第九十三回 劉琨は代の兵を借りて起発す

 晋の司馬業しばぎょう建興けんこう二年(三一四)、漢の国都の晋陽しんようにある司馬熾しばしが害されたとの凶報が長安に伝えられた。

 百官は喪服を着て司馬業に大赦を願い、各地に詔が伝えられる。その後、百官の官爵は進められ、さらに軍勢を整えて仇に報じよとの詔が下された。

 梁芬りょうふん司空しくうに進んで閻鼎えんてい鞠允きくいんが左右の僕射ぼくやに任じられ、索綝さくしん太尉たいいとなって禁衛の軍勢を委ねられた。

 軍にあっては、梁緯りょうい冠軍かんぐん將軍、魯充ろじゅう蕩寇とうこう將軍,韓豹かんひょう定國ていこく大將軍となって正先鋒を兼ねる。

 華勍かけいたちはそれぞれ保國ほこく上將軍じょうしょうぐんの号を加えられ、麴持きくじ賈疋かひつ侍中じちゅう中丞ちゅうじょうに任じられ、涼州りょうしゅうから来た北宮純ほくきゅうじゅん驃騎ひょうき大將軍,宋配は驍騎ぎょうき大將軍を加えられた。

 また、この時に北宮純と宋配は涼州に帰任して勅命を待つように命じられた。


 ※


 この頃、長安城内の民戸は百に満たず、城内は荒れ果てて茨が生い茂る有様であった。朝廷には公私の車が四台しかなく、百官が身につける印綬も木を削って造られていた。文武の官の多くは近隣の郡縣に出向いて糧秣の徴収に追われて長安になく、軍国の大事は索綝に委ねられた。

 その索綝は字を巨秀きょしゅうといい、敦煌とんこうの人である。若年より抜群の器量を讃えられ、父の索靖さくせいは敦煌の五龍と謳われた名士にして関内侯かんだいこうの爵位を贈られた。

▼「索靖」は『続三国志』の「第四十九回 張華は賢士を挙げ薦む」にて張華ちょうかにより洛陽に招聘されたものの、晋の滅亡を覚って官を棄てている。

 索靖は人心の向背と国家の興廃を知る人であったが、索綝を評価して兵学を含む学問を伝えた。郡はその賢才を知って主簿しゅぼに任用せんと図るも、索靖はそれに怒って言った。

「吾が子は経国の大才であって刀筆の吏ではない。州縣の職など授けて吾が子を汚すつもりか」

 その言葉の通り、索綝は晋の大難にあって大任を背負うこととなった。司馬業の詔を受けると司馬熾の訃報を長江沿岸地域や湖南こなん河西かせい冀州きしゅう幽州ゆうしゅう遼東りょうとうに報せる。


 ※


 劉琨りゅうこん劉曜りゅうように敗れて鮮卑せんぴ拓跋部たくばつぶが拠る代郡だいぐんに身を寄せていた。長安からの詔を受けると、西に向いて大哭し、すぐさま代公だいこう拓跋たくばつ猗盧いろに見えて言った。

「漢賊の劉聰りゅうそうの行いは不道に過ぎる。先帝を害して吾らの心を折るつもりであろう。しかし、晋の臣である吾には守るべき郡もなく、恢復を望んだところでなす術もない。どうしたものであろうか」

「君は勢を失っているが、天は善人に試練を与えることもある。今は雌伏の時、嘆いても詮ないことであろう」

「不肖の身ではあるが、忠心により事を行って劉曜に敗れた。この怨みは九度生まれ変わったところで忘れられぬ。明公は晋の爵位を受ける身であれば、その恩義により一軍を吾に与えられよ。吾が一族の命運を賭して并州を恢復し、大晋再興の基盤とせねばならぬ。その暁には明公の徳を忘れず、必ずや恩義に報いるであろう」

 拓跋猗盧と劉琨の縁は深い。そのため、この願いを入れて長子の拓跋たくばつ六修りくしゅに部将の日律孫じつりつそん賓六須ひんりくしゅたちを副えた五万の先鋒を発し、自らも五万の精鋭を率いて後詰となることを決めた。

 姫澹きたんを道案内とする軍勢は、日を期して并州に向けて次々と発していく。


 ※


 漢の斥候は代の鮮卑族の南下を知ると、晋陽の劉曜に告げ報せた。

 劉曜は報告に接すると諸将を集めて対策を諮り、姜發が言う。

「劉琨は根拠地の并州を失い、怨みは骨髄に徹しておりましょう。そのため、鮮卑の軍勢を借りて仇に報いようとしているのです。拓跋部の軍勢は剽悍で知られ、さらに劉琨子飼いの軍勢も吾らと戦して大敗を喫したわけではなく、士気は低くありますまい。一方、転戦を重ねた吾らの将兵は疲弊しており、正面から戦っては劣勢に陥る虞がございます。まずは堅守してその軍勢を疲れさせるとともに、平陽に人を遣わして援軍を求めるのが上策でありましょう」

「数十万の晋兵とて吾が鋭鋒を止められなんだ。鮮卑の軍勢など恐れるに足りぬ。戦を避ければ劉琨たちが好き放題に振舞うだけではないか」

「そうではありません。新たに陥れた并州は、まだ仮の宿のようなものです。民心を得ているとは申せません。一方、劉琨は晋陽に拠って歳月を重ねております。一戦して敗れようものならば、民心は必ずや離れましょう。そうなっては城を守り抜けません」

「吾が軍勢は勇猛で知られ、その兵威は知らぬ者がない。出戦せず城を囲まれて平陽への帰路を断たれれば、ただ世人に哂われるのみならず、窮地に陥る虞がある」

 劉曜はそう言って押し切ると、自ら先鋒となって五万の軍勢を発する。劉燦りゅうさん邢延けいえんが左右の軍勢を率い、劉豊りゅうほうが後詰となり、晋陽の東を流れる汾水ふんすいを渡り、狼猛ろうもうに軍営を置いたことであった。

◆「狼猛」は『晋書しんじょ劉聰りゅうそう載記さいきに「猗盧は子の日利孫(作中の日律孫)、賓六須および將軍の衞雄、姬澹等を遣わし、眾數萬を率いて晉陽を攻む。(劉)琨は散卒千餘を收めて之を鄉導きょうどう(道案内)と為し、猗盧は眾六萬を率いて狼猛に至れり。(劉)曜および賓六須は汾東ふんとう(汾水の東)に戰う。(劉)曜は馬より墜ちて流れ矢にあたり、身に七創(創は傷の意)を被る」とあり、晋陽から汾水を東に渡った先にあるとする。正しくは狼盂ろううであるらしく、その場合、晋陽から汾水を北に遡り、東北から注ぐ洛陰水らくいんすいの水源に近い。代から晋陽に向かう最短経路上にある。

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