雪の中

まつこ

雪の中

Silent night Hoiy night 清しこの夜。けれどこの国の人間は名前くらいしか知らない外国の偉い人なんて気にせず、多少浮き足立って街を歩き、プレゼントを買い、パーティをするくらいだ。ただ騒ぐ口実が欲しいだけ。人間の欲望として結構なことだ。かく言う僕もチキンを買って自宅で一人晩酌をする予定である。ふと、手の甲に小さく冷たい感覚襲う。驚いて見れば、雪の結晶が付着していた。ホワイトクリスマス、滅多に雪の降らないこの地域では、正に聖夜の奇跡と言える。雪は確実に降る量を増していき、黒いコンクリートの道路を少しずつ白く染めていく。はしゃぐ子供の声があちこちから聞こえてくる。元々天気予報で雨が降ると言われていたために用意していた傘をさし、僕は再び歩き始めた。ゆっくり歩いていたせいで、交差点の待ち時間の長い信号に引っ掛かった。体を震わせながら耐え抜くと、向かい側にいた真っ赤の派手なコートを着た人物と目が合った気がした。肩程まで伸ばされた綺麗な黒髪と人を射殺せそうな朱に近い茶の瞳がアンバランスでありながら、そこにあるのが当然だという予定調和を感じさせて、妙に印象的だった。僕とその人物……おそらく女性だろう……は同時に歩き出し、次第に近づき、そのまますれ違うはずだ。けれど女性は僕の真正面、数歩で届く距離で立ち止まった。

 僕が声をかけようとすると

 ホワイトクリスマスに不似合いな銀色と赤色が僕の視界を彩った。膝から崩れ落ちる。頬と体の前面に激しい痛みが走る。腹を刺されたと気付いたのはその痛みを感じた数秒後だった。息を吸おうとしても上手くいかない。エサを求める金魚みたいに開閉する口から、吐かれる息だけが白くなって聖夜に消えていく。僕を刺したと思われる女性は僕の前に跪き、「苦しい?」と聞いた。僕が苦しい、助けてくれと、女性にではなく質問自体に反射的に答えると、女性は酷薄な笑みを浮かべて……。


***


 手の中に冷たい感触がある。それが熱されつつある理性をギリギリのところで沸騰させないでくれていた。クリスマスとやらに浮かれている連中の間を抜けていく。私はアイツのせいでクリスマスだとかお正月だとかの行事を楽しめなくなってしまった。いいや、人生そのものを楽しめなくなった。この行為が成功すればもっと楽しめなくなるのは知っている。だけど、手の中の冷たいモノが引き返すことを許してくれない。

 待ち時間の長い信号に引っ掛かって、足を止めた。人混みの中に、アイツの顔を見つける。傘をさして、茶色の厚いコートを着た黒髪のその姿は、有象無象の中に混じって見つけにくかった。信号が青になって歩き出す。あちらもこちらの姿見とがめたようで、目が合った。違和感を覚えさせないよう近づいて、アイツの目の前で立ち止まった。顔を確認する。柔和な顔立ちは、誰からも好かれるものだろう。それを私は許せなかった。アイツが私に何か声をかけようと口を開くそこから何か音が出る前に、私はナイフをアイツの腹部に突き刺した。アイツは声も出せずに横断歩道に倒れ伏した。いつの間にか降っていた雪が、血で赤く汚れていく。未だ荒い息を繰り返すアイツの前に座り込んで「苦しい?」と聞いてみた。コイツは苦しい、助けてくれと、刺した張本人である私に言った。自然、笑みがこぼれる。良いじゃないか。その苦しみは、すぐに終わって何も感じなくなるんだから。私はコイツの首にナイフを突き立て、息の根を止めた。興奮が、周囲の寒さと同調するかのように冷めていった。男の死に顔を見る。なんとも思わなかった。私が殺したかったのは過去のアイツで、今のコイツではなかったんだ。過去は私の心の大部分を占めていた。それを切り離すと、途端に空っぽになった。サイレンの音が聞こえてくる。誰かが通報したのだろう。目に悪い赤が並んでいく。

