第9話 神隠し

 スマホの画面を開き、電波が回復していないか確認する。


 圏外のまま。溜め息と共にポケットにしまう。


 もう何度この動作を繰り返しただろうか。




 電波が届かない圏外というのは、場所によっては不安を煽るものだと思う。たかが画面のアンテナが立たないというだけでも、それの意味するところは文明社会から切り離されたということだ。


 神社で圏外の表示を見たとき、その繋がりが切れたようで、何となく心細い気持ちになった。

 うっすらと霧が出ていることに気づいた後はそれが不安に変わった。


 しかしそのときはまだ、楽観視していた。




 三十分後。

 分かれ道に来るたびに細心の注意を払って道を選んで来たはずなのに、見事に迷った。いつの間にか、としか言い様がない。慌てて戻っても遅かった。


 焦りはしたが、まだ冷静だった。しかし同時に、最後の外との繋がりを断たれた気がした。




 一時間後。

 そろそろ下まで来たはずだと、角を曲がるたびに期待する。そして、期待を裏切られ続ける。心のどこかで、そう簡単に下山出来ない可能性を考え始めた。


 携帯の電波が届かないか何度も確かめた。圏外のままだった。




 二時間後。

 足早に参道を下る。幾ら下っても一向に回りの様子に変化がない。そろそろ単なる迷子では説明がつかなくなってきた。神隠しの三文字が頭にちらついて離れない。


 とうとうゆらが、神隠しに遭ったのではないかと発言した。否定はしたが、俺も内心では同意していた。




 三時間後。

 下り続けるが一切の変化はなかった。徒労感が募るが、気にせず足を動かす。何らかの異常事態に遭ったのはもはや確定だった。必死に帰る方法を考えるも、何一つ思い浮かばない。自然と口数が少なくなっていった。


 不安そうなゆらを励まし、気丈に振る舞う。そうしなければ、俺まで不安に押し潰されそうだった。




 四時間後。

 そろそろ日が暮れてきた。闇雲に歩いても無駄だと悟りながらも、足を止めることはない。セミの声が聞きたい。鳥の姿を見たい。そう心の底から思うが、辺りには俺が地面を踏みしめる音のみが響く。


 ゆらがべそをかき始めた。大丈夫だ、出られるはずだと何度も口にするが、半分は自分に言い聞かせていた。俺も泣きたかった。




 五時間後。

 日が暮れかけている。曇り空と霧で夕焼けは見えないが、だんだん薄暗くなってきた。このまま暗くなると動けなくなる。それだけはまずいと焦るが、事態は何も好転しなかった。

 

 強くなる恐怖心とは裏腹に諦めが首をもたげてくる。そんな思いを振り払うように、あと少しで町の灯が見えるはずだと自分に言い聞かせて歩く。


 ……町の灯りは未だ見えない。


 逢魔が時。

 読んで字の如く魔なるものに逢う時間。

 また、神域に繋がる端境だという。

 それを越えれば常夜の世界。

 夜の恐怖が襲ってくる。











 どこかで見たような木があった。


 どこかで見たような石があった。


 どこかで見たような道があった。


 もはや目に映る全てが、そう見える。

 


