第3話 明晰夢
階段ををコツコツと下りていた。石を敷き詰めただけの、年季の入った粗末な石畳の階段。不思議と歩きにくさは感じない。
歩きながら辺りを見渡す。まわりには苔むした木が生い茂り、加えて深い霧も出ていて、視界が利かない。
左右の森は数十メートル先すらよく見えない。正面の石畳は見通せるというのに、おかしな霧だ。
無気味さは感じない。しかし心細さを感じる。入っては行けない場所に迷い込んだような。随分遠くまで来てしまったような。
肌で浮き世離れした空気を感じる。空気からして違う。本当にこの世のものなのか、今の世のものなのか、怪しくなる。
山道を下っていた。雰囲気的には神社の参道だろうか。そう思って前を見ると霧に紛れて鳥居が見えてくる。やっぱり参道か。
階段を下りる。さらに鳥居が何本か連続して現れた。千本鳥居という奴だろうか。それにしては間隔が広い。
こんな雰囲気を神秘的と言うのだろうか。深い霧と辺りの木々も相まって、そんな光景が生まれている。
ああ、つまりこれは、
……夢、か。
しかも明晰夢である。はっきりと夢だという自覚がある。
付け加えると、三日前に見た夢とまったく同一の夢だ。見るからに歴史のありそうな、山の中の古い参道を下る夢。無限に続いているようにも感じる、鳥居の立ち並ぶ参道を歩いていく。
「ーーーーーー」
耳に痛いくらいの静寂を裂いて、足音以外にも聞こえる音があった。
子供の声だ。それも、二人分。
前を見る。何もない。違う。少し目線を下に向ける。いた。
二人の幼い子供がそこにいた。
三歳くらいの男の子と女の子が手を繋いで歩いている。
仲良く話しながら、二人で振り子のように大きく手を振り、俺の少し前で参道を下りている。短い足でも段差をものともせず、ぴょんぴょんと弾むように歩いていく。仲むつまじい様子は微笑ましく、懐かしい。
ーーーー懐かしい?
男の子の方は、俺だ。幼くてもさすがに分かる。短めの髪にロゴマークの入ったボーダーシャツ。女の子に手を引かれて、楽しそうに石畳を歩いている。
じゃあ、この女の子は……?
白いワンピースをきた、可愛らしい少女だった。白く細い手足に、華奢な姿。将来が楽しみになるような、整った顔立ち。つやのある長めの黒髪は遊び回ったからか少々乱れている。手には枝のようなものを持ち、上機嫌な様子。まるで絵本から飛び出してきたかのような、可憐な女の子だ。
見覚えはない、と思う。しかしやはり、この光景自体になぜか懐かしさを感じる。
『…………』
ふと、気配を感じた。昔の俺とワンピースの女の子から目を離す。
視線を左に持っていく。なぜ気付かなかったのか。そこには、俺と並んで参道を下りる者がもう一人いた。
思わず目をむく。そこにいたのは俺だった。俺の姿がそこにあった。
まさかの三人目だ。そちらは今の俺、つまりは高校三年生の、十八歳の姿をしている。来ている服も寝間着のままだ。
そいつはニコニコと参道を下る子供たちを見ていた。何の邪気もない、純粋な笑顔。その表情にどうしようもない違和感を感じる。こいつは本当に俺か。俺の笑い方とは、違うくないか。
『ーーーー見ていて微笑ましいけど、なんかこう、引っかからないかなーって』
その笑顔に、アイツの声が重なった。
お前は、アイツなのか。
そうだ、俺の姿をとっていても、そんな顔アイツにしか出来ない。俺には無理だ。
『ーーーー』
声をかけようと、息を吸う。しかし、そこまでだった。
耳障りな音が聞こえる。夢から離されていく。現実が戻ってくる。
最後に、前を歩く二人が振り返ったような気がした。
夢が、終わった。
ジリリリリーーーという音が耳に響き、視界に見知った天井が映る。
むくりと起き上がり、ガンと目覚まし時計を止める。いつも通りの時間。どうせ練習などの予定はないのだが、いつもの癖で同じ時間に設定している。この日ばかりは、もっと遅く設定しておくんだったと後悔した。
