第九十八回 石勒は諸州郡を奪い取る

 漢主の劉聰りゅうそう劉曜りゅうようからの援軍要請を受けて崤池こうちに兵糧を送る一方、石勒せきろくに詔を下して江南こうなんに軍勢を向けるよう命じた。これは、晋の兵威を南北に分かつためである。

 詔を得ると、石勒は無数の間諜を江南に放って晋の虚実を探らせた。

「江南にある瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい)は統治に務めて武備まで力が及んでおらず、北伐の意はおそらくございません。また、長江に吹く風は止まず波浪は厳しく、戦となれば火攻めを避けられません。順風の時期を選ばねば長江は渡れぬと言わざるを得ません」

 石勒は平陽へいように瑯琊王には北伐の意がないと上奏した。また、曹嶷そうぎょく夔安きあん青州せいしゅうに拠って王敦おうとんと境を接しながら、軍勢を動かさないことを責めて言う。

「詔が降ったにも関わらず、曹嶷と夔安には何の動きもございません。これは自立を望むのでなければ、江南に投じようと考えているに相違ありません。そのような心がなければ、これほど永く平陽に入朝しないわけがないのです。しかも、王彌おうびと通じて臣を図らんとまでしておりました。伏して申し上げるならば、まず詔を下して臣に曹嶷の不臣の罪を問わせて頂きたい。その戦で兵威を輝かせた後、西に転じて長安を攻めれば、自ずから陥れられましょう」

 上奏文を読んだ劉聰は、百官を召して事を諮る。姜發きょうはつが進み出て言う。

「石勒は先に王彌を擅いままに誅殺いたしましたが、朝議によりその罪を問いませんでした。そのため、曹嶷の軍勢を呑み、吾が大漢の羽翼を去って自立せんと望んでいるのでしょう。この上奏に従えば、石勒は必ずや曹嶷を平らげ、掣肘できなくなります」

 劉聰もその言に同じ、詔を下して言う。

「いずれが勝っても唇歯を損なうだけに過ぎず、同じ大漢の臣が妄りに争ってはならぬ。先の詔に従って晋兵を攻めよ。過去の仇に拘ることは許さぬ」

 石勒はその詔を受けて逡巡し、張賓ちょうひんが言う。

「曹嶷を平らげるという吾らの求めは容れられませんでした。まずは軍勢を西に向けてこれ以上の疑いを避けられるのが上策です。この詔を違えれば、必ずや曹嶷の知るところとなり、平陽にも伝わりましょう。青州と平陽がともに敵に回れば、そう易々とは捌ききれません」

 自らの危うさを思い知った石勒は、趙染ちょうせんぎょうの鎮守をゆだねて桃豹とうひょうを副え、自らは陳留ちんりゅうを囲むべく軍勢を発した。


 ※


 陳留郡の太守の王讃おうさんは、雍州ようしゅう刺史ししを自称する李洪りこう汝南じょなんの鎮守を委ねられた冠軍かんぐん将軍の王茲おうじ、それに幽州ゆうしゅう総官そうかん王浚おうしゅんに救援を求めた。

▼原文では李洪を「雍州都督」とするが、『晋書しんじょ石勒せきろく載記さいきでは「平陽の人の李洪に眾數千ありて舞陽ぶようるいせり。苟晞こうきは洪に雍州刺史をす」とある。よって、刺史を自称していたと考えるのがよい。誤りと見て改めた。

 王浚は遠路を理由に自らは救援に向かわず、麾下の一軍を遣わすこととした。李洪と王茲は軍勢を発して陳留に駆けつける。王讃は援軍を迎えると出戦して迎え撃つこととし、それを知った石勒は石虎せきこに先鋒を命じる。

 石虎は精鋭を率いて陳留の晋軍に攻めかかり、一刀に李洪を討ち取った。王茲は怖れて馬を返したものの、それに続く追撃の中で落命した。王讃は城下に退いたものの、王浚の加勢が来るかと待ち構えるところを張實ちょうじつにより生きながら擒とされる。

 城に入った石勒が王讃を従事中郎に任じると、王讃も投降して陳留は漢に平らげられた。


 ※


 幽州の部将の王甲始おうこうしは二万の軍勢を率いて陳留に入った。進軍の間には戦の気配もなく、不思議に思いつつもただ粛々と軍勢を進める。城から十里(約5.6km)まで到り、ようやく陳留がすでに降ったと知る。進退に窮してその場に軍営を置くよりない。

