第22話
「私、あなたをひとりぼっちになんかさせないよ」
「一緒に、死んでくれるの?」
「ううん、そうじゃない。私は死なない。だからあなたも死なせない。これから交番に行こう。一緒についててあげるから怖くないよ」
貴子はいきなり甲高い声で笑い出した。目尻に浮かんだ涙の粒を拭うと、コートのポケットから小型ナイフを取り出して、私の方へ向ける。こびりついている血痕は、恐らく先生のものなのだろう。こんな小さなナイフで人を殺せるものなのか、とひどく冷静になった頭で考えながら、私はそのナイフの刃先を右手で包み込んだ。手の平の肉が裂ける感触がしたかと思うと、赤い鮮血がコンクリートの上に滴り落ちた。それをみて、貴子は悲鳴のような声をあげて、ナイフを私の手から抜き取ろうとした。だけど私はそうさせまいと、ますますナイフを握る手に力を込めた。
「この世界であなたが呼吸しているということが、私のたったひとつの希望なの。貴子、ひとりで生きられるようになることを、どうか諦めないでいてよ。誰にも管理されずに、自分ひとりの力で。そうすればきっと、私たち、ひとりとひとりで一緒にいられる。ずっと」
貴子の瞳から溢れた涙が、頬を伝ってぽつぽつと雨のように落ちていく。
「そんなことできないよ。できるわけないよ。だっていくらがんばったって、子どもの頃から私、何にも全然変われないもの。空っぽのまま、何にもうまくできないまま、もう大人になっちゃった。誰かを愛したり、誰かに愛されたことなんてない。こんなに寂しい日々が続いていくなんて、嫌なの、怖いの、もう全部全部うんざりなの、何もかも、消えちゃえばいいのに」
貴子は顔を覆ってしゃがみ込み、泣き崩れた。それは初めて見る貴子の感情の発露だった。世界で一番孤独なこの女の子のことを、私は愛おしいと思った。貴子の身体を摩っていると、ますます嗚咽は激しくなった。貴子の髪の毛からは甘いバニラの香水の匂いが漂っていた。私はきっとこの先一生この匂いを覚えているような気がした。
*
交番の中で頬杖をついていた警察官は、貴子をみて退屈そうな表情を一変させた。私は貴子とつないでいた右手を放し、勢い良く頭を下げた。頭を下げたまま、涙混じりにならないように、大声で叫んだ。
「頭のおかしいこの子を、私の代わりに、どうかよろしくお願いします」
貴子の身体は小刻みに震えていた。交番から出て行こうとすると、縋るような目が私の背中を舐めているのが分かった。一度だけと心に決めて振り返って、私は貴子に最後の抱擁をしたのだった。身を切られるような鈍痛が全身を襲ったけれど、あらん限りの力を振り絞って、「捨てないで」と泣きじゃぐる彼女を私は突き飛ばした。それから交番を走り出て、もう二度と、あの子の方を振り向かなかった。
貴子とは2度、ハガキのやり取りをした。3度目のハガキの返事は来なかった。貴子は5年間、刑務所の中で過ごし、その後精神病棟に移ったらしい。その先の貴子の行方を私は知らない。
アイスクリームのバニラの匂いが鼻をくすぐる度、私は貴子のことを思い出す。思い出す度、胸の奥底を掻き毟るような痛みが私を襲う。そんな私はきっとこの先もずっと、恋人をつくったりはしないのだろうという確信があった。私は今も、この世界の何処かで呼吸する貴子のことを待っている。
それが幸せなのかそうでないのかは分からなくても、永遠に、あなたのことだけを見ている。真冬の空に輝く一番星を見つめるみたいに、いつまでも、ずっと。
【了】
くもり、のち、土砂降り ふわり @fuwari
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