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2018年10月3日 00:14 編集済
劉琨が段々とクローズアップされてきましたね。必ずしも戦が強いというわけではない劉琨ですが、人を惹きつける力はあったようで、これからはしぶとく北漢に抵抗をします。劉琨と祖逖にあの二つのエピソードが採用されていないのは残念ですね。三国志後伝は戦争ばかりに力をいれ、そういったエピソードがあまりないのは欠点の一つだと思われます。北漢が架空が多いゆえ、バランスをとるためと思われますが、劉殷のエピソードまで落ちているのはなんとしたことでしょう。劉聡が劉殷の娘を迎えたのは、漢人と融合を図ったのかもしれませんし、司馬熾を辱め、殺したのは、降伏しない劉琨たちの様子を見て、その希望を断とうとした意図であり、いまだ、暗愚と化したわけでもないかもしれませんが、すでにそのような解釈をされてしまうぐらい状況は悪くなってしまっていたのでしょう。司馬熾も死んだので、かつてのリストの司馬氏は司馬睿以外はいなくなりました。司馬氏の再興もまた無理っぽいので、戦争になっても抵抗を続ける晋人たちに劉聡がいら立って、精神が崩壊しても仕方ないかもしれません。石勒と違って、劉淵一族は教養もあり、屠各種の貴族育ちですから、繊細だったと思われます。劉義は劉聡の皇太弟になっていますが、三国志後伝では劉聡のおじなのに奇怪な話ですね。ここだけ、劉乂であると言わなかったのは、史実上の劉乂とは別人の解釈も成り立つと思ったからです。【追伸】>作中に先鞭はちらっと触れられてたはずです。先鞭は触れられてましたか。私の勘違いでした。>劉琨の誤りでしょうか?劉殷で正しいです。劉殷のエピソードは劉淵か劉聡へのエピソードとしていれてもいいな、と思ったわけです。大事な北漢側の記事ですから、そういった内容を削除するのはもったいないと思った次第です。>史学が確定させた枠を活用して文学や歴史好きは>自分なりの推論を楽しむ、って感じでしょうか。実態は、司馬史観のところでもありましたけど、歴史好きも創作もどちらかというと史学のところに入り込み、人の心理を推測して、面白い独説をとなえるのに、一生懸命って感じですね。私としては、前もお話した通り、創作をしたいのか、歴史評論をしたいのか、文学史・思想史の影響を受けた歴史研究として考えているのか。>史学は損です。あー、分かります。文学や思想史から入ると、司馬氏は何晏(これはどう正史を解釈するかで変わりますが)や竹林七賢を抑圧した圧制者で、状況証拠もあるので、あまり動かないと思っていたのですが、史学の人のそっけなさや、ネット独自の歴史評論から来る司馬氏好きとはどうしても合わないということがあります。そこは、文学や思想史の方が得なところでもあるわけですね。>劉乂だと劉淵の子だけど、略字だと劉乂=劉義になる、と。義の略字は、「义」であり、「乂」ではないです。三国志後伝では、なぜか、司馬义(史実の司馬乂)・魏义(史実の魏乂)・劉义(史実の劉乂)となっているわけです。これは、前、お話した通り、三国志演義の「呂义」が正史三国志の「呂乂」であるかのようによくある間違いなのです。ただ、血縁関係が違い、別人設定もありえるので、劉義に関しては劉義のままでいいかな、と考えたという次第です。
作者からの返信
【追記を受けて】>先鞭うろ覚えでしたが、「第六十八回 陳頵は上書して王導に贈る」に以下の記述がありました。 祖逖が六郡を兼ねたと知り、劉琨《りゅうこん》は知人に次のような書状を送った。「吾は常に矛によって敵を待ち、梟雄たらんと胡族どもと戦ってきた。ただ、祖生(祖逖、生は同輩を呼ぶ呼称)が吾より先に敵に鞭をつけるとは思わなかった」「敵に先鞭をつけるとは思わなかった」にしようとして、「これ、出典だからマズイわ」と改めた記憶がありまして。手紙でも祖逖を称揚する劉琨はいいヤツだったようですね。> 劉殷劉淵への進言は諸葛宣于や張賓にやらせたいところですし、劉聰との間では目ぼしいエピソードはないようですね。むしろ、士大夫に重んじられたという記述ばかり目立ちます。孝友傳に入っているので、政治家というより君子として評価されているようです。傳を読む限り普通に学者ですね、この人。>人の心理を推測して、面白い独説をとなえるのに、一生懸命って感じですね。「消費」の仕方としては正しいですね。ただ、それを使って何かができるかというと、ちょっと難しい。。。