァニラはジウ、ロミューと同じ宿に泊まっていた。彼女は毎日、四六時中一階の食堂に入り浸り、ひっきりなしに酒を注文し続けていた。最初は儲かると喜んでいた宿の主人だったが、彼女の様子に主人は段々と焦りを見せ始めた。そしてとうとう、店にある分の酒を彼女は全て飲み干してしまったのだ。
宿の主人は明日酒を仕入れるとは言ったが、ヴァニラにはもう飲まないでくれと釘を刺した。彼女のせいで他の客の分がないのである。
酒を飲むなと言われ、ヴァニラは食堂の中で騒ぎ出した。二階にいたジウは、彼女の声に気付いて訳を知る。そして彼女を
ジウは机の上で頬杖をついた。
「なんでこんなにおかしなヤツばっかりなんだよ……」
「何がなの?」
ジウはきっと彼女を睨む。ヴァニラは満面の笑みでお酒を飲んでいるばかりだ。
「レオンとか! キミとか! メアリは半分人魚だし! ラムズもおかしいし!」
「ヴァニはおかしくないの」
「おかしいから。全くどうするんだよ……」
「ラムズに聞いてみるの?」
「なんで船長?」
「分かんないの。でもなんとかしてくれるかもしれないの!」
彼女の言葉を聞いて、ジウはラムズを少し憐れに思った。こんなヴァニラをどうにかする方法があるのだろうか。
ジウは自分の分であったはずのエールが、知らないあいだにヴァニラに飲まれていることに気付いた。もはや溜息を吐く気にすらなれない。
酒が切れる前にラムズの所へ連れていくことに決め、店の主人に金を払った。飲み終わったヴァニラの手を引いて居酒屋を出る。居酒屋の滞在時間は10分もなかった。
店から出ると、ヴァニラはニコニコとジウに笑いかけた。少し元気になっているようだ。宿で喚いていた時よりは機嫌が良さそうである。
「ラムズ呼んだの~」
「え? どうやって? あそっか、
ジウは普通の人間である頃から魔法が苦手だった。魔力量が少なく、また鍛錬してもそれは増えなかったのだ。それから彼は、魔法について学ぶのをやめた。
しばらくして、ジウたちの目の前に白い魔法陣が現れた。地面に描かれているそれが、僅かな光をもって空中に浮かび上がる。
そしてラムズが現れた。
「ここはどこだ?」
目の前のヴァニラに怪訝そうな顔を向けたあと、ラムズは辺りを見渡した。そして港町アゴールの治安の悪い通りだと気付いたらしい。もう少し歩けば、スラム街が見えてくるような場所である。
ヴァニラを鋭い目線で貫く。
「おい、こんな所に呼び出すな」
「ごめんねなの~。仕方なかったの」
「これだからお前は。とりあえず移動する」
ラムズは、自分がなぜ呼び出されたのか理解しているようだった。ジウとヴァニラは彼の後ろについて歩き始めた。
普段、彼女のピンクのツインドリルは、よく隣にいるジウに攻撃していた。といっても、身体にポンポンと当たって
その髪の毛を指差し、ジウはヴァニラに話しかける。
「ねえ、今日はなんで髪型が違うの?」
「ん? あぁ、面倒だったの。ずっと宿にいるからいいかのって」
「なんだ。というか、あれ面倒なんだ」
「魔法で頑張ってやっているの」
「あれも魔法でやるの?」
「そうなの。ジウのもクルクルにするの?」
「しなくていいよ……」
ジウは自分の髪の毛が巻かれているのを想像して、その気持ち悪さに眉をひそめた。
三人はアゴールの小広場まで来た。
大抵の街には中央に大きな広場がある。そこには噴水や井戸などがあり、行き交う人も多い。中央広場の近くには街の領主の城もある。また広場近くの通りに貴族の家が多いためか、中央広場を通るのはほとんどが貴族である。
中心から離れて、大きな通りの十字路に当たる場所には小広場がある。その小広場は様々な身分の者が利用している。露店などもあって賑やかだ。
