第2話 交流と暗雲
走る、走る、走る。
足が痛む。胸が苦しい。心臓は破裂しそうだ。
一歩、一歩、足を踏み出すたび、怠さと苦しさが混ざったような疲労感が襲ってくる。
体が悲鳴を上げている。もうやめろ、これ以上走るなと、訴えかけてくる。
『ーーーー』
視界が狭くなる。自分のゼエゼエという呼吸が、随分と大きく聞こえる。
足が鉛のように重い。
最初はペースとか順位とか、色々考えていたはずだ。しかしいつの間にか後何周か、なんてことしか考えられなくなっていた。
『ーーーー!』
前には、スタート直後から必死に食らいついていった選手が居る。彼は他校の駅伝メンバーだった。正直、格上の選手だ。そろそろ、ついて行く限界が来てるかもしれない。
ああ、仕方ない。ここからは自分のペースで行こうかな。そんな誘惑が、頭の片隅に毒のように染み込んだ。
……本当、あと何周だよ。序盤、けっこう飛ばしたよな?少しペースを落とそうか。それでもそこそこタイムでるんじゃないか?
『ーーーれ!』
……駄目だ。スタミナがもう無い。ここで少しペースダウンしなきゃ多分後でブレーキになる。元からこの選手について行くのは無茶だったんだ。ここまでついて行っただけでも、よくやったほうだ。
『ーーばれ!』
……あ、あの黒ユニフォームの選手もスタミナ切れかな。もうすぐ追いつく。
ちょうど良い感じのペースだな。次はこの人のペースに合わせようか。
……よし、追いついたーーーー
『がんばれ!』
『っ!』
アイツの声援がはっきり聞こえた。
必死な声を聞いた瞬間、どこかもやが掛かっていたような思考が一気にクリアになる。と、同時にペースを変えるタイミングを逃した。
『がんばって!キミならもっと行けるよ!』
簡単に言ってくれるな。もうホント限界で……。
『後少しだよ!がんばろう!』
まだ1000メートル以上あるんだが……。
『キミなら大丈夫だよ!がんばれー!』
ああ、まったくもう……。
こっちの気持ちも知らないで、まったく。
何でそんなに、必死になれるかなあ……?
『行ける行ける!ゴールは近いよ-!』
……。
…………。
敵わないな。
こういうの、やっぱり嬉しい。
力が湧いてくる、気がする。
……ああ、やってやろーじゃん。
『がんばれっ!!』
『ああっ!』
誕生日から三日たった。
つまりは同時に、俺の二つ目の人格が現れてから三日たった日でもある。
この状態にも慣れてきた。もう突然アイツに声をかけられたところで、驚いてしまうような事も無い。頭の中での会話に集中し過ぎてついボーッと動きを止めてしまうことも……いや、それはまだ少しあるか。
天気は晴れ。夏の日射しが眩しい今日この頃。セミの鳴き声響く夏休みの真っ只中。俺は市内の動物園に来ていた。
……一人で。少なくとも人から見れば一人で。子供連れが多い中、ちょっぴり疎外感を感じなくもない。
今日来たのはかなりの規模の動物園であり、夏休みということもあってそこそこ混んでいた。夏の暑さに加わる忙しない熱気につい圧倒されそうになる。ここも昔はよく来ていたが、今となっては随分と久しぶりだ。まさか今日来るなんて思っても見なかった。
と、なんとも言えない懐かしさを感じていたのだが、そんなノスタルジックな気持ちに割り込む声があった。
『ねえねえ、次はどこ見に行こうか。ボクとしてはラクダを見に行ってみたいんだけど、どうかなぁ?あ、あとカワウソとかも』
『有名どころが割と揃ってる中でそのチョイスって……。ま、俺は来たことあるから任せるよ。あ、いや待て。ラクダは遠いから、近くのから順に見ていった方が良いぞ』
はーい、と楽しそうな声。アイツは嬉々としてパンフレットを眺め、見に行く順番に頭を悩ませている。時間はたっぷりあるのだから、適当に回っても大丈夫だと助言してやった。
やや間を置いて、アイツは意気揚々と鳥類エリアに足を向けた。足取りは軽く、見ていて……と言う表現が正しいかは分からないがとにかく微笑ましい。まるで初めて動物園に来た子供のようだ。いや、考えようによっては実際にそうなのかもしれない。
今日の主役はコイツだ。俺は単なる付き添いにも等しい。
実は昨日、何かやりたいことはあるか、と希望を聞いてみたのだ。その答えが『動物園に行ってみたい』だった。