>文学や思想史こちらは人の内面を扱う学問ですから、作法が違います。史学との食い合わせはよさそうで実は悪いのかも。。。史学>文学や史学>思想史なんてことは言えませんが、やはり、「違う」のですよね。>义失礼しました。チョンがつきますね。チョンがないということは誤り、かな。史書を観れば作中の「劉義」は「劉乂」の方がよさそうですけど、なんでわざわざ「劉義」にしたんでしょうね。史書にもいないし。不思議。チラ見しましたが、劉乂の母の單氏と劉聰の逸話はエグイですね。北齊でよく見たヤツだ、これ。偽太后の單氏は姿色絕麗、聰はこれを烝せり。單は即ち乂の母なり。乂は屢び以て言を為し、單氏は慚く恚じて死せり。聰は悲悼して已むなし。劉聰としては心外この上ない話ではあります。匈奴の習俗ではまったく問題にならない、というより父の跡を継いだ者の義務でさえあったわけですから。それが漢化すると倫理上の大問題になってしまうという。隋煬帝こと楊広は相当ダメな感じですが、劉聰や北齊諸王のように漢化が浅い方々については、漢文化の道徳規範からの批判は躊躇してしまいます。草原で寡婦の生活を保護するには、こうじゃないとダメだったんですよ。。。※こんばんは。〉劉琨西晋最後の砦ですね。不屈。詩人としても名のある方であります。死ぬまで劉氏に膝を屈しなかった剛直の人です。哀しいかな、徒花で終わった感がありますが、悲劇の主人公として魅力的ですね。しかし、相棒の祖逖もあまり幸せな終わりは迎えていないのですよねえ。載淵め。岳飛ほど酷烈ではありませんが、その先達とも言えるかも知れません。〉あの二つのエピソードが採用されていない二人は司州で同輩として務めた経緯がありますね。『世説新語』にある、同じ部屋で寝ていて、、、という話と先鞭の故事は知ってますが、ほかにありましたかね。作中に先鞭はちらっと触れられてたはずです。〉劉殷のエピソード劉琨の誤りでしょうか?劉殷はチョイ役ですが、并州新興郡の人、劉淵に陥ったものの、適切な助言をした重厚な人物だったようですね。人民の支持も得た有力者。ただ、史書によれば漢文化ど真ん中の人ですから、娘の入内をどのように考えていたのかなあ。〉劉聡が劉殷の娘を迎えた匈奴の劉聰を考えると、同姓不婚がどれだけ意識されていたかは不明です。演義では、趙範が兄嫁の樊氏を趙雲と添わせようとして同姓不婚の理屈で拒否するくだりがありました。これはつまり、明代の人々の意識を反映したのでしょうけど、匈奴というか遊牧民の風習では父の妾を子が相続するのが一般的、これは女性を軽んじたわけではなく、むしろ逆。父を殺しても復讐されないが、母を殺せば姻族に復讐されるのが遊牧民の習いです。すなわち、女性は部族の間の紐帯として重要な位置にありました。よって、娘を迎えるということの意義が、漢人よりもプリミティブだったのではないかと考えます。娘の入内は、劉聰が劉殷を重視していたから部族的紐帯を求めた、という推論も成立するはずです。〉石勒と違って、劉淵一族は教養もあり、屠各種の貴族育ちですから、繊細だったと思われます。詩とか内面の吐露があればともかくですが、立場から考えて気宇壮大な詩しか許されなかっただろうなあ。繊細で弱気だと部族が従わないですし。だからまあ、薮の中です。同姓不婚の問題を考えると、匈奴劉氏の漢化はそれほど深くなかった可能性もあるかも知れません。漢文化を血肉化していたら、やはり律に縛られたでしょうし。ちなみに、史学専攻の考えでは、劉聰の内面の推測は避けて考えるところです。証明して確定できませんから、立論の弱点になりますので。歴史好きにとっては一番おいしいところなのですが、よほどの場合を除くと外形的に確定できるところが史学の主戦場なんですよね。そういう意味では、史学は文学の下働きのような側面もあるように思います。史学が確定させた枠を活用して文学や歴史好きは自分なりの推論を楽しむ、って感じでしょうか。史学は損です。〉劉義劉乂だと劉淵の子だけど、略字だと劉乂=劉義になる、と。ただ、略字の使い方から考えて、劉義→劉乂はあっても、劉乂→劉義はないと思います。略されていないので。互通と略字は似て非なるものです。原書を未見なので果たして劉義と記されているかは不明ですが、義ならそれで確定でよいのでしょう。本作は親族関係の誤りがかなりあるというか、あまり重視していない感じがあります。一族だからいいよね、くらいの勢いです。司馬氏を見ても、チョイチョイ誤りがありました。あまり深掘りしても仕方ないのかも知れませんね。いやはや。
編集済
