第九十九回 石勒は水に遭って襄國に還る

 侯脱こうだつ厳嶷げんぎょくから降った兵は水陸五万を超え、石勒せきろくは長江を渡って江南こうなんを平らげんと図る。葛坡かつはで船の建造を進めさせるとともに、廣陵こうりょうに軍勢を向けた。

 甘卓かんたく顧榮こえい徐州じょしゅうから江南に去ったこともあり、陳敏ちんびんが平定された後の廣陵は、壽陽じゅよう劉準りゅうじゅんが挙げた陳眕ちんしんが鎮守していた。

 この陳眕は成都王せいとおう司馬穎しばえいの旧将である。陳眕は先の上党じょうとう太守たいしゅ羊綜ようそう廣平こうへい太守たいしゅ邵肇しょうちょうが石勒に追われて廣陵にあると知り、二人を輔佐役にあたるえんに迎えた。

 陳眕と羊綜、邵肇は兵馬を集めて糧秣を積み、属縣を治めて声望があり、廣陵に逃れる民は増えつつある。

 石勒が船を建造していると知り、陳眕は二人を召して言う。

「石勒は上流にあって江南を窺っている。船の建造はそのために他ならぬ。二公には軽舟を使って上流に向かい、石勒の船を焼き払って頂きたい。船を失えば石勒に打つ手はなく、さらに瑯琊王に願って北岸の九江きゅうこう京口けいこうに援軍を詰めれば、怖れるに及ばぬ」

 羊綜と邵肇はその策に従って石勒の船を焼き払った。


 ※


 この時、工匠を監督していたのは大将軍の張實ちょうじつであった。盛大に炎上する船を見て張實は怒り、石勒の叱責を畏れて呉豫ごよ劉寶りゅうほうとともに二万の軍勢で追撃する。張實が追い及ぶかと思われた時、陳眕が救援に駆けつけた。

 張實と陳眕の戦となり、十日の間に大小数戦して勝敗を見ない。逆に陳眕が優勢に戦を進め、張實は八十里(約44.8km)ほど軍勢を退けざるを得なくなる。

 張實が怒って言う。

「蜀から羌族きょうぞくの地に逃れて以来、六十年の間に数百の戦を経て一度も敗れたことはない。陳眕の如き匹夫に敗れては、どの面を下げて漢主と兄に見えられようか」

 全軍に檄を飛ばすと将兵に食事を摂らせる。それより自らは趙鹿ちょうろくとともに陣頭に立ち、呉豫と劉寶が後詰となる。将兵はいずれも枚を含んで馬を駆り、夜陰に乗じて陳眕の軍営に攻めかかる。この時、四更(午前二時)になろうとしていた。

 漢兵が一斉に斬り込むと、勝勢を恃んで備えのない晋兵は大混乱に陥る。陳眕は慌てて飛び出したところに張實の鎗を受けて討ち取られ、羊綜と邵肇は兵を率いて張實を包囲する。

 包囲の輪の中の張實は怒って鎗を振るい、死者が三百を超えても決死の晋兵は退かない。趙鹿が羊綜に阻まれている間、張實は鎗傷を四箇所、面には二本の矢を受けて窮地に瀕した。

 後詰の呉豫と劉寶が到着すると、羊綜の首級を挙げて晋兵を蹴散らす。さすがの晋兵も崩れて四方に散る。邵肇も乱戦の中に斃れ、張實は陳眕の糧秣を収めると葛坡に引き上げた。

 敗卒は奔って周顗しゅうがい祖逖そてきの許に投じ、陳眕の敗北を報せる。二人は書状を認めると瑯琊王ろうやおうに報告した。


 ※


 瑯琊王の司馬睿しばえいは敗報に接すると、王導おうどう賀循がじゅんを召して言う。

「石勒は葛坡に船を造っておったという。その意は長江を下って江南を攻めるにあろう。二公はどのように応じるべきと思うか」

 諮問を受けて王導が言う。

紀瞻きたんに廣陵の鎮守を命じ、卞壼べんこ周訪しゅうほう劉遐りゅうか周玘しゅうきを遣わして水路と陸路の要衝を押さえさせます。また、壽春の軍勢を増して劉機りゅうき祖逖そてきを助けて漢賊を防がせましょう」

 瑯琊王はその策に従うこととした。

 この時、雨が百日も続いて平地でも水の深さは数尺を超え、人家の過半は水に流された。石勒が率いる河北の将兵は淮水わいすいと長江の間の気候に慣れず、軍中では疫病が流行をはじめる。死者は十人のうち四人にまで及び、馬もつづいて倒れた。

 さらに、糧秣が不足を来たして漢兵の士気は著しく下がりはじめる。この時、晋兵は家屋によって火を通していない食物を避け、疫病を避けた。

 祖逖は漢兵の実情を探り出すと、戦書を遣って石勒を挑発する。その虚実を測ろうとしたのである。


 ※


 石勒は憂えるばかりで諸将にも方策はなく、ついに刁膺ちょうようが勧めて言う。

「瑯琊王に書状を送り、北に向かって河北を平らげ、先の罪を贖いたいと申し出るよりございますまい。瑯琊王が容れれば祖逖は兵を退くでしょう。それより次の策を案じるよりございません」