俺は既に体の主導権を渡し、行動をこの元気な第二人格に任せている。五感の情報は入ってくるが、同時に一歩離れた場所から自分を見ているような、不思議な感覚があった。アイツの言葉を借りればガラス一枚隔てたようとでも言うのか。中々に的確な表現だと思う。感覚はあれど、しかし同時に壁を感じる。どうにもこれは慣れない。
『楽しそうで何より。俺も何だか昔を思い出すな』
『すっごく楽しいよ!ありがとね、連れてきてくれて』
『かまわないって。部活終わって、もう暇だしな』
そう、部活は終わったのだ。そのことを引き合いに出すと、自然と昨日のことを思い出してしまう。
部活動は、昨日が引退試合だった。毎日のようにあった練習はもう無い。やり切った達成感もあれば終わってしまったという虚脱感も感じる。まだ懐かしむような段階ではないが、一週間もすれば物足りなさを感じるようになるのかも知れない。
そして今は夏休みの真っ只中。ぶっちゃけ暇である。いや、もちろん次は大学受験に向けて勉強を始めなければならないのだが、俺は成績には余裕がある方だ。束の間の自由を好奇心旺盛な同居人のために使うくらいの時間の余裕はある。
『と、言うわけだ。今日は何も気にせずに楽しんでくれていいぞ』
『ありがとう!キミも楽しんでね!』
『ああ……』
ゲージの中にいるワシの仲間を食い入るように見つめ、かなりゆっくりと時間をかけて眺めてから次へ移る。ときどき飛び立つところや餌を食べているところを見ると、頭の中で小さく歓声を上げていた。こんなにも真剣に見てくれる客は、飼育員にとってもさぞ嬉しいことだろう。
俺の視界にも同じ物が映るが、残念ながらコイツほどの興味を持てなかった。せっかくならコイツの言ったとおり、久しぶりの動物園を満喫したいところだが、コイツの一カ所での見学時間がかなり長いのだ。必然的に思考があらぬ方向へと向かってしまう。
考えるのは昨日のことだ。
昨日走った高校の部活動最後のレース、5000メートル走。結果は新記録達成。それもタイムを20秒以上縮めるという有終の美を飾ることが出来た。
自分でも、頑張ったと思う。頑張ったとは思うが、しかし自分が頑張れたのは、アイツの応援のおかげだった。アイツは自分のことのように必死に、真っ直ぐに応援してくれた。……いや、自分のことか。
まあ、いつもなら諦めてしまうところで奮起できたのはアイツの声援があったからこそなのだ。今回わざわざ希望を聞いてここに連れてきたのは、そのお礼のようなつもりでもある。
……お礼。お礼か。
そういえば俺はコイツに、あの時の感謝を伝えただろうか。弾んだ声で『連れてきてくれてありがとう』と言うコイツの姿を見ると、不安になってくる。
本当、お礼のつもりもあったんだし、そんなこと気にしなくて良いんだけど。
『……何つーか、こっちこそ、ありがとうな』
『えっ?何が?』
気付くと、そんな言葉がこぼれていた。改めて言うのは少々照れくさいものだ。聞き返さないでくれよ、まったく。
『ほら、昨日の5000メートル走のことだよ。頑張れって応援してくれただろ。それのこと。おかげで良い終わり方が出来た。ありがとうな』
『ええっ、あれのこと?いや、そんな。ボクなんて、ただ騒いでただけで、何もしてないし……』
『まあ俺にとってはデカかったんだ。多分あれがなかったら記録が落ちてた。下手に謙遜せず受け取ってくれよ』
『そ、そう。それなら……』
『どういたしまして』と、ソイツは照れたように笑って言った。やっぱり素直なやつだと思う。端から見れば突然笑い出したようにしか見えないのがちょっとアレだが。
こちらも同様に感じている照れくささを隠すように、俺はソイツの注意を外へと向けさせた。
『……しかし、いいのか?ワニ池を素通りしてるが』
『へ?あっ』
後ろを振り返ると、立ち寄っていない柵と人だかりが見える。会話に集中していたために、つい見落としてしまったようだ。
ちょっと恥ずかしそうに笑い、踵を返す。ワニは見たい動物の一匹だったらしく、少し早足で移動し、手すりに寄りかかるようにして中を見た。こちらは檻ではなく、低い位置にある飼育場を上から眺めるようになっている。何匹かのワニが見え、アイツが小さく歓声を上げた。
凶暴なイメージのあるワニだが、のんきに岸辺で寝転がっている。迫力はともかく、見学しやすい。
『……動かないね』
『変温動物だし、この暑い中あんまり動きたくないのかもな』
『変温動物……』
『どうした?』
『いや、そう言えばあと半年くらいで受験があるなって』
