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2018年10月28日 21:20
いよいよ、石勒の一貫した強敵であり、続三国志演義─通俗續三國志─第二十四回において張られた伏線『甲戌の歳、王彭祖は図るべし』の結末を迎えることになりますね。八王の乱に加わった主な人物も、残ったのは王浚と劉琨だけであります。良くも悪くも西晋の代表的人物で生き残ったのはこの二人ということで、いまだに華北にあって、北漢を背後から攻撃する面倒な勢力です。北漢としては相変わらず苦しい立場で、膠着状態ではありますが、王浚としても、西晋は洛陽が落とされ、今後は長安が危機に陥っており、日々、幽州の郡県や鮮卑・烏丸への求心力が失われていき、それ以上に苦しい立場であったのでしょう。心臓部を狙う北漢の作戦は匈奴ゆえに余りうまくいかなかったのかもしれませんが、効果はそれなりにあったと思われます。王浚としては、郡県や異民族を抑える手段としては自分の勢力に皇帝を立てるしかないわけで、有力な司馬氏を有していない以上、自分が即位するしかない。しかし、劉琨や北漢がいる以上は、このままでは無理なので、北漢の匈奴と石勒のいる羯(種族としての羯ではなく、匈奴の中で本流ではない部族の総称)の温度差をついて羯を率いる石勒に従属してもらうのは理想的で、そのため、信じたい言葉にすがってしまいたいということでしょうか。王浚が収奪に走ったのは、幽州単独では経済的に苦しい上に、異民族をつなぎとめるための資財がどうしても必須だったからかもしれません。また、石勒の従属は北漢に全く知られないはずもなく、偽りを行うにしても、劉聡との関係が危うくなるこのような挙に出るはずもないという油断があったと思われます。なお、棗嵩は、屯田制度の実行で有名な棗祗の曽孫です。経済的に苦しいゆえに、苛政だが、経済政策に明るい人物に頼ったのかもしれません。
作者からの返信
こんばんは。『甲戌の歳、王彭祖は図るべし』はスゴイ長く敷かれた伏線ですね。石勒とともにそれを聞いた汲桑はすでに亡くなってしまいましたが。〉王浚と劉琨司馬睿が江南に逃れて人を集める中、二人は河北に取り残された感もあります。もはや晋朝は頼れず、実質的には自立しているようなものですよね。そんな中、あくまで晋の臣として生きた劉琨と、自ら即位を図った王浚は違う行き方をしたわけですが、その違いも一つのドラマと言えます。〉王浚が収奪に走ったたしかに、北辺の幽州は穀倉地帯である冀州に支えられている節があり、生産力は高くなかったでしょうね。幽州単独では多数の兵馬を養うのは難しく、石勒が拠る相州から冀州を喉から手が出るほど欲していたことは確実です。加えて求心力の問題もあり、石勒からの支持を得られれば、、、という気持ちになるのもやむを得ません。その先には張軌のように辺境での自立を見据えていたのかも知れませんが、背後を鮮卑に脅かされる幽州に拠っては、涼州のような安定は難しかっただろうなあ。。。〉石勒の従属は北漢に全く知られないはずもなく、偽りを行うにしても、劉聡との関係が危うくなるこのあたりまで来ると劉聰と石勒の関係も面従腹背ですが、王浚にはそこまで分からなかったんでしょうね。逆に、石勒としては北漢からの嫌疑を受けても構わないという判断があったわけで、両者の関係もいよいよ煮詰まってきているようです。〉棗祗こちらは三國志演義には登場しないのですね。早い時期に曹操に従い、任峻とともに屯田を推進した人物、三国志好きには大事な方ですね。ただ、早死になんで事績が少なくて正史にも伝なし、厳しい。。。棗嵩やその他の子孫にも著述があったようですから、文才があった家系ですね。経済政策が家学だったかは不明ですが、『晋書』王浚伝には「棗嵩は浚の子壻なり」という一文がありますから娘婿でした。そっちかい!