あの夢はもう少し、長く見たかった。三日前と同じ夢。それも三日前よりはっきりと、くっきりと、細部まで覚えている。ますますただの夢とは思えない。いや、絶対にただの夢ではないと断言してもいい。それほどまでに現実味のある夢だった。三日前とは比べものにならないほど、リアルだった。
『うーん、もう朝かー。ふぁ、おはよう』
一人の部屋に、間の抜けた声が響く。このアイツと同時の起床にも既に慣れた。そろそろ起床の前にいつも通りの、をつけてもいいかも知れない。布団を脇に除けながら『おはよう』と返す。
三日前と同じくベッドに腰掛け、石畳の参道を下る夢を思い返す……いや、その前に。
「なあ、お前も今日、山の中の参道を下る夢を見たりしなかったか?」
夢の余韻に浸る間もなく、寝起き早々突然の質問をする。これが非常に気になって、思わず声に出していた。夢の中で俺の隣にいた俺がもしコイツなら、同じ夢を共有していたはずだ。
果たして、
『あ、見たよ!キミも見たの?あの鳥居がたくさんある……。いやー、それにしても、あの子たち可愛かったよね!っていうか、左にいた男の子ってボクたちだよね?』
『多分そうだ。あの服って確か、昔よく着てたやつだよな。アルバムで見た覚えがある……。しっかし、そうか。お前も見てたんだな』
間違いなく、同じ夢。やはりあそこにいた俺はコイツだったのか?もしそうなら……。
『なあ、隣に俺がいたか?』
『え?どういうこと?』
『いや、俺も同じ夢を見たんだけどさ。隣には多分お前が歩いてたと思うんだよな』
『え、そうなんだ。うーん……、あー、ごめんね?そういえば隣を見た覚えはないなあ』
『そうか。しかし、いなかったわけでもないんだよな?』
『うん。もしかしたらいたのかも』
どっちつかずの答えだった。
同じ夢を見たのは確定でも、同じ夢を違う視点から見たのかは分からない。今のところは保留としておこう。
しかし改めて、妙に実感のある夢だった。しかも明晰夢。そしてアイツと同じ夢。その時点であの夢と俺が二重人格になったことに関係がある可能性が高まった、ように思う。
もし手がかりがあるなら、探ってみたい。
というわけで、アイツにも説明し、協力を求めておく。
『……と、思うんだ。もちろん俺がそう思っているだけで、本当に単なる夢って可能性もあるんだが、一応あの夢に関しては気にかけておいた方が良いんじゃないかってな。なあ、お前は何か他に、あの夢のことで気付いたこととかってないか?』
『え、それは……。んー……。ごめん、今は思いつかないや。何か分かったら言うよ』
『まあ、夢のことなんて俺もよく分からん……むしろ、分かったから何だって話だしなあ。しゃーない、取りあえずはアルバム見て、夢の中で着てた服の確認とかしておくか』
『そ、そうだね。アルバムは机の左の棚の奥だよね。見てみようよ』
『いや待て。それは卒アルとかの学校関係の置き場所だ。あの年頃のアルバムなら多分和室の押入に……いや、』
アルバムの場所を思い出しつつ、腰を上げ……ようとして、動きを止めた。さっき叩いた目覚まし時計に目を向ける。7時半少し過ぎ。この前と違い遅刻の心配はないが、母親が朝飯を作ってくれているのは同じだ。さっさと行かないと冷めてしまう。
『その前に下、降りるか。アルバムは逃げやしないし、あまり遅いと母さんが起こしに来る』
『あ、うん。そうだね』
準備をするために立ち上がり、三日前はすっげえ混乱してたっけなあ、とか思いながら部屋を出る。
『……あはは、そういえばこのやり取り、最初の日にもしなかったっけ?』
『はは、それ俺もさっき思った』
『あ、やっぱりそう思う?』
『思う思う』
この生活の初日を思い出していたのは俺だけではなかったようだ。何となく三日前を思い返して言葉を重ねて見ると、アイツものってくる。案外ノリの良い奴だ。
二人で、クスリと笑った。
もしかしたら、と少し思ったが、今日は父の出勤とバッティングすることはなかった。俺が下りる少し前に出たらしい。ついでに母さんもいなかった。