『もし手伝えるならそれは手伝ってくれお願いしますマジで』
心の中で土下座した。これに関しては、頼るのに何を迷うことがあろうか。
ワニ池の次はさっき行きかけていた方に戻った。その先にあるのはは虫類館。入ってすぐムスッとした顔のイグアナやカメレオンが出迎えてくれる。
しかしそれ以上に思うことと言えば。
「涼っしい!!!」
『本当、夏にクーラーの効いた室内に入るのはなんとも言えない快感があるよな。あ、でもあんまり一人で騒ぐのは控えてくれよ。恥ずかしいし』
「あ、ごめんね。気を付ける」
は虫類館は温度がかなり低めで少しひんやりとしていた。クーラーは偉大である。もっとも、今の俺はその辺の温度変化もあまり直接的には感じていない。しかしアイツは軽い感動を覚えたようで、至福の感情を浮かべている。
しばし堪能したあと、汗を拭ってからようやくカメレオンのゲージに向かった。
木に掴まってじっとしているカメレオンをじっと観察する。目だけがギョロギョロと動いていて、正直言って不気味だった。体色は緑で、変化する様子はない。
『……色、変わらないね』
『ま、そうコロコロいつも変える訳でも無いんだろ。ゲームなんかのキャラクターじゃあるまいし』
『やっぱりそうなんだ。色変わるところ、見たかったんだけどなあ。……しかも動かないし』
『確かに、あんまり動き回っているようなイメージは無いよな。エサを食べるときなんかはベロを伸ばすのとか見れるかも知れないけど』
『うーん、じゃあもう良いかな……』
期待はずれ、というような感じにゲージから離れ、次はイグアナ、トカゲの仲間、ヘビの順に見て回る。さっきまでに比べると少しペースが早かった。
『なんか、ここは少し進むの早いな。別にいいけど』
『え、ごめん。何か見たいのがいた?』
『いや、だから別にいいって……』
イグアナはカメレオンと似たようなもの。トカゲは愛嬌がある気がするが大きさと色以外、つまりフォルムの部分は近所で見かけるものと大差ないと思う。
特段見たいと思うものがあったわけではない。ふとそう思っただけである。
『そこまで気を遣ってくれなくても、今日は自分のペースでじっくり楽しんでくれたらいいぞ。ただ単に、少し気になっただけだ』
『そう?ありがとうね。しかし、気付かなかったな。ペース早くなってたんだ。うーん、別に意識してた訳じゃないけど、考えてみるとここら辺の動物は苦手意識があるような気がする……かも。それでかな?』
『え?苦手?トカゲとかヘビが?』
『そこまで嫌なわけではないけど、ほら、そこのヘビとか何かぞわっとしない?』
『え?しないけど?』
『そう……』
俺の指が指した方には、白いニシキヘビがいた。珍しいアルビノの個体だと説明がある。俺もじっくりと眺めてみるが、コイツの言うような感覚は無かった。むしろ綺麗だとすら感じる。金運とか上がるかもしれない。
……二重人格とは、動物への苦手意識まで変わるものなのか。いや、これに関しては味覚が変わってたりしたので今さらかも知れない。俺は茸類がどうにも苦手だが、コイツは昨日、美味そうに平らげていた。
ここまで来ると、もしかして運動神経や学習能力にも差があるのだろうか。色々と調べたくなってくる。俺は文系だが、もしコイツが理系だったりしたら、勉強がはかどる。センター試験は貰ったも同然だ。
……いやいや、捕らぬ狸の皮算用はよしておこう。
『……ま、まあトカゲはともかく、ヘビは生理的に無理って人も多いよな。俺はあまりそうは思わないけど、やっぱ毒があるイメージが強かったりするのかもな』
『うーん、毒……?いや、そういうイメージじゃなくて、なんかこう……あー、上手く言い表せないなあ』
『んじゃ動きかもな。俺もムカデとかゴキなんかは……。いやいや、思い出したくもない。次行こう次』
『うわあ、ボクも思い出しちゃった。おばあちゃんちで足に……』
『言うな。次、行こう』
ここら辺の苦手はさすがに共通のようだ。嫌な思い出のせいで二人してテンションを下げながら次に進む。鎌首をもたげたヘビが嘲笑ったように見えた。
まあこの辺の感覚が同じなのは当然と思うと同時に安心した。幾ら感覚がガラス越しとは言え、俺の手でゴキやら蜘蛛やらを触られたら嫌悪感で死ぬかもしれない。
