このエピソードを読む
2018年10月23日 23:25
石勒集団の戦略無き流浪時代、もとい快進撃の話ですね(笑)。石勒軍の移動距離の長さには驚きます。ここらは消化しきれなかった石勒戦闘エピソードを出し切っている感じです。王讃や王茲を討ったのは史実では苟晞を捕らえる前のことですが、ここではかなり後のことにされています。王讃は晋書を引用された通り、石勒を破っているので軍事能力は高かったのかもしれませんが、史実では苟晞とともに殺されています。この当時の石勒軍には危険分子を受け入れる余地はなかったのでしょう。侯脱たちとは戦いはさらに洛陽攻略の前ですが、王如との関係から、後ろに置かれたようです。ここらは中村昂然さんに負けぬ劣らぬ時系列の入れ替えを酉陽野史が行っているのが分かります。新蔡公の司馬確については、第四十一回のコメントで書いた通り、司馬騰の子であり、続後三国志では展開が違うので、注釈をいれるか、司馬虞に替える必要があると思われます。陳眕はここで思わぬ再登場で、石勒の船を焼き払い、張實を苦戦させるなど、以前の大勢の一人であった時とはかけ離れた活躍です。その後の江南との戦いを見ればわかる通り、湿地帯や河川が多い土地を含んだ地の利を得れば、無敵を誇った漢軍すらも互角以上に戦えることができるようです。刁膺は、三国志後伝では、単なる武将なので、なぜ、ここで急にこのような重要な進言をすることになったのか、意味が分からなかったです。史実では、この事件より以前は、刁膺こそが石勒の中心となる参謀だったのですな。どのような出自か、気になる人物です。
作者からの返信
こんばんは。河南から江北を股にかけた石勒の活躍ですね。地理的にはツッコミどころ満載なのですが、明代の知識人の地理空間把握ってこんなもんなのかなあ。。。各地を旅行して逸話を収集した司馬遷とはだいぶ違いますね。> 石勒集団の戦略無き流浪時代、もとい快進撃の話作中では張賓の策略により、まずは曹嶷と夔安を平らげて山東を掌握しようとしたものの、平陽で劉聰の傍らにある姜發に阻まれる、という前説がついております。「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」からはじまった石勒の北漢離脱は本作の主軸の一つでもあります。ネタとしては良質なので、うまくするともっと面白くなったはずなんですけどね。> 石勒戦闘エピソード> ここらは中村昂然さんに負けぬ劣らぬ時系列の入れ替えを酉陽野史が行っている史実では石勒は河南から江北で猛威を振るって故司馬越ご一行様を戮って洛陽を落とし、豫洲方面に転戦後に王彌を殺して葛坡から北上し、棘津から河北に入る流れですよね。葛坡ということは壽春あたりですから、淮水南岸あたり。長江はまだまだ先です。作中では先に山東の多くを占めてから洛陽失陥後の河南を支配する流れなので、色々逆転しておりますし、軽々と長江の南まで攻め込んでおります。このあたりは、創作ということで、一つ。> 新蔡公の司馬確そういえばそんな人いたなあ。。。登場人物が多すぎて完全に忘れてました。読み直しが進んでいないので、その際に注しておきますね。> 陳眕「第十九回 石超は大いに東海王司馬越を破る」では陳昭と陳眕の兄弟が兄の陳珍に唆されて東海王に降り、成都王を劣勢に追い込む殊勲(?)を挙げております。同族優先原理では当然の行動なのですが、わりかしダーティなお方という点ではキャラが立っているとも言えなくもありません。> 湿地帯や河川が多い土地を含んだ地の利を得れば、無敵を誇った漢軍すらも互角以上に戦える河北の軍勢が淮水を渡ったあたりからとたんに弱くなるというのは、三國志演義からのお約束ですね。歴史的に見ると、淮南は南朝と北朝の間で争奪が繰り返されたエリアであり、夏季の増水で北人が痛い目を見るシーンが多いです。それも南北朝時代が後半になると徐々に淮南は北朝の占めるところとなり、戦場も采石磯など建康の目と鼻の先になってしまうわけです。> 刁膺こそが石勒の中心となる参謀だった作中では張賓を差し置いてシャシャッた感じになってしまっておりますが、史実準拠ということであれば、『晋書』石勒載記によると、其の衣冠の人物は、集めて君子營と為す。乃ち張賓を引きて謀主と為し、始めに軍功曹に署す。刁膺、張敬を以て股肱と為し、夔安、孔萇を爪牙と為し、支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、吳豫等を將率と為す。ということで、鄴を抜いた後に安東代将軍に任じられた石勒は、刁膺と張敬(あっ)を股肱に任じておりますね。この記述を見る限り、どこまでが君子營の人かはちょっとわかりません。『晋書』の載記を見ても、「股肱謀主」または「股肱爪牙」という用例が見えるので、張敬とともに張賓に次ぐ石勒の近臣であり、参謀と護衛を兼ねる腹心であったと言えそうです。刁氏は漢人の姓のようではありますので、やはり君子營に集った漢人の一人なのかなあ。
