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 たぶん不意を突かれたんだろう、ヨミは顔に浮かべていた笑みをさっと引っこめて、ぴたりと立ち止まった。

「ただいま、ヨミ」

「お、おかえり」

 ヨミがぎこちなく答える。

「よかったわね、ヨミ。帰ってきてくれて」

「お、お前たち、くだばかりまいてないで、ちょっとは働け」

「はいはい」

 フランチェスカがヨミの抱えている袋を受け取る。

「買い出しご苦労さま。あとはやっておくから、ふたりでちょっと散歩にでも行ってらっしゃい。バーニィたちが戻ってくるまでもう少しかかるでしょうから」

 フランチェスカたちが店の中に入っていくと、ヨミは僕を見上げた。

「カカオ、体はもういいのか」

「うん。大丈夫」

「あのクソじじいにひどいことされなかったか。ちゃんとゴハンは食べてたのか」

 僕は思わず笑い出した。

「ラオスーはそんな人じゃないよ。いろいろと役に立つことを教えてもらったし。まあ口は悪いけどよくしてもらった」

「そ、そうか」

「ゴハンもちゃんと食べた。薄味だったけどね」

「私はそのほうが好きだな」

「そうか、ヨミと同じ地区の出身なんだよね。そうだ、箸を使えるようになったよ」

「おお。それはすごいじゃないか」

「それが最初の訓練だったんだ」

 僕たちはそんなことを話しながら夕暮れの道を港まで歩いた。

 船着場にはたくさんの船が係留されていたけど、人っ子ひとりいない。いつかサーカスのチラシをもらったボードウォークから突き出た桟橋に並んで腰かけた。しばらくふたりとも足の下の波の音を聴いていた。

 僕はずっと悩んでいた。ヨミにカウントから聞いたことを話すべきかどうか。話すべきなんだろうけど、ヨミがどういう反応をするのか、よく分からなかった。

 でも、こうやってヨミを目の前にすると、一瞬でもカウントの言葉に心を動かされてしまったことが信じられなかった。僕はやっぱり彼女と離れたくない。

「なんだか不思議だな」

 ヨミがぽつりとつぶやいた。

「この世界から人がいなくなってしまったあとみたいだ」

 既に陽が暮れかけていた。あたりには灯りもなく、ただ波の音だけが桟橋に響いている。本当に世界から誰もいなくなってしまったみたいだ。

「私は最近思うんだ。本当の幸せというのはどういうことなんだろうって」

 いつかみたいに、ヨミの顔は夕陽の色に染まっていた。黒い瞳がきらきらと輝いている。

「私はこれまでずっと、何があろうと本当のことを知るべきだと思っていた。火星の人間すべてが本当のことを知って、地球の管理下から脱するべきだって。たとえそれが結果的に火星の人間を苦しめることになるのだとしても。でも、本当にそれでいいのか。なんだかよく分からなくなってきた」

 意外だった。ヨミがそんなことをいうなんて。ヨミがふるふると、首を振った。

「だめだな。すまん、なんだか弱気になってしまってるみたいだ」

「僕にもよく分からない。でも、こうやってヨミといっしょにいると、このまま何事もなく時間が過ぎていけばいいと思ってしまうんだ。人がいなくなった世界でも。世界にふたりだけでもかまわない。ヨミが無事でありさえすれば」

 そうか。前にバーニィがいってた。守るものがないからそんなことがいえるんだって。守るものがあるとはこういうことか。

「カカオ、ほんとに私でいいのか」

「今頃なにいってんの」

「しかしだな、こういうとき普通は、てっ、手をつないだりとかするものではないのか」

「いいよ。そばにいればそれでいい」

「そうか」

 ヨミは桟橋から下ろした足をぱたぱたさせた。

「私もだ」

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