 石虎は晋兵が境を越えたと知ると、軍勢を発して攻めかかる。王甲始は利を失って文石津ぶんせきしんまで軍勢を退いた。石勒は勝勢に乗じて一万の精鋭を率い、石虎とともに王甲始を討ち取りに向かう。その意は王浚を挑発することにあった。

 黄河に船を揃えて水陸から王甲始を攻めようとすれば、北岸には旌旗が林立して日を蔽わんばかり。王浚の麾下にある孫緯そんい遼西りょうせい鮮卑せんぴの騎兵一万を率いて到着したのである。

 孫緯は王甲始と軍勢を合わせて石勒の小勢に攻め寄せて来る。晋兵の虚実を測れず、石勒はやむなく軍勢を退いた。船を焼いて柏門はくもんに退くと、重門じゅうもんに置いた輜重を収めて襄陽じょうように向かった。

◆「柏門」については『晋書』石勒載記に記述があり、少々長いが引用する。「勒は成皋關せいこうかんを出ず。陳留ちんりゅう太守たいしゅ王讚おうさん倉垣そうえんに圍むも讚の敗るところと為り、退きて文石津ぶんせきしんたむろす。將に北のかた王浚を攻めんとし、たまたま浚の將の王甲始は遼西鮮卑萬餘騎を率いて趙固ちょうこを津の北に敗る。勒は乃ち船を燒きて營を棄て、軍を率いて柏門に向かう。重門に輜重を迎えて石門に至り、河を濟りて襄城じょうじょう太守たいしゅ崔曠さいこう繁昌はんしょうに攻め、之を害せり」、ここから石勒が成皋關・倉垣・文石津・柏門・重門・石門・繁昌と移動していることが分かる。『魏書ぎしょ地形志ちけいし司州ししゅう林慮郡りんりょぐん共縣きょうけんの條に柏門山はくもんさんが記載されており、校注によればその後に続く「桓門水」も「柏門水」の誤りであるらしい。


 ※


 石勒が襄陽が近づくと間諜が報せて言う。

侯脱こうだつ厳嶷げんぎょくなる者が一万を越える賊徒を集めて王璃おうり王如おうじょと兵を合わせ、襄陽に拠っております。崔曠さいこうを襄陽の太守に擁し、賊徒は湘陰しょういん湘郷しょうきょうを奪って猖獗を極めております」

◆「湘陰」は『宋書そうじょ州郡志しゅうぐんし湘州しょうしゅう湘東しょうとう太守たいしゅに所管される男国として記載されている。その記述によると「湘陰しょういんだんしょう後廢帝こうはいてい元徽げんき二年(四七四)、益陽えきよう湘西しょうせい及びこうの流民を分かちて立つる」とある。

◆「湘郷」は『晋書』地理志の荊州けいしゅう衡陽郡こうようぐんの治所とされる。長沙の南にあたると考えればよい。

 それを聞くと石勒は怒り、ただちに襄陽に軍勢を進める。崔曠は襄陽を捨てて繁昌はんしょうに逃れ去った。

◆「繁昌」は『晋書』地理志では豫州よしゅう襄城郡に含まれる。

 石勒が襄陽に入ろうとすると、張賓が言う。

「崔曠は逃げ去りましたが、放っておけば残党を糾合して禍をなしましょう。ここで生きながら擒とし、後患を絶たねばなりません」

 石勒がその言をれると、張賓は趙概ちょうがいとともに崔曠を追い、伏兵を埋めた上で趙概に後を追わせる。崔曠はこれが計略とは夢にも思わず、趙概が老齢であると見ると、軍勢を返して攻め寄せてきた。

 趙概はしばらく戦うと敗れたように見せかけつつ退き、崔曠は張賓が待つ伏所に踏み込んで易々と擒とされた。張賓と趙概は、崔曠を縛り上げて襄陽に引き返す。


 ※


 張賓を迎えた石勒が言う。

湖湘こしょうの地は広く、賊徒を討つにも遠路を経ねばならぬ。江夏こうかから鄴に返って方策を練り直すのがよかろう」

「天下を平定せんと欲すれば、困窮する民を救うことが先決です。侯脱と王璃は荊楚けいその大害、聞くところ、糧秣が尽きれば人を喰らうとも言います。遠路であろうともまずこの悪党を除いて民の害を鎮めれば、荊楚の民はことごとく明公に従いましょう。放置はできません」