劉琨が段々とクローズアップされてきましたね。必ずしも戦が強いというわけではない劉琨ですが、人を惹きつける力はあったようで、これからはしぶとく北漢に抵抗をします。
劉琨と祖逖にあの二つのエピソードが採用されていないのは残念ですね。三国志後伝は戦争ばかりに力をいれ、そういったエピソードがあまりないのは欠点の一つだと思われます。北漢が架空が多いゆえ、バランスをとるためと思われますが、劉殷のエピソードまで落ちているのはなんとしたことでしょう。
劉聡が劉殷の娘を迎えたのは、漢人と融合を図ったのかもしれませんし、司馬熾を辱め、殺したのは、降伏しない劉琨たちの様子を見て、その希望を断とうとした意図であり、いまだ、暗愚と化したわけでもないかもしれませんが、すでにそのような解釈をされてしまうぐらい状況は悪くなってしまっていたのでしょう。
司馬熾も死んだので、かつてのリストの司馬氏は司馬睿以外はいなくなりました。司馬氏の再興もまた無理っぽいので、戦争になっても抵抗を続ける晋人たちに劉聡がいら立って、精神が崩壊しても仕方ないかもしれません。石勒と違って、劉淵一族は教養もあり、屠各種の貴族育ちですから、繊細だったと思われます。
劉義は劉聡の皇太弟になっていますが、三国志後伝では劉聡のおじなのに奇怪な話ですね。ここだけ、劉乂であると言わなかったのは、史実上の劉乂とは別人の解釈も成り立つと思ったからです。
【追伸】
>作中に先鞭はちらっと触れられてたはずです。
先鞭は触れられてましたか。私の勘違いでした。
>劉琨の誤りでしょうか?
劉殷で正しいです。劉殷のエピソードは劉淵か劉聡へのエピソードとしていれてもいいな、と思ったわけです。大事な北漢側の記事ですから、そういった内容を削除するのはもったいないと思った次第です。
>史学が確定させた枠を活用して文学や歴史好きは
>自分なりの推論を楽しむ、って感じでしょうか。
実態は、司馬史観のところでもありましたけど、歴史好きも創作もどちらかというと史学のところに入り込み、人の心理を推測して、面白い独説をとなえるのに、一生懸命って感じですね。
私としては、前もお話した通り、創作をしたいのか、歴史評論をしたいのか、文学史・思想史の影響を受けた歴史研究として考えているのか。
>史学は損です。
あー、分かります。文学や思想史から入ると、司馬氏は何晏(これはどう正史を解釈するかで変わりますが)や竹林七賢を抑圧した圧制者で、状況証拠もあるので、あまり動かないと思っていたのですが、史学の人のそっけなさや、ネット独自の歴史評論から来る司馬氏好きとはどうしても合わないということがあります。
そこは、文学や思想史の方が得なところでもあるわけですね。
>劉乂だと劉淵の子だけど、略字だと劉乂=劉義になる、と。
義の略字は、「义」であり、「乂」ではないです。三国志後伝では、なぜか、司馬义(史実の司馬乂)・魏义(史実の魏乂)・劉义(史実の劉乂)となっているわけです。
これは、前、お話した通り、三国志演義の「呂义」が正史三国志の「呂乂」であるかのようによくある間違いなのです。
ただ、血縁関係が違い、別人設定もありえるので、劉義に関しては劉義のままでいいかな、と考えたという次第です。
作者からの返信
【追記を受けて】
>先鞭
うろ覚えでしたが、
「第六十八回 陳頵は上書して王導に贈る」に以下の記述がありました。
祖逖が六郡を兼ねたと知り、劉琨《りゅうこん》は知人に次のような書状を送った。
「吾は常に矛によって敵を待ち、梟雄たらんと胡族どもと戦ってきた。ただ、祖生(祖逖、生は同輩を呼ぶ呼称)が吾より先に敵に鞭をつけるとは思わなかった」
「敵に先鞭をつけるとは思わなかった」にしようとして、
「これ、出典だからマズイわ」と改めた記憶がありまして。
手紙でも祖逖を称揚する劉琨はいいヤツだったようですね。
> 劉殷
劉淵への進言は諸葛宣于や張賓にやらせたいところですし、劉聰との間では目ぼしいエピソードはないようですね。むしろ、士大夫に重んじられたという記述ばかり目立ちます。
孝友傳に入っているので、政治家というより君子として評価されているようです。傳を読む限り普通に学者ですね、この人。
>人の心理を推測して、面白い独説をとなえるのに、一生懸命って感じですね。
「消費」の仕方としては正しいですね。
ただ、それを使って何かができるかというと、ちょっと難しい。。。
>文学や思想史
こちらは人の内面を扱う学問ですから、作法が違います。
史学との食い合わせはよさそうで実は悪いのかも。。。