 石勒はその言葉に従うよりなく、ただ長嘆するばかりであった。

 この時、張賓は戦で受けた傷が癒えず、石勒は車に載せて平陽に還らせることとした。将兵はそれを見て言う。

「上党公は軍勢を北に返そうとされているのであろう」

 石勒はそれを知ると愕き、諸将に諮って言う。

「将兵の心は固まっておらぬ。如何したものであろうか」

 張敬、趙概ちょうがい孔萇こうちょう呼延莫こえんばく張曀僕ちょういつぼくをはじめとする二十将ばかりが言う。

「北人は久しく馬に乗らなければ災いを生じ、兵士は久しく戦わなければ筋骨が緩むものです。晋兵たちが大挙して軍勢を進めぬうちに、精鋭三百を二十余道に分けてこの地を発し、進路上の城を落としてその糧秣に拠り、丹陽たんようを抜いて建康けんこうに向かい、司馬氏の残党を生きながら擒とするよりございますまい」

「それは勇将の策と言うべきであろうな」

 石勒は冷笑して言うと、それぞれに馬一匹、鎧一副、絹一疋を授けた。

「建康攻めは容易ではない。別の策を案じるべきであろう」

 諸将は恩を謝すると退いた。


 ※


 石勒は残った張賓に問うた。

「諸将も考えあぐねて愚策しか思いつかぬと見える。卿はどのように処するべきと考えるか」

「将軍は洛陽を破って晋帝を擒とし、妃嬪を奪って王侯の一族を殺戮し、宮闕きゅうけつを焼いて宗廟を毀ち、陵墓をも暴かれました。晋人は深く怨んでおり、どうやったところでその責めを逃れられません。将軍の罪は髪の数よりも多いのです。降ったところで臣として受け容れられるはずもございますまい。昨年、王彌を誅殺したことで人々は将軍への疑いを懐いております。この地にあって功業を建てんと図れば数千里に渡る長雨がつづき、これは留まってはならぬと告げるものです。江南は吾らの地ではなく、近づいてはなりません。襄國に還って罪人を討って民を救い、河北を平定されるのであれば、将軍の右に出る者はありますまい。晋兵が壽春に集っているのは、吾らが江南を襲うかと懼れるがゆえ、祖逖の戦書も虚勢に過ぎず、実際に戦をしたいわけではありません。まずはすみやかに襄國に還られるより、策はございません」

「祖逖は幾度か戦書を送りつけてきた。吾らが北に還るとなれば、怯懦を哂われよう。それに、軍勢を発して後を追われては面倒になる。糧秣も心許なくなってきた。それゆえ、祖逖を軽視はできぬ」

「兵が多く、糧秣は少ないのは仰るとおり。臣に一計がございます。先に平東へいとう将軍を務めた王康おうこうは、洛陽の危機を見て許昌きょしょうの糧秣を上蔡じょうさいに移したと聞きます。すみやかに上蔡を襲ってその糧秣に拠るのです。ご懸念にも及びません」

 石勒は石虎と二万の軽騎兵を遣わして上蔡を陥れ、新蔡公しんさいこう司馬確しばかくと王康を生きながら擒とした。後日、彼らは石勒に害された。


 ※


 上蔡の空を見上げた石勒が張賓に問う。

「長雨は終わったらしい。この糧秣を得て江南に向かうべきか、襄國に還るべきか」

「江南の者たちは吾らの南下を疑いますまい。まずは輜重を北に送り出し、石季龍せききりゅう(石虎)を壽春に向かわせれば、誰もが壽春に目を奪われます。その間に輜重は道を進みます。本軍を別軍はおもむろに来たに向かえばよいのです。晋兵どもが後を追おうにも、吾らの騎兵には到底及びますまい」

「大略があれば、自ずから大計が生じるものだな」

 石勒はそう言うと、刁膺の罪を責めて言う。

「卿は力を合わせて功業をなすべき身でありながら、南兵と戦う前に投降を献策した。理においては法を行うべきところであるが、窮すれば本心でなくとも口にすることはある。しばらくの猶予を与える」

 刁膺は官職を削られて喪服である白衣で軍に従うよう命じられ、張賓は功により中壘ちゅうるい将軍に任じられた。

 輜重は遥か北にあり、石勒は密かに石虎を召し、軍勢を返すよう命じた。この時、江中を晋の運船が米穀布帛を山積して進んでいた。石虎はそれを奪おうと考え、軍勢を発した。

 船に近づけば、晋将の紀瞻と劉遐の伏兵が起ち、船上からは金鼓の音が鳴り響く。石虎は奮戦したものの、漢兵の多くが水に落ちて溺死し、その被害は七千人にまで至った。

 石虎が軍勢を返すと晋兵は百里(約56km)ほども追いかけたが、巨霊口きょれいこうまで来てようやく軍勢を立て直した。

◆「巨霊口」という地名は史書にない。『讀史方輿紀要どくしほうよきよう』に引く『華嶽志かがくし』では華山の西峰を巨霊足とするが、華山は遥か北の長安に近く、不詳とせざるを得ない。

 石勒の本軍にもこの報は伝わり、将兵は晋兵が大挙して現れるかと懼れた。石勒は布陣して晋兵の到来を待つ構えをとり、晋兵たちは石勒の勇名を知るため、軍勢を返して襲わなかった。

 石勒は軍勢を退いて山東に向かい、襄國に入って王子春たちの出迎えを受けたことであった。

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