物識りな亀

s286

第0話

 一読した原稿を整えた亀は、嘆息した。

「ふぅ……久々に珍しい作品にお目にかかったよ。中世のヨーロッパあたりで流行はやった手法にも似ているが……ジョルジュ・バタイユの影響を受けているようなフシも見え隠れする。君、これは五千部刷っても売り方次第ではけると思うよ」

 読み終えた原稿を鶴に渡しながらそれだけ告げると亀は、傍らに伏せてあった本を取り上げて読み始める。

「さすが御大おんたい、出版前の原稿の成否を指南頂けるだけでも光栄ですのに慧眼けいがん、衰えることがありませんな」

 鶴のお世辞に亀がヒョイと目線をあげて微笑む。目じりのしわこそ深いものの笑い方は童子のようだ。

「そりゃあ、アンタも何十年と腕っこきの編集で一線を張っているんだろうが、昔から言うだろう? 『鶴は千年、亀は万年』ってね。年季の違いってヤツだろうさ」

 鶴は何かを言いかけて先にカカカと笑った。

「いやぁ、御大にはかないませんな。ところで…… ワタクシ新年度から編集長の役職を拝命いたしました。 ですので今年の忘年会にはご足労願えませんかね? 新しい担当者との引き合わせを……」

 途中でさえぎったのは亀だった。

「僕はどうもにぎやかな会は苦手でね…… それに君との初顔合わせ、忘れたわけではないだろう? あれは……」

「あー! 大変に失礼しました。 忘れるわけもありません。 ただ、私も編集長を二、三務めたら隠居なので……」

 ここで互いに茶を啜る。無言で最後まで。そして、鶴が湯飲みを洗いに席を立つ。戻ってくると原稿を丁寧に社章の入った封筒に入れて帰り支度を始める。

「今後も事あるごとに寄らせて貰いますよ。先生がいやと言ってもね」

「勘弁してくれ。君は鶴ではなくて蛇なんじゃないかと常々思っていたよ」

 鶴が部屋を辞して独りになると亀は天井を見上げ、回想する。

『文学作品の書評一筋で何年経ったろうか? 星の数ほど文学作品を読み、周辺に群がる書評を精読して戦ってきた。決して筆が早いほうではないからジャンケンでいうところの後出しだと揶揄されたこともあるが……』

 亀の長所は冴え渡る筆力でもないし、批評に際して筆致に生彩を欠くこともあった。まして、直観力でもない。幾人もの同輩と後輩を見送り牛歩のごとく蓄え続けた知識に他ならないのだ……。

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