 「ちくしょう!何なんだよ、何で出られないんだ!?」

 『ユ、ユウ、落ち着いてよお。う、うう。どうしてこんな……』


 焦りが臨界点に達し、若干小走りになってで坂道を下りていた。疲労はあるが、気にしている余裕などない。一種の火事場力だと思う。

 まだ体力には余裕があった。山道を長時間歩いたとはいえ、ほぼ下り坂か平坦な道だ。下に続く道を選んで進んでいるので、上り坂は少なかった。


 ……もっとも、だからよかったとは思えないが。むしろ、これが一番無気味な部分だ。


 ここの参道は基本的に上ったり下ったりは少なく、俺は基本的に下り続けている。そう、この五時間あまりずっとだ。とっくに行きに登った距離など超えている。


 上に行ったり下に行ったりの山道ならば、まだ道に迷っただけだと思えた。しかし高低差ばかりは誤魔化しが効かない。

 すでに登った分の五倍は下りているだろう。それでもまだ降り坂は続く。


 異常だ。



 「まずいぞ……日が暮れる……」

 『そん、な。どうすれば……』


 暗くなる空を見上げ、呻く。俺が持っている明かりと言えば、スマホの画面くらいだ。それも充電は一晩過ごすには心許ない。


 暗くなって身動きがとれなくなるのだけはまずい。寝る場所などあるはずもないし、夜になったら得体の知れない何かが出て来てもおかしくない。夜は古来より魔物の時間なのだ。オオカミやら妖怪やら出て来ても驚かない。

 何より、この場所で夜を迎えると、もう二度と戻れない気がする。


 そう思いつつも冷静な部分では野宿が出来そうな場所を探していた。こうしてる内にも、辺りはだんだんと暗さを増していく。山小屋とは言わないが、ちょうどいい岩などがあれば、休むことも選択肢に入る。街灯のないこの場所で夜歩くのは不可能だ。


 ……もっとも、今山小屋なんて見つけたところで、物の怪が潜んでいないか疑うべきかも知れないが。


 そんなことを考えてしまうほど、この参道は異様だった。見た目だけは登るときに通ったのと変わらない、木々に囲まれた、霧が出ていること以外は普通の参道。しかし纏う雰囲気はもう、この世のものとは思えない。


 『夢じゃ、ないの?これ。ねえ、ユウ?』

 「俺としてもそれを一番推したい。でも、多分現実だろ、これ。こんな無駄にリアルな夢なんかないって。……でもそれ言ったら神隠しも有り得ないよな。ああ、くそっ、どうなってんだマジで!?」

 『本当に夢って可能性はない?ねえ?』

 「夢だったら何も問題ないし、さっさと目ぇ醒めて欲しいけどな。でも夢じゃなかったら本気でヤバいし……」

 『うう……』

 「あと、ほっぺた抓ってみても、普通に痛いだけだった」

 『そ、そうだけどぉ……』


 頬の痛みだけではない。

 

 肌を舐める温い空気。

 溜まっていく疲労。

 冷や汗の伝う感触。

 どれも、現実のものだ。


 「……現実逃避してる場合じゃない。とにかく、早くこのたちの悪い悪夢から覚めないと。もうすぐ日が暮れちまう」

 『そんなあ。うう、こわいよお……』

 「俺もだ。……なあ、代わってくれね?」

 『いやだぁ!お、お願い、それだけはっ』

 「……冗談だ」

 

 怯えるゆらにとっては笑えない冗談だっただろうが、俺にとしても割と本気で磨りガラスの向こう側に引っ込みたかった。それくらいには恐怖心を持っている。まだゆらよりかは落ち着いていられているが、それはゆらのおかげだろう。同じ境遇にある話し相手は、誰であれありがたい。もし一人だったら、今に倍する心細さを感じていたはずだ。


 しかし夜になってしまったら、それはもう怖い云々ではなく、本気で身の危険を感じる。何が起こってもおかしくはない。


 本当に、夢であって欲しい。気が付くとベッドの上だったりしたらどんなにいいか。しかし夢ではないのだろう。今いるこの場所は、リアルだったあの夢とも決定的に違う。リアルを通り越した、単なる現実だ。