アゴールにもまた小広場があった。だが他の街の小広場と比べて、歩いているのは身なりの綺麗な者の方が多い。アゴールという港町は、大きな商会の商人や裕福な市民が多い街なのだ。
その小広場の噴水の石段に、ラムズは腰を下ろした。ヴァニラはたたたっと駆けて、同じく彼の隣に座る。ラムズは疲れを滲ませたような声で言う。
「いつも思うが、なぜ俺がお前の世話をしなきゃいけない」
「ヴァニとお友達でしょ?」
「はあ? 俺に友達はいない」
「ボクは……?」
ジウは密かにショックを受けて、小さく呟いた。だがその言葉はラムズに拾われなかったようだ。
ラムズは眼帯の付いていない右目を上の方に向けながら、何かを思い出そうとしている。ヴァニラはその様子を楽しそうに見ている。
「あー。あいつに頼むか」
ラムズはそう言って立ち上がり、また歩き始める。だがふと足を止めて、ジウの方へ振り向いた。
「ジウのその格好はまずい。二人でそこで待ってろ。おいヴァニラ、金は払えよ。あるんだろうな?」
「お金はたくさんあるの!」
「どこからそんなにお金が出てくるの?」
「乙女の秘密は聞いちゃダメなの!」
ラムズは力が抜けたようなため息をついて、独り広場の向こうに歩いていった。
しばらくヴァニラとジウが取り留めもない会話をしていると、向こうから彼らの見知った顔──
薄緑から白銀に変わる長い髪の毛が、彼女が歩く度にふわりと揺れている。頭に大きなシルクハット、ケットシーらしき白い耳がついている。背負っている銀の槍は、彼女の見た目には少し不釣り合いだ。
向こうもヴァニラたちに気付いたようで、噴水の方まで近付いてきた。
「ジウ、ヴァニラ! こんなところで会うなんて奇遇だな」
「レオンは何してるの? あれ、その子どうしたの? もしやヴァニという女がいながら浮気を……。レオン、ひどいの……」
「は、はっ?!」
あからさまに落ち込む素振りをして、ヴァニはわっと頭を抱えた。泣き真似をしている。怜苑は「嘘つくなよ!」と彼女の肩を揺らした。
「この子、レオンの彼女なのォ~?」
「違う! 違うから! ミティ信じないで。こいつが勝手に嘘をついてるだけだし、俺はこんなロリ」
「こんな何?」
ヴァニラは顔をあげて、鋭い視線を送る。怜苑はドキリとして後ずさった。
「いやそのほら、お前はちょっと若すぎて俺には合わないっていうかさ。な?」
「若すぎて……。なら、いいかの」
ヴァニラはニコリと笑って、今度はミティと呼ばれた少女の方へ顔を向けた。
ミティ──ミティリイルは珍しいものを見たという風で、二人に視線を向けている。ヴァニラと目が合うと、キョトンとした顔をして小首を傾げた。ヴァニラはかわいく笑う。
「ヴァニラっていうの。よろしくなの」
「ヨロシクネ~。僕はミティリイルだヨ。ミティって呼んで~。ん~、ヴァニラは人間じゃない~?」
「なんで分かったの? あっ、赤い瞳なの……。ヴァンピールなの?」
「そうダヨ~」
赤い瞳はヴァンピールの特徴の一つである。人間や他の
ただ、ヴァンピールは人間の血を飲んでいるので、相手の匂いで人間かそうでないかを見分けることができる。ヴァニラはこの辺りの情報から、ミティリイルの使族を当てたというわけだ。
ミティリイルは、噴水の石段に座っているジウの方を見た。ジウも石段から腰を上げて、ミティリイルに近付いていく。
「ボクはジウだよ。見ての通りルテミス。よろしくね」
「よろしくダヨ~」
「ボク気になってたんだけど、ヴァンピールって
「吸えるよ~。
「そ、そっか……」
ジウは一歩彼女から身体を引いた。ミティリイルは気付いていないのか、眠そうな笑みを顔に載せたままである。
怜苑はどうしてジウたちが噴水の石段に座っていたのか、聞いてみることにした。
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