こちらも見ていて動かないカメ類や、両生類だが展示されていたカエルなどを一通り見て回り虫類館をあとにする。一気に夏のうだるような高温が戻ってくるが、涼しい中にいた後だとむしろ心地よさを感じる。もっとも、少し歩いたらまた暑くなるのだろうが。
外に出たところでアイツはぐっとのびをした。
「んっん……。よっし、次どこ行こうか」
『このまま西に行ってキリンとかを見てからラクダまで行けばいいんじゃないか?それと、さっきも言ったけどあんまり独り言は控えてくれるとありがたい』
「あっ」『ごめん、つい……』
『いや、別に俺が少し恥ずかしいなって思うだけで、何か実害があるわけではないから、小声でなら話してくれても……』
そこまで言って、ふと気付いた事がある。
俺との会話の途中で、つい声を出してしまったというのも分かるが、しかしそれ以上に、コイツは内心では声を出して話したいと思っているのではなかろうか。
コイツは記憶を持ってはいても、実感を持たず、日常の全てが真新しく思えるらしい。ならば声を出すという行為も、まずそれに含まれるだろう。
家族や友人との会話は、当然俺が担当していた。頭の中での会話は、この三日間でさすがに慣れただろう。それならせめて俺くらいは、自身の喉を使った会話に付き合ってやるべきかも知れない。
『……よし、声、出していいぞ』
『え?でも、』
『そのかわり、ポケットのスマホを耳に当てといてくれ。それだけでいいから。そしたら別に独り言じゃなくなるだろ?』
『あ、なるほど!』
弾んだ声と共に、アイツは嬉しそうに黒いケースに入ったスマホを取り出した。わざわざ操作する真似をして、しかし三回ほどタッチしただけですぐに耳に当てる。この間実に約三秒。
「もしもーし!聞こえる-?」
声がでかい。
『聞こえる聞こえる。大丈夫だって』
「うわあ、なんかこれ、本当に電話しているみたい……。て言うかボク、初めてスマートフォン使ったかも。エヘヘ、これでボクもスマホデビューかな?」
『いや、電源入れてないし……。別に使いたいなら言ってくれればいいのに。調べてみたいこととか、やってみたいゲームとかあるだろ。……ん?』
「どうしたのー?」
そこで気付いた。コイツはスマホを左の耳に当てている。そこに違和感を感じる。
そういえば俺は普段電話するときどうしてたっけか。頭の中でシミュレートしてみるが、最近はあまり通話を使っていなかったからかパッと出てこない。
『悪い、いったん代わってくれないか。少しでいいから』
「え?いいけど……」
了承の声が聞こえたと同時に、グイッと引き戻されるような感覚があった。壁の向こうにあった感覚が戻ってくる。うわ、暑い。
いったんスマホをポケットにしまう。右ポケットが定位置だ。取り出して耳に持っていく。……右耳だ。
スマホをどっちの手で持つか、なんて些細なことではある。しかし俺と同じ記憶を持っているはずのアイツが左手で持ったということは。
「……なあ、お前は利き腕、どっちだ?」
『え?ええと……ちょっとごめん』
さっきとは逆。押し出されるような感覚と共に俺は奥に引っ込んだ。再び感覚に壁が現れる。そしてアイツはというと茶碗を持ってご飯を食べるジェスチャーをしていた。箸が左、茶碗が右だ。
「左利きだね!あれ?」
『………………』
「ん?急に黙っちゃってどうしたの?」
『……いや、何でもない。俺は右だ。まさか利き腕すら逆とはな』
「本当だ!うわー、なんかすごい」
アイツは呑気に箸を持つまねをして、左右を確かめては楽しそうに笑っている。俺としても不思議だ。二重人格ってそこまで変わるものだろうか。専門に研究している先生がいたら是非とも相談したいところだ。
……と、呑気に首を捻っていたかったのだが。
『(いや、そんなことよりも……さっきのあれは……)』
俺はとてもそんな気分ではなかった。というか、戦慄していた。もし今俺が表に出ていたならば、青い顔をして鳥肌を立てていたことだろう。
もちろんコイツと俺との違いについても気にはなるのだ。しかし今重要なのはそっちではない。
……今まであまり考えないようにしていたことがある。はっきりとは分からないことを理由に逃避していた現実がある。が、さっきのは決定的で……。
「んー……」
『……ところで、何で飯を食うジェスチャーを続けてるんだ?』
「いやー、なんかお腹減ったなって」
『もうすぐ昼だしな。ラクダまで行ったら、いったん休憩にしないか?』
「そういえばあの辺にレストランあったよね?よし、行こう!」