 「もうそんなしない内に真っ暗になるな。ああ、くそ。本気で野宿を考えないとまずいのか……?」

 『こ、こんなところで!?何か出そうだよ、ここ』

 「どこもそうだろ」

 『い、一度神社に戻るとか……』

 「……そっちはそっちで何か出そうだけどな、あのボロ神社。て言うか、そもそもここまで五時間くらいかけて下りてきたんだぞ。そもそもたどり着けるわけ……」


 ……いきはよいよいーー


 「……案外たどり着けるのかも知れないな。でも、今から上に行くのか?」

 『それは……いやかな』  

 「俺もかな。……まだ暗くなるまで時間はある。もう少し下ってみようか」


 ただでさえ徒労感が募っているのに、この上スタート地点まで戻ろうとは思えなかった。そのまま下へ下へと歩き続ける。その間も、何か外への手がかりはないかと必死に目を凝らす。


 ……あの木は行くときに見なかっただろうか。いや、さっきも見た気がする。


 ……あの石もそう。さっき通ったような気がしてくる。


 ……そもそもこの道は初めて通る道なのか。いや、もうどちらでもいい。


 ……全て、同じに見える。それならば、どちらでも同じだ。



 頭が痛くなってくる。

 いい加減、この似たり寄ったりな道から抜け出したかった。もうこの際出口ではなく、何か変化のあるものなら何でもいいと思い始めていた。



 ……その思いが通じたのだろうか。



 『あ、あれ!あそこ!ちょっと開けてない!?』

 「本当だ!外が見えるかもな」


 ようやく、小さな希望が見えた気がした。少し先に、木々がない、開けた場所がある。曲がり角になっている部分の外側が少し出っ張っていて、その先に空が見える。木や土に囲まれていない場所はここまで他になかった。

 嬉しさが体を駆け巡り、ダッシュでその場所に向かう。何か見えないかと、たどり着いて辺りを確認しようとしたところで、ひゅう、と息を飲んだ。


 「……湖?」


 下を見下ろしながら、そうつぶやく。霧の向こうに、うっすらと湖が見えた。山のふもと辺りになるのだろうか。そこそこ大きそうで、人の手が入った形跡も無い霧に包まれた湖。夕闇の僅かな光を反射する水面は黒々としていて、ずっと見ていると引き込まれそうだった。


 『こんなところに湖があったんだ……』

 「みたいだな。いや、あったっけ……?」


 夜刀上ゆらの家を探すときに、携帯で調べもした。宮白山に湖などあっただろうか。見たところそこそこ大きく、地図上に乗りそうなものだが。


 『あ、でもあそこ。霧の向こうに何か建っているような……』

 「本当か!どこだ!?」

 『うーん、やっぱり気のせいかも……』

 「霧のせいでよく見えないんだよなぁ」


 こういうとき、携帯で調べられれば……


 「あ、そうだ携帯は……だめか」

 『まだ圏外だった?』

 「ああ」


 仕方ない。また後で確かめよう。

 無事に下山できればの話だが。

 そう思い、一枚だけ写真を撮っておいた。


 「残念ながら町明かりなんかは見えないな。霧のせいか?まあ、プラスに考えよう。……ここ、野宿にはいいと思わないか?」

 『そうだね。……あの湖、河童とかいないよね?』

 「考えるな。大丈夫だって」


 どさりと荷物を下ろす。まだ暗くなるのはもう少し先だろうが、今までこれだけ歩いて出られなかったのが、暗くなるまでの短時間で解決するとは思えない。この場所なら月明かりで多少は明るいだろう。ちょうどよく開けている。


 『はあ、お腹空いたね』

 「一応智惠さんがくれたお土産があるぞ。ただ、飲み物がない。咽渇いたな」

 『うーん、あの湖まで降りるのは……無理そうだね』

 「そもそもお腹壊しそうだしな。それにこういう場合、こっちの物を飲み食いすると二度と出られなくなるって聞いたことがある」

 『ヒエッ、なにそれ……』


 話しながら場所を整える。明るい内に、横になれそうなところを作っておきたい。足で適当に土や枝を除けていく。本当は焚き火でもしたいところだが、生憎とそんなスキルも道具も持っていない。


