第9話 クラーケン 後編

 太陽はとっくに消えてしまい、空の天気はますます怪しくなっていた。海は黒く濁り始め、風がヒューヒューと騒ぎ立てる。


 隣に立つラムズは、その音にじっと耳を傾けているように見える(もしくはぼうっとしてるか)。


 甲板で船員が働き始めた。嵐の準備をしようと、わたしが船長室の前から足を踏み出したら、ラムズに腕を掴まれた。

 まだここにいろってこと?

 ラムズは後ろを向き顔を上げる。そして、船尾楼せんびろう甲板かんぱん舵輪だりんを握っているジウの方へ叫んだ。


「おいジウ! 船尾せんびじゃなくて船首せんしゅかじをとれ」

「船首? 本気で言ってるの?」


 わたしも首を傾げてラムズの方を見た。

 この船は船首と船尾、両方に舵輪があってどちらでも舵をとることができる。でもほとんどの場合は船尾側を使うはずだ。今までもジウはそうしてきた。


「メアリが嵐をしずめる。そばにいた方がやりやすいだろ? それにジウは船首にいた方がいい気がする」

「どうして?」

「俺がそう思ったからだ」

「はいはい」


 ジウは呆れたように頷いている。ぺたぺたと音を立てて、濡れた階段を下りてくる

(船では裸足だからぺたぺた音がしたのよ)。

 風が吹き、髪の毛が頬を激しく叩く。痛いくらいだ。

 わたしは甲板まで下りたジウに声をかけた。

 

「ジウ、行きましょ」

「はあい」



 嵐の準備に動き回る船員の間を、わたしとジウは走っていく。階段を上り船首楼甲板に着いた頃には、空はもうすっかりできあがっていた。パラパラと雨が降っており、服に重さを感じ始める。

 振り返って、ジウの方へ声を出す。


「わたしは嵐の時、いつも舳先へさきのバウスプリットに登るの。だからジウと会話はできないわ。わたしが波をあやつるから、それを感じて舵をとって」


 めちゃくちゃなお願いなのは分かっている。でもジウならばやってくれるだろう

(そういえば普通に「操る」とか言っちゃったけどどう思っているんだろう? さすがにわたしの正体バレてる?)。


「わかった。とりあえず逃げればいいんだよね。でもクラーケンは諦めるのかな」

「……諦めないわ」


 一度狙った獲物は逃がさない。そんな執念をクラーケンには感じる。前はどうやって逃げたんだっけ……。


 ──そうだ。片方が犠牲になったんだ。

 わたしの乗っている船の近くに、たまたま別の船があった。その船にクラーケンを寄越してわたしの船は逃げ延びたのだ

(あの時も大変だったわ。せっかく向こうの船にクラーケンが張り付いたっていうのに、それを助けようとするんだもん。友達ってわけでもないのに。人間ってほんとう、変わってるわよね)。



 クラーケンには物理技がほとんど効かない。つまりルテミスの活躍は望めないってこと。クラーケンは軟体だから殴っても仕方ないし、表面は粘液でベタベタだから、素手で触手をもぎ取るなんてこともなかなかできない。

 そうすると一番頼りになるのは魔法──。

 

 わたしは船首楼甲板から船内を見下ろした。魔法で活躍しそうな船員なんているのかしら。

 特に海賊になるなんて、魔法が苦手だから物理で勝負するって言っているようなもんなのだ。海賊には魔法が得意な人は少ないと思う。


 あ、でもあそこに獣人ジューマがいる。彼らは活躍するかもしれない。

 あとはラムズね。彼はどう見ても普通の人間じゃないように思えるし。それも今回のことが終われば分かるかしら。

 ──ま、お互い生きていたらね。


 船内の雰囲気は暗く見えた。みんな気持ちが沈んでいるような気がする。太陽もなくなって辺りが薄暗いからそう見えるのかもしれないけど。


 赤い帆が徐々に巻かれていく。

 帆がなくなると、随分寂しい雰囲気だ。茶色い船体と黒い海、そして黒い空。わたしも憂鬱な気分になっちゃう。それに、この船こんなにボロかったっけ?