まあ、今はいいか。
はしゃぐコイツを見てるとそう思えてくる。よし、後で考えよう。別に今すぐ問題になることじゃない。……人はこれを逃げと言うのだろうが。
そう決めた俺はその後、時折相方の動物見学に茶々を入れながら一緒に動物園を見て回った。キリンやら象やらの姿を見て感想を言い合ったり、最後に売店で三十分以上も時間をかけてお土産を選ぶアイツを窘めたり。何だかんだで俺も、久々の動物園を楽しんでいたようだ。
結局閉園近くまで遊んでから動物園のゲートをくぐる。一度見たところを二度まわったり、お土産選びに手間取った結果、こんな時間になってしまった。携帯で母親に少し遅くなる旨を告げて、駅まで歩き出す。
帰り道は自然と口数が少なくなる。コイツも何もしゃべらないでいる。夕方の茜色の空に目を奪われているのか、はたまた象の大きさでも思い返しているのか。
俺も考え事に没頭していて口を開かない。夕陽が醸し出す寂寥感が、考えないようにしていた現実を浮き彫りにする。思い返すのはスマホをめぐって俺がいったん表に出たときの事だ。うすうす察していたことがあったが、あれは決定的だった。
……おそらく、この体の主導権は俺ではなくアイツが握っている。
あのとき、俺はアイツに頼んで交代して貰った。じゃあもしアイツが体を渡すのを断り、主導権争いが起きたらどうなるのか。考えるだに恐ろしい。恐ろしい、が……おそらく勝つのはアイツだ。
今までは両者が代わろうと思えば代われるんじゃないか、なんて甘いことを考えたりもしていたが、今日の、アイツが利き腕を確認しようとしたときの交代はその考えを打ち砕いた。
あのとき、俺は利き腕を確認しようとしただけで代わろうなんて意志はなかった。しかしアイツは強引に俺を押し退けて表に出た。もちろん、俺には逆のことなど出来やしない。間違いなく、アイツは自由に表に出てこれる。
そりゃねえだろ、と文句を言いたくもなる。普通に考えて人格的には俺の方が主じゃないのか。十八年一緒に生きてきて何でだ俺の体よ。
……とまあ、言っても詮無きことだが。
今さらながら、アイツが思いやりのある性格をしていることに感謝した。そして同時に恐怖もした。今は良くても、いつかアイツが外を知って、実感して、体を渡したくないと考え始めたならば、俺はどうなってしまうのだろうか。
身体の喪失。この不安ばかりは、アイツの天真爛漫とも言える姿を見ても、拭い去ることが出来ない。
コイツが優しいやつなのは分かってる。分かっているが、だけどーーーー
……同時に、『真っ白』なんだよなあ。
純粋でまだ何も知らない白紙の状態。だからこそ、ここからどう変わっていくか予測がつかない。
さらに好奇心が増して外に出たがるようになったら?些細なことで喧嘩でもしてしまったら?譲れない趣味や思い人ができたら?
可能性は幾らでもある。
『あ、ねえ』
『…………』
『ねえってば。おーい?』
『……はっ。すまん、考え事してた』
アイツの声に押されて気がつけば、駅の近くまで来ていた。思考を切り替え、とりあえず切符売り場に向かう。すぐそばで俺と同じく動物園に行っていたらしい子供たちが追いかけっこのようなことをして遊んでいた。
『何かあったのか?』
『いや大した事じゃないんだけど。何かあの子達……見ていて微笑ましいけど、なんかこう、引っかからないかなーって』
『ん?ああ……確かに、そうかも』
まだ幼い男の子と女の子が、夕方だというのに元気にはしゃいでいた。兄妹だろうか、もしくは友達か……いや、おそらく兄妹だろう。そばに両親らしき男女がいる。女の子が男の子の手を引いてその親の元へと走って行った。
そこでピンときた。引っかかっていたものが氷解する。なるほど、あれかと。
『三日くらい前に見た夢、あんな感じじゃなかったっけか』
『あ、なるほど、それだ!凄いねえ。夢の内容まだ覚えてるなんて』
『そろそろ記憶がぼやけてきてるけどな。しかし三日前か。そういやそうか』
あの朝にコイツが現れたのだ。そのせいですっかり頭から吹っ飛んでいたが、あれも相当変な夢だったように思う。
もしかしたら第二人格の出現と関係があるのだろうか。そんなことをつらつらと考えながら改札を通り、帰路についた。
……そしてその日の夜、また夢を見た。
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