いつも通り顔を洗い、席に着く。いつも通りのパンと目玉焼き、それに昨日の残り物のしょうが焼き半分が机に準備してあった。そこに自分で牛乳を注いで、席に着く。
食べようと箸を手に取ると、外に行っていたらしい母さんが戻ってきた。ゴミを出しに行っていたのだろう。どうやら今日は、父の出勤に間に合わなかったようだ。
「あ、ユウ。起きてたの。おはよーさん。ご飯出来てるわよー」
「おはよう。もう食べてるよ。ゴミ出し行ってたの?」
「そうそう。帰りに偶然ご近所さんと会って、ちょっと話し込んじゃってね。あ、そうだ、シーチキンサラダの残りもあるんだけど食べる?」
「んー、じゃあ貰おうかな」
俺がそう言うと、母さんは冷蔵庫からサラダを出してくれる。コトリ、と冷えた皿が置かれ、同時にアイツから面白い発言が飛び出した。
『昨日食べたご飯をもう一度食べられるなんて、何か得したような気がするね!』
『お、おう。はは、眩しいなー、その考え。いや、俺も文句があるわけじゃないけど、残り物としか思ったことなかったな』
母さんのみならず世の主婦が聞いたら大喜びしそうな台詞だ。聖人か。俺もこんな考え方してみたい。
『残り物って……。とっても美味しいじゃない?もう少しゆっくり食べても良いと思うよ』
『いや、もちろん美味しいとは思うぞ。思うけどなあ……。まあ、食べ慣れた味だし。アルバムの方も何だかんだで気になるから、手早く食べようと思ってたんだ。言っても朝練あって時間に余裕がなかったときと、そんなに変わらないと思うが……』
『あんまりやると咽に詰まるよ。味わって食べよう?』
『いや、サラダは詰まらないだろ』
『つまらなくないよ!おいしいよっ!』
『揚げ足をとるな』
そっちのつまらないじゃねえよ、とツッコミたいところだが、実はもう少し変化が欲しいと思っていることは内緒である。何事も大いに楽しんでいそうなコイツがちょっぴり羨ましくなってきた。
しかし、忘れていたが味覚は共有なんだった。コイツは食べ慣れているどころか、ご飯を食べること自体三日前が初めてである。食事をゆっくり楽しみたいと思うのは当然か。
『そういや、お前も味わってることを考えてなかったな。すまん』
『いやいや、食べるのはキミのペースで良いんだよ。早く食べても味は一緒だしね。ボクもアルバムは気になるし』
コイツの遠慮は無視して、食べるペースを落とす。コイツのこういう場合の意見は信用できない。素直に見えて変なところで素直じゃないやつだ。
ほら案の定、嬉しそうじゃないか。
『ありがとうね。でも、もーちょっと早くても大丈夫だよ。ボクもアルバムが気になるのは事実だしね。あ、そう言えば、あの女の子のこととかお母さんには聞いてみないの?』
『え?』
『いやほら、もし昔あったことを夢に見てるんだったら、お母さんが何か知っててもおかしくないかなーって』
『……確かに。ありがとう、すっかり見落としてた』
思わず目を瞬かせた。コイツの言う通りだ。アルバムより先に母さんに聞いてみるべきだった。むしろなぜ気付かなかったし。
一旦食べるのを止め、さっそくキッチンの後片付けをしている母に声をかける。
「母さ-ん、ちょっといい?」
「何?ちょっと今手が放せないんだけど」
「いや、大丈夫。ちょっと聞きたいことがあるだけ」
「良いわよー。何?」
「あのさ、かなり昔のことなんだけど、俺って三歳くらいの頃に、どっかの神社で同い年くらいの女の子と遊んだ事ってなかったかな?白いワンピースの」
「……!」
母さんはかなり驚いたようだった。世話しなく動かしていた手を止めてこちらに振り向く。目を大きく開いて口が少し開いていた。こういう母さんの表情は珍しい。久々に見る。
「母さん?」
「はっ。えー、うわ驚いた。ユウ、あんた覚えてるの?……それ多分トモエ先輩のとこと会ったときよね?」
「あ、やっぱりあるんだ」
「あるけど、もう十五年くらい前じゃない?えー、あんな小さかったのによく覚えてたわねー」
「いやあ、昨日ふっと思い出して、少し気になったと言うか……」