 わたしは船首楼からさらに前の方へ進んで、バウスプリットに飛び乗った。

 この前の嵐よりもやりやすい。いつもはわたしの能力のことを誰も知らないから、一人でバウスプリットに座っているのは忍びないのだ

(仕事をサボっているように見えるじゃない? わたしもこれくらいは気にするのよ。じゃないと今後船での居心地が悪くなるからね)。


 真下に広がる真っ黒い海を見ていると、どうしても心が不安で覆い尽くされる。毎回そう。

 大丈夫だって思っているしわたしは海に落ちてもなんとかなるんだけど、やっぱり怖い。黒い海って、わたしの知っている海じゃないみたいなんだもの。


 船の方から指示する声が聞こえる。雨の音と風の音に混じって、途切れ途切れだ。

 

「帆は最後──畳め! 各自持ち場──! 自分の近くに触手が来た────すんだ! 触手が──なら──なんとかなる!」

「魔法が──ものは────来──!」


 やっぱり魔法は重宝されるのね。

 走り回る船員の足音がする。あちこちで指示が飛び交う。船の軋む音も聞こえてきた。


 冷たい雨はさらに強く激しくなっていた。身体がどんどん冷たくなる。髪の毛が顔にべったりと張り付いた。甲板に叩きつける雨の音はもはやうるさいくらい。

 そのとき、急に突風が吹き付けてわたしの体をさらおうとした。ぎゅっと棒を握って耐える。もっと太っておくんだったわ

(もしかして痩せているから胸も****のかな? なんかいい方法知ってる?)。



 風が強くなるに従って、海の波も大きくなっていた。船体に激しく波がぶつかっている。横揺れが酷いわ。船が揺れるだけでも身体が振り落とされそうになる。


 ──そろそろ始めよっか。

 わたしはゆっくりと目をつむった。嵐を操るのは難しい。仲間も何人集まるか分からない。集中しなきゃ。


 耳には何の音も入らなくなる。雨で張り付いた服や髪の毛の感覚、体に当たる雨の痛みもなくなった。

 


 海が見える。


 どこまでも黒い海。

 荒れている。

 波が盛んに打ち立てて、海に打ち付ける音は徐々に激しくなっていく。

 

 海がわたしの中へ入ってくる。

 暴れ回る波、身体から出ようとしている。

 そっちに行っちゃだめ。

 言うことを聞いて。お願い。

 

 渦が大きくなってわたしは渦の真ん中に引きずり込まれそうになる。

 身体が熱い。


 仲間がきた。嵐の海に仲間も困っているみたい。みんなで海に意識をつなげる。



 全員の声が聴こえるようになる。

 海の声、魚の声も聞こえる。


 身体に満たされる海が、段々気持ち良くなっていく。

 水で全てが満たされていく。

 冷たいけど、あたたかい。

 

 海も苦しみが、わたしにも伝わってくる。

 もう怒りじゃない。

 悲しんでいる。海は泣いている。

 

 落ち着いて。いつもの貴方に戻るの。

 そうよ。 ゆっくりでいい。

 波を、腕を下ろして。

 大丈夫。みんながいるわ。


 きっとすぐに太陽が上がるはず…………。 




 ぱっと目を開くと、目前の海はだいぶ落ち着いていた。意外と長くこうしていたみたいだ。

 でもそこで、急に船体がグラグラと大きく揺れた。

 

「クラーケン?!」


 わたしが後ろを振り向くと、禍々まがまがしい触手が目に入った。

 気持ち悪い色。灰色と青色が混ざったのを、さらに腐らせたみたいな色だ。触手には砂や海藻がへばりついている。

 クラーケンの触手は、船尾側のマストに絡みついていた。全部で七本。

 七本はダメ、がしきれない────。

 

 甲板で懸命に魔法を打っている者もいるが、全然効果がない。クラーケンは自分の子供でも殺されたのかというほど、怒り狂っていた

(クラーケンに子供……。子供ならやっぱり可愛いのかな?)。



 船が右に大きく傾いた。クラーケンは船を海に引きずり込もうとしている。

 わたしも行かなきゃ。わたしの魔法じゃ大した意味もないかもしれないけど!

 バウスプリットから飛び降りて、甲板で膝をつく。そして魔法の参戦をしようとした時だった。 


「【稲妻よ、全てを裂かん


 ── Flagdyフラグディ Laceラジュ Toturmel トータメル 】」


 どこかで詠唱の声が聞こえたかと思うと、クラーケンの体が電撃で覆われた。


 閃光。

 真っ白な視界。


 眩しいくらいの黄金きんが一瞬船を包んだ。

 ──そして、光が消える。

 よし。クラーケンの触手、4本まで減ってるわ!