「軍師の策が正しい。聞くところ、賊徒は侯脱が首魁であると言う。まずはこの者を討ち取るべきであろう」

 策が定まると、石虎の一軍を湘陰に遣わした。侯脱も兵を出して防ぎ、両軍の対峙は一月に及んで多数の死者が出た。間諜が報せるところ、両軍の戦は一進一退を繰り返して膠着しつつあるという。

 石勒は深夜に起きだして三軍に食事を与え、張敬ちょうけいを先鋒として自ら後詰を率い、鶏鳴けいめいの頃に軍営を発する。軍勢はすみやかに駆けて侯脱の軍営を目指し、夜明けの頃には宛門えんもんにまで攻め寄せる。

◆「宛門」は原文では「苑門」とするが、『晋書』石勒載記の校注では誤りとし、それに従う。その前段で石勒は南陽なんようにある宛北山えんほくさんに軍勢を留め、そこから宛門に攻め寄せている。このことから、史実上の侯脱との戦は南陽を中心とする地域で行われていると分かる。作中では戦場を湘水沿岸を示す湘陰としたために矛盾が生じていると分かる。

 侯脱はようやく覚り、出戦しようとするも果たさず、軍営を捨てて逃げ出した。張敬はその後を襲い、易々と擒として石勒の前に突き出した。

「人はそれぞれに天命を生きておる。それを喰らうなどということが許されようか」

 石勒が詰るも侯脱は答えず、斬刑に処した。


 ※


 侯脱を殺した石勒はついで厳嶷と王如を擒えるべく軍勢を転じた。王如は大いに怖れて金帛を献じ、張賓に密書を送って寛恕を乞うた。張賓は石勒に勧めて言う。

「厳嶷を擒とすれば、王璃と王如は小悪党に過ぎず、攻めずして降りましょう」

 石勒もその言をれ、張賓は書状を認めて王如に送り遣った。

「故旧を忘れていなければ、すみやかに平陽に還って漢主を輔けよ。賊徒に身を落として後世に悪名を伝えるな」

 王如は喜んだものの、兄の王彌の仇に報いられぬことを怨んで王璃に言う。

「賢弟は敏捷でその鎗先を逃れられる者はおらぬ。石勒と張賓は先に吾が兄を殺したことを思い、それゆえに吾を逃がそうとしている。しかし、江夏を過ぎれば石虎や孔萇こうちょうに命じて軍勢を発し、生きて還ることを許すまい。明日、密かに計略を行うのがよい。吾が長江に船を並べるのを待ち、賢弟は一万の騎兵とともに岸に牛酒と布帛を供えて餞別とされよ。石勒が現れれば、鼓を合図に襲って必ずや討ち取れよう」

 王璃はその策に同じて主だった頭目に言い含め、それぞれの任に向かわせた。


 ※


 王璃は人を遣って石勒に礼物を届けた。それを見た張賓は計略と見抜いて使いの者に問う。

「餞別にあたり、王如将軍は自ら出て来られるのか」

「将軍の仰るところ、先に上党公に罪を得てこの地に身を避けたにも関わらず、故旧の念により征伐を控えて頂くこととなりました。理においては自ら謝するべきところではありますが、上党公の怒りを懼れて御前に罷り出ることは差し控えたいとのことでした。何卒、ご寛恕を願います」

「それはそれで構わぬ」

 張賓は使いを送り出すと幕舎に入って石勒に献策する。石勒はその策に従い、長江の岸に伏兵を潜ませた。


 ※


 王璃が餞別に現れると石虎の伏兵が起って包囲を固める。王璃は逃げ出したものの、呉豫ごよ趙鹿ちょうろく劉膺りゅうようたちに襲われて討ち取られた。王如もまた船を捨て、麾下の軍勢とともに東に逃れる。

 王如が東に向かったと知らず、石勒は長江を北に渡って江夏に向かう。岸に及べば、先行する船が戻って言う。

「首魁の厳嶷は楊岠ようきょを奉じて江夏太守とし、厳戒を布いております」

 石勒は怒り、自ら大軍を率いて江夏に向かう。楊岠はその兵威を懼れ、夜陰に乗じて厳嶷の許に逃れ去った。石虎はそれを追って賊の軍営に迫り、厳嶷は到底敵わぬと見て投降する。

 石虎は二万の賊徒を得ると、石勒の許に復命した。石勒は擒とした賊魁を平陽に送る。漢主の劉聰は詔を下し、石勒を南路の大総官に任じたことであった。

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