昨日と言うより今朝だが、まあ些細なことだ。この辺りをあまり突っつかれても面白くないので、先を促す。
「それで……えと、トモエ先輩って?」
「わたしの大学のときの先輩よ。平野……は旧姓だから、今は夜刀上(やとがみ)智恵先輩ね。前にわたしが先輩を訪ねたとき、先輩の家の近くにある神社に一緒に行ったの」
「じゃあ俺と同い年くらいの女の子は……」
「ゆらちゃんね。先輩の娘さん。ユウと同い年よ。写真も一緒にとってたから、アルバムを探してみればあると思うけど」
アルバムに写真があるらしい。それは是非とも確認したい。後で探そう、と心に決めるが、それ以上に、母さんの表情が気になった。
最初に驚いた顔をしたあと、懐かしむような表情に変わったが、一貫して眉根が寄っていた。細かいポイントだが俺には分かる。これは何かしらマイナスなことがあったときのサインだ。
胸がざわついた。
「その、夜刀上ゆらちゃんと神社で遊んでたのか。俺はあんまり覚えてないけど、どんな様子だった?」
母さんの眉間に、更にしわが寄った。表情が懐かしい、から別のものに変化しつつある。話していいのか、と躊躇っていそうな顔だ。
「うーん、あんたに話すのはちょっと躊躇われるんだけど……」
言われた。やっぱり。
「ええ、初対面だったけど、すぐ仲良しになってたわよ。どっちも人見知りしない性格だったしね。忘れたかもしれないけど、ユウもゆらちゃんに手を引かれて、あちこちはしゃぎ回ってたわよ?ゆらちゃんもあなたをお気に入りの場所に案内しようと張り切ってた……」
そこで母さんはいったん言葉を切った。目線が斜め下を向き、小さくため息をつく。そんな母の、普段は見ない所作に自然と身構えてしまう。
そして小さな声で最後の一言を付け加えた。
「……本っ当に、とっても元気な子だったんだけどね……」
「ちょ……」
元気な子だった。
過去形。
とんでもなく不安を煽るフレーズだ。
今は、どうなのか。
聞くのが躊躇われる。
「あー、もしかして病気、とか?」
さすがに、真っ先に頭に浮かんだ可能性を口にするのは憚られた。
こくり、と母さんがうなづく。よかった。少なくとも生きてはいるようだ。
「病気……と言うか、昏睡状態でね。一向に目が覚めないそうなの」
「え……」
昏睡。
その言葉に、体が凍りついた。
否応なしに俺の中にいるアイツを意識してしまう。アイツも動揺しているようだ。オロオロしているのが伝わってくる。
……今までは俺の二重人格について、夢に出てきた少女が直接関わるなんて思ってなかった。ただ単に、変な夢を見た翌日に二重人格になったから、そのきっかけになった可能性のある夢について調べようと考えただけ。
その少女は昏睡状態だった。
あり得ないだろう、と思いつつも、一つの可能性を考えてしまう。
まさかとは思う、しかし、もしかして、ひょっとすると、コイツの正体って……
そんな非科学的な、と自分で自分に突っ込みつつも、聞かずにはいられない。
「あー、もしかして、その。……その女の子の昏睡状態って三日前からだったり、する?」
聞いた声は、少し震えていた。
いやいやまさか。そんな可能性あるわけない。ばかばかしいにも程がある。昏睡状態の少女の意識だけが俺に取り憑いてるだなんて、そんなオカルトチックなことあるはずない。ないよな?
理性が否定するが、感情が否定しきれない。固唾を吞んで母を見る。
「違う違う。そんな最近じゃない」
出てきたのは否定の言葉。
違ったか。
ふっと強張っていた体が緩んだ。
しかし、次の母の次の一言で再び凍りつくことになる。
「忘れもしないわ。さっき言った、あなたと遊んだ日よ、ゆらちゃんが意識を失ったの。大騒ぎになったんだから」
「ーーーーっ!?」
絶句した。
これはこれで、何らかの因果を感じずにはいられない。
頭の中で、母の言葉がぐるぐる回る。
……まさか、ね。
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