 ──というか電撃?! 光属性の使い手がいるの? あんなの人間じゃ出せない威力よね。てことは……エルフ? ううん、エルフなんて船にいなかったはず

(電撃の魔法は光属性よね? え、違う? でも光ってるなら光属性でしょ。もう! わたしは水と闇しか使えないからあんまり細かいことは分からないの。これ以上は聞いちゃだめ!)。

 

 でもクラーケンはさらに激怒している。当たり前だ。水の生物は、電気にとびきり弱いのだ。いやそれなら死んでよ(ごめんねクラーケン)って話なんだけどね。

 ただ、クラーケンみたいな使族しぞく。あくまで退しりぞけるだけ。



 クラーケンは、なんとかもう一度他の触手を船に張りつけようとしている。あれがまた張りついてしまったら、今度こそ船が沈没する。

 ──もう、やるしかないかも。

 

 わたしは目を凝らしてラムズを探した。根拠なんてなんにもないけど、さっきの魔法はラムズがやった気がしたのだ。

 見つけた。

 ラムズは船尾楼甲板の上で、たしかに魔法を使っているように見える。


 船首楼甲板から跳ぶようにして階段を下り、船内を走った。途中ぶつかって倒れた船員がいたみたいだけど、そんなのは気にしていられない

(わたしも飛ばされそうになったわよ、もちろん。でもこっちは勢いってものがあるから! このわたしは誰にも止められないのよ!)。




 船尾楼への階段を一気に駆け上がり、ラムズの背後まで辿り着いた。気配に気付いたのか、彼はこちらへ振り返る。

 

「……あんた、か」


 ラムズもけっこうギリギリみたい。


「わたしのこと、守ってて」

「…………っえ、は?」


 こいつついに頭がイカレちまったのか? みたいな顔をされた。失礼ね。イカレてないわよ

(面白い? よく分かんないけどありがと)。

 さすがにクラーケンの目の前ではやる気にはなれないから、わたしは船尾楼甲板のギリギリ後ろまで下がった。


 そして、歌った。


 歌いながら、わたしはクラーケンの触手を一本ずつ剥がしていった。クラーケンは抵抗しているけど、触手くらいならきっと……。

 さすがね、みんな剥がれた!

 わたしは海底に沈むようにも促す。でもそこまではあやつりきれなかった。さすがポシーファルに愛された使族ってところだ

(本当に愛されているかどうかなんて知らない。むしろこうやって好き勝手に使われてるんだし、可哀想だとも思うわ)。

 

 クラーケンはわたしのせいで身体がおかしいことに気づいたのか、こちらへツタのような海藻を伸ばした。絞め殺すつもりだ。

 わたしは歌っているあいだ何もできない。もちろん魔法だって使えない。ラムズ、やってくれるよね?


 ラムズは既に状況を把握していたらしく、すぐに海藻を粉砕ふんさいした。錆色さびいろ暗紫色あんししょくを混ぜたような海藻が空中で砕け、パラパラと甲板に降ってくる。無詠唱で風属性の魔法を使ったみたいね。




 わたしは歌い続けた。ラムズの魔法のおかげもあって、クラーケンの抵抗は段々と弱まっていき、ついにクラーケンの体は海の中に潜った。ここまで操りきったわたし、万歳!(はい、拍手ー!)

 

 でもまだ油断はできない。海面のすぐ下で待っているのだ。わたしの歌が止むことを。

 そしてクラーケンの期待通り、わたしにはもう限界が来ていた。


「っは。ごめっ、ん。もうっ、無理」

「あとは任せろ」


 どっと疲れを感じて、崩れるように体が傾いた。手先がジンジンする。爪が熱い。

 を使うといつもこうなるの。どうしてだろう?


 ラムズはさっと腕を出してわたしを甲板に座らせた。わたしが座ったのを見届けてから、ラムズは船の端まで走っていく。クラーケンは歌がやんだのを知って、再び海面から顔を出そうとしていた。



「【迅雷じんらいよ、包め ── Flagdyフラグディ Covlare コヴェラーエ 】」


 ビリビリ、そんな音が出そうな白銀の電撃が、またクラーケンを包んだ。船内は一瞬明るくなる。よく見ると、なんだか空から電撃が降りているように見える。雷みたい。


「【Flagdyフラグディ Covlare コヴェラーエ 】」


 雷は再度クラーケンを襲う。クラーケンはありったけの力で電撃を振りほどこうとしている。でもどうやら意味はなさそう。


 海の中にいるクラーケンに電気攻撃って、どんだけえげつないのよあなた。わたしはチラッとラムズの方を見た。

 でもそんな非道なラムズさんも疲れているみたいだった。船のへりを掴んで、自分の身体を支えている。魔力切れかな。


「【稲妻よ、全てを裂かん


 ── Flagdyフラグディ Laceラジュ Toturmel トータメル 】」


 ラムズは再び、さらに威力の高い雷を落とす。灰色の空を金の光が斬り裂いて、クラーケンに直撃する。ついにクラーケンは痛みに耐えかね、海の中へ自らもぐっていった。

 大波をわたしたちへの置き土産に────。


「うそだろ! もう終わりだ!」

「波に飲み込まれちまう!」

「船が、船がぁぁああぁあ」


 船員の叫ぶ声が聞こえた。ラムズは甲板に倒れ込んでいる。

 頭上を見た。今にも波が船を喰わんとする。このままじゃ船は海の藻屑もくずだ。

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