史学>文学や史学>思想史なんてことは言えませんが、
やはり、「違う」のですよね。
>义
失礼しました。チョンがつきますね。
チョンがないということは誤り、かな。
史書を観れば作中の「劉義」は「劉乂」の方がよさそうですけど、
なんでわざわざ「劉義」にしたんでしょうね。史書にもいないし。
不思議。
チラ見しましたが、
劉乂の母の單氏と劉聰の逸話はエグイですね。
北齊でよく見たヤツだ、これ。
偽太后の單氏は姿色絕麗、聰はこれを烝せり。
單は即ち乂の母なり。
乂は屢び以て言を為し、單氏は慚く恚じて死せり。
聰は悲悼して已むなし。
劉聰としては心外この上ない話ではあります。
匈奴の習俗ではまったく問題にならない、というより
父の跡を継いだ者の義務でさえあったわけですから。
それが漢化すると倫理上の大問題になってしまうという。
隋煬帝こと楊広は相当ダメな感じですが、
劉聰や北齊諸王のように漢化が浅い方々については、
漢文化の道徳規範からの批判は躊躇してしまいます。
草原で寡婦の生活を保護するには、
こうじゃないとダメだったんですよ。。。
※
こんばんは。
〉劉琨
西晋最後の砦ですね。不屈。
詩人としても名のある方であります。死ぬまで劉氏に膝を屈しなかった剛直の人です。哀しいかな、徒花で終わった感がありますが、悲劇の主人公として魅力的ですね。
しかし、相棒の祖逖もあまり幸せな終わりは迎えていないのですよねえ。載淵め。岳飛ほど酷烈ではありませんが、その先達とも言えるかも知れません。
〉あの二つのエピソードが採用されていない
二人は司州で同輩として務めた経緯がありますね。『世説新語』にある、同じ部屋で寝ていて、、、という話と先鞭の故事は知ってますが、ほかにありましたかね。作中に先鞭はちらっと触れられてたはずです。
〉劉殷のエピソード
劉琨の誤りでしょうか?
劉殷はチョイ役ですが、并州新興郡の人、劉淵に陥ったものの、適切な助言をした重厚な人物だったようですね。人民の支持も得た有力者。
ただ、史書によれば漢文化ど真ん中の人ですから、娘の入内をどのように考えていたのかなあ。
〉劉聡が劉殷の娘を迎えた
匈奴の劉聰を考えると、同姓不婚がどれだけ意識されていたかは不明です。
演義では、趙範が兄嫁の樊氏を趙雲と添わせようとして同姓不婚の理屈で拒否するくだりがありました。
これはつまり、明代の人々の意識を反映したのでしょうけど、匈奴というか遊牧民の風習では父の妾を子が相続するのが一般的、これは女性を軽んじたわけではなく、むしろ逆。
父を殺しても復讐されないが、母を殺せば姻族に復讐されるのが遊牧民の習いです。すなわち、女性は部族の間の紐帯として重要な位置にありました。
よって、娘を迎えるということの意義が、漢人よりもプリミティブだったのではないかと考えます。
娘の入内は、劉聰が劉殷を重視していたから部族的紐帯を求めた、という推論も成立するはずです。
〉石勒と違って、劉淵一族は教養もあり、屠各種の貴族育ちですから、繊細だったと思われます。
詩とか内面の吐露があればともかくですが、立場から考えて気宇壮大な詩しか許されなかっただろうなあ。繊細で弱気だと部族が従わないですし。
だからまあ、薮の中です。
同姓不婚の問題を考えると、匈奴劉氏の漢化はそれほど深くなかった可能性もあるかも知れません。漢文化を血肉化していたら、やはり律に縛られたでしょうし。
ちなみに、史学専攻の考えでは、劉聰の内面の推測は避けて考えるところです。証明して確定できませんから、立論の弱点になりますので。
歴史好きにとっては一番おいしいところなのですが、よほどの場合を除くと外形的に確定できるところが史学の主戦場なんですよね。
そういう意味では、史学は文学の下働きのような側面もあるように思います。史学が確定させた枠を活用して文学や歴史好きは自分なりの推論を楽しむ、って感じでしょうか。
史学は損です。
〉劉義
劉乂だと劉淵の子だけど、略字だと劉乂=劉義になる、と。ただ、略字の使い方から考えて、劉義→劉乂はあっても、劉乂→劉義はないと思います。略されていないので。
互通と略字は似て非なるものです。
原書を未見なので果たして劉義と記されているかは不明ですが、義ならそれで確定でよいのでしょう。
本作は親族関係の誤りがかなりあるというか、あまり重視していない感じがあります。一族だからいいよね、くらいの勢いです。司馬氏を見ても、チョイチョイ誤りがありました。
あまり深掘りしても仕方ないのかも知れませんね。いやはや。