 雪は、私と男の体に積もり始めていた。


***


 クリスマスに、浮かれた気持ち無かった言えば嘘になる。本官はその日の夜、一つの殺人事件を目前で見過ごすことになった。

 こういった日に浮かれた人間が暴力沙汰を起こすことなどは多い。それ故本官達は世間がパーティだなんだと楽しんでいる日に、町中をパトロールすることになった。そろそろ本官の受け持つ時間は終わり、署に帰ろうとする途中、信号に引っ掛かった。本官のパトカーの前には数台の車が止まっていた。しかしそれらの車が、信号が青になっても一向に動こうとしない。運転をもう一人の警官に任せ、外に出ると、凶行は既に終わろうとしていた。赤いコートを着た女性の持ったナイフが茶色いコートを着た男性の首に刺さり、かろうじて息のあった男性の命を奪った。この時大声を出して駆け寄っていれば間に合っただろうにと何度後悔したかしれない。結局本官は女性を殺人の現行犯で逮捕することになった。今は女性の取り調べをしているところだが、容疑こそ認めたものの、動機については一切語らず難航している。

 雪は随分と降り積もっていて、女性の心を奥深く埋めているかのように思えた。


***


 遠方の友人から、奇怪な事件の話を聞いた。それは吾輩の住む町には入ってこなかった殺人のニュースである。いや、吾輩の家にはテレビもなければ新聞も取っていないから、どんな事件も友人達から聞くしかないのだが。

 さて、その事件は吾輩の作家魂を大いに震わせた。曰く、『雪降る聖夜に行われた奇々怪々なる殺人事件』である。事件の内容自体は一人の女性が往来で男性を刺し殺したという簡素なものだ。しかしこの事件はそれからが面白い。女性は動機に関して一切を黙して語らない。その女性と男性の間には、中学、高校で同級生だったという以上の接点が無い。何故女性はそのような犯行に及んだのか?その部分は様々な想像が湧いてきて止まらない。その想像の一端をここに記そうと思う。これは今まで吾輩が何冊か世に出したミステリー小説に出てくる探偵達が行うような痛快な推理ではなく、限られたテーマから話を膨らませる即興小説のようなものだ。どうかこれを真実とは思わず、愉快な娯楽として読んでいただきたい。

 まず重要なのは女性の動機であろう。何の接点もないはずの青年を恨み、殺すに至った理由こそ、この奇妙奇天烈前代未聞の事件の真相を暴く鍵となるはずだ。この動機を吾輩は仮に、『恋心』とした。殺したいほど愛している。愛しているから殺したい。

 恋、愛はいつの時代も狂気を孕むものである。

 読者諸君は、中高同級生だったというだけで恋心を抱くのはありえないだろうと思うかもしれない。しかし、中学生高校生の若い情熱というのは往々にして吾々の想像を絶するものなのだ。女性は男性に中学生、あるいは高校生の時分、恋心を抱いた。しかし彼女は引っ込み思案であり、青年に熱い視線を送るも振り向いてもらえなかった。そこで彼女はこう思ってしまった。


「どうしてあなたは私の方を向いてくれないの!こんなにも愛しているのに!」


 嗚呼、こう思ってしまったのだ!なんたる悲劇!少女の心を青年に囚われ、その心は恋から怨みへと変わってしまったのだ!怨みを時間が癒やしてくれることはなく、ついに爆発した彼女の心は、聖夜の雪を血で濡らす凶行へと彼女を走らせてしまった!

 青年を殺した彼女の心に雪は積もらず、ただ冷たい風だけが吹き抜けたことだろう。そして、何故雪の降る往来で犯行に及んだのかのか、これは心中のためである。心中?女は死んでいないではないかと思われるかもしれない。だが、女性は青年を殺すことで、自らの心を殺し、殺人犯として逮捕されることで社会的にも死んでしまった。これが心中でなくなんであろうか。あまりに美しく悲しい女の恋の話である。

 吾輩の即興小説を楽しんでいただけただろうか。聖夜の暇つぶしとして読んで貰えれば、それだけで感無量である。

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雪の中 まつこ @kousei

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