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2018年10月7日 09:50
いよいよ、河東さん、ご期待の北魏の先祖・拓跋鮮卑の活躍ですね。五胡十六国の勝者といえば、北魏ということになりましょう。ある意味、北漢にとっては最強の敵です。北漢にとって見れば、かつての匈奴の地が兵力の補給源となってくれていれば、洛陽に安心して遷都が可能となり、安定した華北政権を作れたかもしれず、江南の不安定な初期状態につけこむことができれば、統一もあり得ないことではなかったでしょうが、拓跋鮮卑が晋につき、対立したことは深刻な問題だったでしょう。戦闘では純粋な騎馬民族である拓跋鮮卑に勝つことができなかったのは、劉淵時代からです。拓跋鮮卑がいる限り、并州は奪っても、奪い返されてしまい、兵力が消耗するだけということが分かるので、北漢はかなり苦しい状況です。幽州も段部鮮卑や宇文鮮卑がいて、簡単には制圧できません。背後の敵を除くことができません。異民族ゆえに晋人の抵抗が激しいということを差し引いても、北漢は統一できなかった曹魏に比べて、深刻な問題を抱えすぎているようです。
作者からの返信
こんにちは。〉北魏の先祖・拓跋鮮卑もともと鮮卑は満州方面に盤踞した東胡の末裔とされますが、東胡の実態は不明、実際のところは鮮卑、烏桓、契丹、女真といった雑胡のゆるやかな連合政権だったんじゃないかと思います。鮮卑は段部、宇文部、拓跋部、賀蘭部と明らかに部族分かれしていますから、かなり原始的な姿ですね。〉北漢にとって見れば、かつての匈奴の地が兵力の補給源となってくれていればこのように南下した後の漠北に強敵が現れる事象は構造的な問題でして、代にある拓跋部も北の柔然に苦しめられることとなります。結局、北から中原に入った異民族は、清を除いて北からの脅威により滅亡にいたることになりましたし、清にもロシアがあって積弊から自由ではありませんでした。〉北漢は統一できなかった曹魏に比べて、深刻な問題を抱えすぎている時代の要請が変わってしまったのですよね。後漢末までと比較すると、北方の異民族の存在が中原に与える影響はかなり強くなったわけで、北魏が頑なに代を本拠地としたのは、その辺の事情があったように思われます。中原だけでなく、漠北をも一つの世界と見なして睨みを効かせなくては国家を維持できなかったのかなあ、と。孝文帝はそれを忘れて洛陽に遷都し、結果として北方辺境の反乱の芽を育ててしまったわけです。北漢にはそこまでの遠大さはなく、中国内地の混乱に乗じて後漢までの天下を争った旧式の勢力の一つという印象を受けています。漠北と中原の両方を一つの世界と見なすには、南匈奴は漢文化に親しみ過ぎたのかも知れません。実際には、この問題は隋唐の時代に暫定的な解決を見たものの、宋元明清にも引き継がれてしまうわけですが。。。スケールが大きい問題です。
いよいよ、河東さん、ご期待の北魏の先祖・拓跋鮮卑の活躍ですね。五胡十六国の勝者といえば、北魏ということになりましょう。ある意味、北漢にとっては最強の敵です。
北漢にとって見れば、かつての匈奴の地が兵力の補給源となってくれていれば、洛陽に安心して遷都が可能となり、安定した華北政権を作れたかもしれず、江南の不安定な初期状態につけこむことができれば、統一もあり得ないことではなかったでしょうが、拓跋鮮卑が晋につき、対立したことは深刻な問題だったでしょう。戦闘では純粋な騎馬民族である拓跋鮮卑に勝つことができなかったのは、劉淵時代からです。
拓跋鮮卑がいる限り、并州は奪っても、奪い返されてしまい、兵力が消耗するだけということが分かるので、北漢はかなり苦しい状況です。幽州も段部鮮卑や宇文鮮卑がいて、簡単には制圧できません。背後の敵を除くことができません。
異民族ゆえに晋人の抵抗が激しいということを差し引いても、北漢は統一できなかった曹魏に比べて、深刻な問題を抱えすぎているようです。
作者からの返信
こんにちは。
〉北魏の先祖・拓跋鮮卑
もともと鮮卑は満州方面に盤踞した東胡の末裔とされますが、東胡の実態は不明、実際のところは鮮卑、烏桓、契丹、女真といった雑胡のゆるやかな連合政権だったんじゃないかと思います。
鮮卑は段部、宇文部、拓跋部、賀蘭部と明らかに部族分かれしていますから、かなり原始的な姿ですね。
〉北漢にとって見れば、かつての匈奴の地が兵力の補給源となってくれていれば
このように南下した後の漠北に強敵が現れる事象は構造的な問題でして、代にある拓跋部も北の柔然に苦しめられることとなります。
結局、北から中原に入った異民族は、清を除いて北からの脅威により滅亡にいたることになりましたし、清にもロシアがあって積弊から自由ではありませんでした。
〉北漢は統一できなかった曹魏に比べて、深刻な問題を抱えすぎている
時代の要請が変わってしまったのですよね。
後漢末までと比較すると、北方の異民族の存在が中原に与える影響はかなり強くなったわけで、北魏が頑なに代を本拠地としたのは、その辺の事情があったように思われます。
中原だけでなく、漠北をも一つの世界と見なして睨みを効かせなくては国家を維持できなかったのかなあ、と。孝文帝はそれを忘れて洛陽に遷都し、結果として北方辺境の反乱の芽を育ててしまったわけです。
北漢にはそこまでの遠大さはなく、中国内地の混乱に乗じて後漢までの天下を争った旧式の勢力の一つという印象を受けています。
漠北と中原の両方を一つの世界と見なすには、南匈奴は漢文化に親しみ過ぎたのかも知れません。
実際には、この問題は隋唐の時代に暫定的な解決を見たものの、宋元明清にも引き継がれてしまうわけですが。。。スケールが大きい問題です。