第21話
すすり泣く声と共に、電話はそこでいきなり途切れた。何かを考える前に、まず先に足が出ていた。1LDKの部屋を飛び出して、外灯に照らされて柔らかく光るコンクリートの道を駆け抜ける。
ずるい。あなたは本当にずるい人だ。自分のことで目一杯になる弱虫なあなたは、あなたが死んだあとの私のことなんて一度足りとも考えたことないんだろうね。でもそんなあなたが私、好きだったよ。私だけに依存して、ひとりじゃなにもできなくなればいいのにって思ってた。そうして、私のことしか考えられなくなればいいのにって思ってた。でも。
靴がマンホールのくぼみに引っかかって盛大に転けた私を、すぐ側を歩いていた男の子が心配そうな顔で見ている。地面で擦った手の平に、微かに血が滲んでいたけれど、息をつく暇なんてなかった。男の子に会釈をして、ヒールがとれてダメになった靴を放り出して、裸足で駆けていく。12月のコンクリートの温度はひどく冷たかった。
もしもこのままあなたを失ったら、一生私はあなたの亡霊のまま何処にもいけなくなってしまうだろう。あの田舎町のラブホテルの203号室で、いつまでもあなたの帰りを待ちつづけるのだ。本当はそうしていかったけれど、でも、やっぱりそれじゃ駄目で。今、やっと分かった気がする。
私は、あなたとふたりだけで、
誰も見たことのない景色を見てみたかったんだ。
息が止まるのではないかと思うくらい、私は何処までも走った。私の孤独な魂の片割れだけをひたすらに求めて、東京の夜をいつまでも走り続けていた。
*
色とりどりのネオンが煌めく新宿三丁目。
佳苗は螺旋階段を上った先の歩道橋の真ん中に立っていた。
私を見つけて大きく手を振る彼女の顔には、悲壮感といった感情が少しも見えない。私は戸惑いながら階段を登った。身体が重く、手足の先がかじかんでいた。貴子と同じ目線に立つと、貴子は何かを諦めたかのように、寂しそうに微笑んだ。
「佳苗が言ってたこと、本当だったね。来て欲しいって言ったら、きっと何処へでも行くよって言ったでしょう。台風の日、夏のプールサイドで、私に」
深呼吸して、肺に溜まった二酸化炭素を吐き出す。
「私はうそつきじゃないもの。構ってちゃんの貴子とは違うよ」
そう言うと、貴子は声を出して笑った。その時はじめて、彼女の着ていた水色のワンピースが、赤黒い液体に染められているのが分かった。ワンピースだけではない。彼女の指先から手首までが、凝固されかかった血液で塗れていた。
私はその血液の理由を聞くのが怖かった。だけど、私がそれを口にする前に、貴子は私に赤色に染まった両手のひらを突きつけて言った。
「びっくりしちゃった。先生の血ってあったかかったんだよ。中身はあんなに冷たいのにね」
足元の道路を通っていく車のエンジンの音が、急に背後に遠ざかっていく。貴子の手の平を握りしめて見つめ合う私たちはただただ孤独だった。貴子は歩道橋の手すりに手をかけた。真下に広がる闇に目を落とす彼女が何を考えているのかは聞かなくても分かった。もうダメなのかもしれない、と私は思った。女同士とか、そういうことを抜きにしたとしても、初めから私たちは交わらない運命なのかもしれなかった。どんなに癒着したとしても私たちは多分決して、ある重要な部分に関して分かり合うことができないのだから。
だけど。だけど私は、それでもあなたと繋がっていたかった。
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