 「こんなところか。はあ、こうなるって分かってたならマッチくらい持ってきたのになあ」

 『木を擦るとかで火を起こせないかな?』

 「無理だと思う。霧が出るくらい空気が湿気てるし、やり方もよく知らないし。幸い寒くはないんだし、暗いのは我慢するしかないな」


 光源は携帯の光しかない。

 月明かりが明るいことを切に望む。

 せめて充電が保ってくれればなあ、と考えながら、その場にどかりと座り込んだ。


 「はあ、疲れたな」 

 『うん。……帰れるかな?』

 「……さあ。でも案外明日になれば、あっさり何とかなるかも知れないぞ?」


 努めて、楽観的な考えを口にする。


 『夢から覚めるってこと?』

 「そうだな。狐か狸に化かされたみたいに、以外と町の近くにいるのかもしれない。はは、この場合は狐か。朝起きたら神社に来た人に、『何でこんなところで寝てんだ?』って呆れられたりしてな」

 『あはは、それはいいね。恥ずかしいや、何て誤魔化そう』

  

 この神隠しが神様の悪戯程度のことなら、夜明けと共にあっさり戻れる可能性もある。そんな可能性に縋る時点で自力で帰ることを放棄しかけているが、そうでもしないとやっていられない。隠し狐は既に子供一人を隠した実績を持つだけに、俺たちがどうなるかは本当に未知数だが。


 ゆらも無理にでも笑ってくれた。例え空元気でも、気分まで暗くするよりかはいいだろう。そう考え、何か明るい話題はないかと考える。なんなら、帰れた後のことでも話してみようかーーーー



 ーーーー突然、視線を感じた。



 「えっ?」


 バッと立ち上がり来た道の方を振り返る。

 誰もいない。が、さっきまで子供が二人いたような……?


 ……子供が二人?何でそんなにはっきり分かるんだ?


 『どうかしたの?』

 「いや、今何か……」


 生返事のまま何かを感じた方に歩き、今歩いてきた道に目を凝らす。

 誰もいない。なのに、誰かいる気がする。

 視界には誰も映っていないのに、目を閉じると手を繋いだ二人の幼い子供の姿が瞼の裏に浮かぶ。


 『本当だ。……子供?誰もいないよね?』


 ゆらにも見えたらしい。困惑したような声が伝わってくる。矛盾しているような台詞だが、俺も似たような感覚を味わっている。


 「お前にも見えたか」

 『うん。うん?見えたというか……』

 「分かるよ。何か、いる気がするよな」

 『うん。する』


 目を凝らしても、耳を澄ましても、何も見えず、何も聞こえない。それなのに、誰かがそこにいた。

 気のせいだろうとも思ったが、薄らとしたシルエットまで頭に浮かぶ。まるで、影のような。


 ……怪異、だろうか。


 『なんかね、着いてこいって言ってるようにも見えない?』

 「お前、それは……」


 駄目だと言いかけて、口をつぐむ。

 正直、俺も似たようなものをその影から感じた。手招きなど、何かの動作があったわけでもないが、なんかこう……ついてきて欲しそうなのだ。


 「確かに俺もそう見える。だが、ここを離れるのは……」

 『ダメかな?』

 「……どうだろうな」


 たった今場を整えていた場所を見る。野宿することになるなら、この場所から離れるべきではないだろう。この得体の知れない山では、分かれ道を一つ越えただけでもう元の場所には戻れないと思った方がいい。


 それにあの影についていっていいのか、判断がつかない。危険も敵意も感じないが、もしこの影が、さっきまでいもしないのに怖がっていた怪異の類なら、ついていったが最後待っているのは身の破滅だろう。


 くそ、どうする?