石勒集団の戦略無き流浪時代、もとい快進撃の話ですね(笑)。石勒軍の移動距離の長さには驚きます。ここらは消化しきれなかった石勒戦闘エピソードを出し切っている感じです。
王讃や王茲を討ったのは史実では苟晞を捕らえる前のことですが、ここではかなり後のことにされています。王讃は晋書を引用された通り、石勒を破っているので軍事能力は高かったのかもしれませんが、史実では苟晞とともに殺されています。この当時の石勒軍には危険分子を受け入れる余地はなかったのでしょう。
侯脱たちとは戦いはさらに洛陽攻略の前ですが、王如との関係から、後ろに置かれたようです。ここらは中村昂然さんに負けぬ劣らぬ時系列の入れ替えを酉陽野史が行っているのが分かります。
新蔡公の司馬確については、第四十一回のコメントで書いた通り、司馬騰の子であり、続後三国志では展開が違うので、注釈をいれるか、司馬虞に替える必要があると思われます。
陳眕はここで思わぬ再登場で、石勒の船を焼き払い、張實を苦戦させるなど、以前の大勢の一人であった時とはかけ離れた活躍です。その後の江南との戦いを見ればわかる通り、湿地帯や河川が多い土地を含んだ地の利を得れば、無敵を誇った漢軍すらも互角以上に戦えることができるようです。
刁膺は、三国志後伝では、単なる武将なので、なぜ、ここで急にこのような重要な進言をすることになったのか、意味が分からなかったです。史実では、この事件より以前は、刁膺こそが石勒の中心となる参謀だったのですな。どのような出自か、気になる人物です。
作者からの返信
こんばんは。
河南から江北を股にかけた石勒の活躍ですね。地理的にはツッコミどころ満載なのですが、明代の知識人の地理空間把握ってこんなもんなのかなあ。。。各地を旅行して逸話を収集した司馬遷とはだいぶ違いますね。
> 石勒集団の戦略無き流浪時代、もとい快進撃の話
作中では張賓の策略により、まずは曹嶷と夔安を平らげて山東を掌握しようとしたものの、平陽で劉聰の傍らにある姜發に阻まれる、という前説がついております。
「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」からはじまった石勒の北漢離脱は本作の主軸の一つでもあります。ネタとしては良質なので、うまくするともっと面白くなったはずなんですけどね。
> 石勒戦闘エピソード
> ここらは中村昂然さんに負けぬ劣らぬ時系列の入れ替えを酉陽野史が行っている
史実では石勒は河南から江北で猛威を振るって故司馬越ご一行様を戮って洛陽を落とし、豫洲方面に転戦後に王彌を殺して葛坡から北上し、棘津から河北に入る流れですよね。
葛坡ということは壽春あたりですから、淮水南岸あたり。長江はまだまだ先です。
作中では先に山東の多くを占めてから洛陽失陥後の河南を支配する流れなので、色々逆転しておりますし、軽々と長江の南まで攻め込んでおります。
このあたりは、創作ということで、一つ。
> 新蔡公の司馬確
そういえばそんな人いたなあ。。。登場人物が多すぎて完全に忘れてました。読み直しが進んでいないので、その際に注しておきますね。
> 陳眕
「第十九回 石超は大いに東海王司馬越を破る」では陳昭と陳眕の兄弟が兄の陳珍に唆されて東海王に降り、成都王を劣勢に追い込む殊勲(?)を挙げております。
同族優先原理では当然の行動なのですが、わりかしダーティなお方という点ではキャラが立っているとも言えなくもありません。
> 湿地帯や河川が多い土地を含んだ地の利を得れば、無敵を誇った漢軍すらも互角以上に戦える
河北の軍勢が淮水を渡ったあたりからとたんに弱くなるというのは、三國志演義からのお約束ですね。
歴史的に見ると、淮南は南朝と北朝の間で争奪が繰り返されたエリアであり、夏季の増水で北人が痛い目を見るシーンが多いです。
それも南北朝時代が後半になると徐々に淮南は北朝の占めるところとなり、戦場も采石磯など建康の目と鼻の先になってしまうわけです。
> 刁膺こそが石勒の中心となる参謀だった
作中では張賓を差し置いてシャシャッた感じになってしまっておりますが、史実準拠ということであれば、
『晋書』石勒載記によると、
其の衣冠の人物は、集めて君子營と為す。
乃ち張賓を引きて謀主と為し、始めに軍功曹に署す。
刁膺、張敬を以て股肱と為し、夔安、孔萇を爪牙と為し、
支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、吳豫等を將率と為す。
ということで、鄴を抜いた後に安東代将軍に任じられた石勒は、刁膺と張敬(あっ)を股肱に任じておりますね。この記述を見る限り、どこまでが君子營の人かはちょっとわかりません。
『晋書』の載記を見ても、「股肱謀主」または「股肱爪牙」という用例が見えるので、張敬とともに張賓に次ぐ石勒の近臣であり、参謀と護衛を兼ねる腹心であったと言えそうです。
刁氏は漢人の姓のようではありますので、やはり君子營に集った漢人の一人なのかなあ。