いよいよ、石勒の一貫した強敵であり、続三国志演義─通俗續三國志─第二十四回において張られた伏線『甲戌の歳、王彭祖は図るべし』の結末を迎えることになりますね。
八王の乱に加わった主な人物も、残ったのは王浚と劉琨だけであります。良くも悪くも西晋の代表的人物で生き残ったのはこの二人ということで、いまだに華北にあって、北漢を背後から攻撃する面倒な勢力です。
北漢としては相変わらず苦しい立場で、膠着状態ではありますが、王浚としても、西晋は洛陽が落とされ、今後は長安が危機に陥っており、日々、幽州の郡県や鮮卑・烏丸への求心力が失われていき、それ以上に苦しい立場であったのでしょう。心臓部を狙う北漢の作戦は匈奴ゆえに余りうまくいかなかったのかもしれませんが、効果はそれなりにあったと思われます。
王浚としては、郡県や異民族を抑える手段としては自分の勢力に皇帝を立てるしかないわけで、有力な司馬氏を有していない以上、自分が即位するしかない。しかし、劉琨や北漢がいる以上は、このままでは無理なので、北漢の匈奴と石勒のいる羯(種族としての羯ではなく、匈奴の中で本流ではない部族の総称)の温度差をついて羯を率いる石勒に従属してもらうのは理想的で、そのため、信じたい言葉にすがってしまいたいということでしょうか。
王浚が収奪に走ったのは、幽州単独では経済的に苦しい上に、異民族をつなぎとめるための資財がどうしても必須だったからかもしれません。
また、石勒の従属は北漢に全く知られないはずもなく、偽りを行うにしても、劉聡との関係が危うくなるこのような挙に出るはずもないという油断があったと思われます。
なお、棗嵩は、屯田制度の実行で有名な棗祗の曽孫です。経済的に苦しいゆえに、苛政だが、経済政策に明るい人物に頼ったのかもしれません。
作者からの返信
こんばんは。
『甲戌の歳、王彭祖は図るべし』はスゴイ長く敷かれた伏線ですね。石勒とともにそれを聞いた汲桑はすでに亡くなってしまいましたが。
〉王浚と劉琨
司馬睿が江南に逃れて人を集める中、二人は河北に取り残された感もあります。もはや晋朝は頼れず、実質的には自立しているようなものですよね。
そんな中、あくまで晋の臣として生きた劉琨と、自ら即位を図った王浚は違う行き方をしたわけですが、その違いも一つのドラマと言えます。
〉王浚が収奪に走った
たしかに、北辺の幽州は穀倉地帯である冀州に支えられている節があり、生産力は高くなかったでしょうね。幽州単独では多数の兵馬を養うのは難しく、石勒が拠る相州から冀州を喉から手が出るほど欲していたことは確実です。
加えて求心力の問題もあり、石勒からの支持を得られれば、、、という気持ちになるのもやむを得ません。
その先には張軌のように辺境での自立を見据えていたのかも知れませんが、背後を鮮卑に脅かされる幽州に拠っては、涼州のような安定は難しかっただろうなあ。。。
〉石勒の従属は北漢に全く知られないはずもなく、偽りを行うにしても、劉聡との関係が危うくなる
このあたりまで来ると劉聰と石勒の関係も面従腹背ですが、王浚にはそこまで分からなかったんでしょうね。
逆に、石勒としては北漢からの嫌疑を受けても構わないという判断があったわけで、両者の関係もいよいよ煮詰まってきているようです。
〉棗祗
こちらは三國志演義には登場しないのですね。
早い時期に曹操に従い、任峻とともに屯田を推進した人物、三国志好きには大事な方ですね。
ただ、早死になんで事績が少なくて正史にも伝なし、厳しい。。。
棗嵩やその他の子孫にも著述があったようですから、文才があった家系ですね。
経済政策が家学だったかは不明ですが、『晋書』王浚伝には「棗嵩は浚の子壻なり」という一文がありますから娘婿でした。そっちかい!