 葛藤しながら、影を見ようとする。


 『……』


 一瞬、その影が笑ったような気がした。


 楽しげで、まるで遊びに誘っているかのような。


 でも、どこか悲しそうに俺を見ている。


 その姿なき姿が、記憶の中の誰かと重なった。




 「ーーーーよし、ついて行ってみるか」

 『ユウ?』


 決断は早かった。


 「どっちにせよ、このままさまよい続けたところで出られないだろうし。さっきから何かの手がかりが欲しかったんだ。ついて行ってみよう」

 『うん、そうしよう!大丈夫だよ、きっと!』

 「さて、な。でもまあ、少なくともこの場所に拘る必要はないだろ。ここでなきゃ休めない訳でも無いし、どうせこんな無気味な場所じゃあ眠れないだろうしな」


 荷物を背負い直し、お土産に貰った紙袋も持つ。意を決して、その影が待つ上り坂の方に足を踏み出す。何かの罠の可能性は敢えて考えないし口にしない。そうなったら、そうなったである。影を信じることにした。


 「行くぞ」

 『うん』


 上り坂だが足を鈍らせることはない。何とか暗くなる前にと、薄暗い中を必死で登る。

 相変わらず何もいない。声も聞こえない。

 しかし、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねるように歩く二人の子供が垣間見えた気がする。盲点にでも入り込まれたかのようだ。姿は見えないのに、何故か分かる。


 さっき通った……ような覚えのある十字の分かれ道まで戻ってきた。

 一瞬、見失って慌てて影の姿を追う。きょろきょろと目を皿のようにしながら夕闇の中に目を凝らす。左の道で、誰かが振り返った気がした。ほっという安堵と共に、迷わず左の道を選ぶ。


 『やっぱりついてこいって言ってたみたいだね』

 「だな。こうなったらもう、後は信じてついていくしかない」

 『うん。鬼が出るか蛇が出るか、だね』

 「どっちも出て欲しくはないな……」


 鬼が出て来ても、もう驚かないが。

 もしそうなったら、やっぱり喰われるのかなあ……


 

 










 ときに上り。

 ときに下り。


 影は子供とは思えない早さで歩いていく。その姿を少し息を切らせながらも、朽ちた道を踏み越え追いかける。


 いよいよ闇は深くなる。かなり前が見えづらくなってきた。早く着いてくれという焦りで、自然と足が早くなる。辺りは変わらぬ道が続くまま。しかしさっきからは、下りが続いていた。 


 影は相変わらず、跳ねるように先を行く。

 早く早くと言われているようだ。

 それに応えるように、元気を振り絞る。


 いつの間にか道が比較的しっかりとした石畳に変わっていた。道幅も広く、真っ直ぐになっている。だんだんと希望が出てきた。


 そして、


 『ユウ、あれ!鳥居じゃない!?』

 「鳥居、だな。あったんだ……」


 暗さと霧でかなり見えづらいが、目をすがめて遠くを見る。間隔を空けて立つ鳥居が確かにそこにあった。暗いことを除けば、夢で見た光景と全く同じだ。


 『やった……。ボクたち、帰れるよね。これで』

 「ああ。……あの夢が帰り道だったとしたら、この先は外に通じてる、はずだ」


 胸が高鳴る。

 ようやく外への道筋が見えてきた。

 安堵が体を包み始める。

 あの夢も、こうして下りていた。同じように、この先へ進めば……進めば……?



 ……夢では二人でこの道を歩いていた。


 ……しかし、帰ってきたのは一人だけ。



 「……あれ、大丈夫なのか?これ……」

 『何が?』


 ゆらには何でもない、と誤魔化した。

 どちらにせよ、ここで止まることは出来ない。この鳥居の道が唯一の希望だ。


 ……しかしこの道は、二人ともを帰してくれるのだろうか。この道を通る時点で夜刀上ゆらは俺と一緒にいた。彼女が意識を奪われた、つまり帰れなくなった原因が、もしかしたらこの先に……?


 自然と、体が強張った。


 『ユウ、どうしたの?』

 「いや、なんつーか……。くそ、杞憂ならいいんだけどな……」

 

 緊張しながら、道を下る。

 神経を尖らせ、回りを警戒する。左右の林から何か飛び出しては来ないか、何かがうしろから追いかけては来ないだろうか。

 そして、正面に何かが待ち構えていたりはしないか。


 そんなに俺の懸念を余所に、影は軽やかに階段を下りていく。期待と不安をない交ぜにしたような心持ちでついて行くが、幾ら進んでも何も出て来る様子はなかった。


 はあはあと息を切らせながら走る。

 もう辺りはほとんど夜だ。まだ何とか動ける明るさだが、それもあと数分だろう。

 鳥居の道もかなり進んだ。

 そろそろ終わりが来るんじゃないか。

 そう思い始めたときだった。


 「ゆら、あれって……」

 『明かり……?』


 先に、白い光が見えた。

 足を更に早める。

 光は大きくなり、やがてその向こうに家や車らしき物が見え始める。


 「外だ……!」

 『やった……よかった……!』


 それ以上の言葉は出なかった。全力で階段を降りる。疲労も何もかも、何かがいるかも知れないという懸念さえ吹っ飛んでいた。


 やがて、その場所に到着する。

 真っ暗な林の中の白い光。道は途中で途切れ、一際立派な鳥居が立っている。その向こうには、求め焦がれた町が広がっていた。


 ようやく、戻ってきた。胸がいっぱいになり、涙が零れそうになる。狂おしいほどの安堵が体中に広がり、危うく力が抜けそうだった。あちらが俺の世界なのだ。


 少し手前で走るのを止め、しかし引き寄せられるように最後の鳥居に近づいてゆく。

 白い光をたたえる、少し大きな鳥居。

 これをくぐれば、元の世界だ。



 ……ああでも、最後に。


 鳥居の手前まで来て、そこで一旦振り返り、ここまで連れてきてくれた影を探す。出て行く前に、一言お礼がしたかった。


 「あれ、あの子たちは……」

 『いなくなってる、かな?ボクもお礼を言いたかったんだけど……』

 「いや、まだその辺にいるんじゃないかな」


 元からいるようでいなかった二人の子供は、完全に見えなくなっていた。鳥居から洩れる光で照らされるところには何も見えず、その先は完全に夜のとばりが覆い尽くしている。

 しかし誰かから見られているような、あの視線はまだ感じていた。


 「……よし」


 ふっと笑いがもれた。

 智惠さんから貰ったお土産を紙袋から出し、封を切る。中身はお饅頭だった。

 何やら説明の書いてある紙を皿代わりに数段上の階段に置き、その上にお饅頭を二個乗せる。


 ……あ、多分今、目がお饅頭に釘付けになってるな?


 「連れてきてくれてありがとう!助かった!……これは二人で食べてくれ!」

 『本当にありがとうー!』


 最後にそう言って踵を返す。

 鳥居の中に一歩踏み出した。


 目の前が、光で満ちる。

 思わず、目をつぶる。


 それを境に、明確に世界が変わった。












 「つつ……」


 強い光で目がチカチカする。

 しかし、すぐに慣れてきた。目を細めて回りを見る。目に入るのは家、道路、電柱、車。どこかの住宅街のようだ。


 耳にはセミの鳴き声や車の走る音が聞こえる。気温も高く、暖かい。

 よく見る夏の光景だ。しかし今はそれが、何よりも嬉しかった。


 「戻れた、な……」

 『うん……』


 張り詰めていた空気が霧散し、糸の切れた人形のようにその場に座り込む。忘れていた疲労がどっと戻ってきた。万感の思いを込めて、息を吐く。


 「助かったあ……」

 『うう、ホントよかったよお……』


 ゆらは感極まったのか泣いていた。

 このときばかりは、俺も泣きたかった。


 『もうあの山、二度と行きたくない……』

 「……同じく」


 一も二もなく同意し、後ろを振り返る。

 そこには住宅街が広がるだけ。


 俺たちが出て来たはずの鳥居も林も、影も形もなくなっていた。

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