第20話
ガムテープで封を閉じて、貴子を感じなくなった部屋の中で、最後に私は電話をかけることにした。そらで言える番号をプッシュして、震える指で通話ボタンを押す。あの子が電話に出なくても、私には分かっていた。だって簡単に想像できたから。あの子が冷たい手の平で、自分の携帯電話を握りしめているところを。無機質な機械音に向けて、私はあの子に語りかけるようにして、伝言を残した。止まったと思っていた涙が、再び流れ落ちるのを感じながら。
「ばいばい、貴子。しあわせにね」
翌日の朝、私は、貴子の荷物を宅配便で郵送した。
*
貴子と離れることを決意したあの日から、私はよく、悪夢を見た。白くふかい霧の中で、顔を覆ったあの子がさめざめと泣いている夢。あの子のか細い体には血の滲む包帯が巻き付けられていて、あの男に殺されることを待っている。白くふかい霧の外で、私はあの子をじっと見つめている。見つめるだけで、何一つ、あの子の為にしてやれることはないのだという無力感に苛まれながら、両手を握りしめていた。
ふと顔を上げて、私の存在に目を留めた貴子はかなしそうに微笑んで言った。
「やっぱり佳苗も、私の手を離すんだね」
私は首を振りたかった。この世の終わりみたいな泣き方をするあの子の小さな掌を握って、私だけはあなたのことを助けられてあげられると語りかけてやりたかった。あなたの面倒くさくて厄介な部分を、全部受けとめて、あなたの手を引いてあげられると語りかけてやりたかった。だけど足は一歩も動かなかったし、霧はどんどん濃さをまして、やがて貴子の身体は見えなくなってしまった。
目が覚めたのは早朝で、朝日の光すらない闇の中だった。汗をかいて冷たくなったシーツにくるまって、私は泣いた。泣くことがあの子へのたった一つの贖罪になるかのように、そんなことで許される訳がないと分かっていても、時間の許す限り、延々と泣きつづけていると、非通知で電話がかかってきた。携帯電話を耳に当てる前から着信元はわかっていた。通話ボタンを押すと、私がずっと追い求めて、決して手に入らなかったあの子の声がすぐそこに聞こえた。気が狂いそうになりながら、「久しぶり」とやっとのことで呟くと、電話の向こうにいるあの子が、ふっと笑う声が聞こえた。
「貴子?」
「佳苗、私ね、ついに死ぬことにしたよ。死ぬ死ぬ詐欺も、やっとこれでおわり」
私は息を飲んだ。喉の奥がからからに乾いていて、上手く声を出すことができない。「お願い、少しだけ黙っていて」と貴子は言った。
「高校のとき、土砂降りの雨の日に、あなたは私を見つけてくれたよね。ひとりぼっちで、孤独で、さびしくてたまらなかった私に、あなただけは特別な視線を向けてくれたよね。顔を見て直接言ったことはないけれど、私ね、そんなあなたのことがかわいくて愛おしくて仕方なかったんだよ。あなたの瞳に見つめられていると、何だってできるような気がしたんだよ」
私は黙っていた。縋るような気持ちで、受話器越しの声に耳を澄ませていた。苦しくてたまらなかった。私の知っている貴子が、こんなにも甘い言葉を私に投げてくるはずがない。だからきっと間違いなく、貴子が口にしている言葉は、私に対する最後の別れの言葉だと思えた。
「時々は調子に乗って、あなたのこと傷つけたりもしたよね。それはね、あのね、私のことで泣いているあなたの顔が好きだったからだよ。本当は泣いている顔だけじゃなくて、笑った顔も、嬉しそうな顔も好きだったのに、私にはあなたに優しくすることが、どうしてもうまくできなかったから。ごめんね、私きっと、このまま何も変われないから。だからもう、全部終わらせようと思うんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます