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2018年8月30日 21:09
第八十五回と第八十六回は、三国志演義の傅僉と蔣舒の話と、関の裏にある小路を使う戦法を好む水滸伝の話を足したものですな。これは、関山・関心のファインプレイでした。この二人は、キャラがちゃんと立っていますね。今回で司馬模が死亡し、リストに載せていた司馬氏二十三名は、ついに、捕まった司馬熾と司馬睿を除いて、全滅してしまいました。器でないものが天下を有すると、一族も天下の人もまとめて不幸にしますな。誰なら成功したかについては分かりませんが、時代の流れであったというには、余りにも酷い司馬氏の天命でした。後世の人々から酷評されるのは当然だと思います。晋側も新進の英雄として、陳安・張春らが出てきましたね。関中は確かに、武人の産地ですな。ただ、この回の張瓊の発言>かつて魏兵が蜀に入った折、>後主は譙周の勧めに従って>鄧艾に投降し、百姓に危害が>及ばぬよう願ったといいます。>その子孫が中興の大事を果たし得たのは、>この一事によるのです。これを読むと、何気に、三国志演義では忠烈というような評価を受けていた劉諶(劉曜の父)が酉陽野史にディスられているのでしょうか?攻めてきたのが劉曜であるだけに、何気に気になりました。
作者からの返信
こんばんは。遅蒔きながら今週最後のチャンスなので返信をば。〉関の裏にある小路を使う戦法を好む水滸伝の話関所破りや密かに侵入して門を開けるのは水滸伝にかなりあった気がしますね。しかし、講談社学術文庫版は積ん読状態。。。岩波版以来なので早く読み返したいです。〉関山・関心関謹・関防兄弟は圧倒的に強い上にキャラ立ちしないという悲しい状態でした。関山とかチョイ役だと思ったら大活躍です。何というか、制御が効いてない感じですよね。関防・関謹がもったいない。〉全滅親の因果が子に報い、ではありませんが。三国時代末期が司馬氏の台頭を要請したことは間違いなく、これは必然だったのでしょう。曹魏の構造的な問題でしょうから。しかし、司馬氏は手に入れた権限を使って自家の保存に有利な仕組みを作れなかった。また、いわゆる中華の統一に専心するあまり、五胡のような中華の外の異族への対応を怠った。思うに、このあたりが司馬氏が迎えた悲惨な未来の原因だったのかな、と。破壊的イノベーションと同じ仕組みですね。〉酷評前者はともかくとして後者、異民族が中華文明に接してどこまで力をつけるかは不可知に近く、そもそも意識にあげたのは江統くらいだったのでしょう。これは、司馬氏を下げるより江統の識見を上げるべき事例かと思います。我々は後世から時代を俯瞰するがゆえにこのあたりを明らかに認識しますが、同時代人であればどうか、その点は常に留保しなくてはならないと考えております。司馬炎より房玄齢や李延寿の方が情報量が多いことは確かですし、後世の史家にしても然り。このあたりを批判する史家の評は、ある意味で筋違いだなあと考えております。現場や同時代ではなかなかそこまでは見通せないものですよね。まあ、司馬炎は同時代人の臣下に諌められていますから、目が利かなかったと言われれば然りなのですが、まさかそこまでとは、が正直なところじゃないですかね。劉淵がそもそも奇跡に近い存在でもありますし、匈奴からあんなんが出て来るなんて予想外にも程がありますよ。規格外です。〉陳安いやー、好き嫌いは別にしてスゴイ人ですよね。超パワフル、個人的には苟晞や王浚と並ぶヒットです。彼の活躍というか、梟雄ぶりも『続三国志演義III』翻訳の原動力になるかも。仰る通り、関西は武人の産地ですよねえ。〉劉諶(劉曜の父)が酉陽野史にディスられている劉曜は劉諶の子だからここでくさした、という可能性も捨てがたいです。結局、投降を首唱したメンツは劉曜に不忠の廉で殺害されてしまいます。劉諶・劉曜という帝室への忠義を至上とする価値観と、譙周・張瓊という民の保護を至上とする価値観を対比したのは明らかです。うーむ、気づきませんでした。勉強になります。
第八十五回と第八十六回は、三国志演義の傅僉と蔣舒の話と、関の裏にある小路を使う戦法を好む水滸伝の話を足したものですな。これは、関山・関心のファインプレイでした。この二人は、キャラがちゃんと立っていますね。
今回で司馬模が死亡し、リストに載せていた司馬氏二十三名は、ついに、捕まった司馬熾と司馬睿を除いて、全滅してしまいました。器でないものが天下を有すると、一族も天下の人もまとめて不幸にしますな。誰なら成功したかについては分かりませんが、時代の流れであったというには、余りにも酷い司馬氏の天命でした。後世の人々から酷評されるのは当然だと思います。
晋側も新進の英雄として、陳安・張春らが出てきましたね。関中は確かに、武人の産地ですな。
ただ、この回の張瓊の発言
>かつて魏兵が蜀に入った折、
>後主は譙周の勧めに従って
>鄧艾に投降し、百姓に危害が
>及ばぬよう願ったといいます。
>その子孫が中興の大事を果たし得たのは、
>この一事によるのです。
これを読むと、
何気に、三国志演義では忠烈というような評価を受けていた
劉諶(劉曜の父)が酉陽野史にディスられているのでしょうか?
攻めてきたのが劉曜であるだけに、何気に気になりました。
作者からの返信
こんばんは。
遅蒔きながら今週最後のチャンスなので返信をば。
〉関の裏にある小路を使う戦法を好む水滸伝の話
関所破りや密かに侵入して門を開けるのは水滸伝にかなりあった気がしますね。しかし、講談社学術文庫版は積ん読状態。。。岩波版以来なので早く読み返したいです。
〉関山・関心
関謹・関防兄弟は圧倒的に強い上にキャラ立ちしないという悲しい状態でした。関山とかチョイ役だと思ったら大活躍です。何というか、制御が効いてない感じですよね。関防・関謹がもったいない。
〉全滅
親の因果が子に報い、ではありませんが。
三国時代末期が司馬氏の台頭を要請したことは間違いなく、これは必然だったのでしょう。曹魏の構造的な問題でしょうから。
しかし、司馬氏は手に入れた権限を使って自家の保存に有利な仕組みを作れなかった。また、いわゆる中華の統一に専心するあまり、五胡のような中華の外の異族への対応を怠った。
思うに、このあたりが司馬氏が迎えた悲惨な未来の原因だったのかな、と。
破壊的イノベーションと同じ仕組みですね。
〉酷評
前者はともかくとして後者、異民族が中華文明に接してどこまで力をつけるかは不可知に近く、そもそも意識にあげたのは江統くらいだったのでしょう。これは、司馬氏を下げるより江統の識見を上げるべき事例かと思います。
我々は後世から時代を俯瞰するがゆえにこのあたりを明らかに認識しますが、同時代人であればどうか、その点は常に留保しなくてはならないと考えております。
司馬炎より房玄齢や李延寿の方が情報量が多いことは確かですし、後世の史家にしても然り。このあたりを批判する史家の評は、ある意味で筋違いだなあと考えております。
現場や同時代ではなかなかそこまでは見通せないものですよね。
まあ、司馬炎は同時代人の臣下に諌められていますから、目が利かなかったと言われれば然りなのですが、まさかそこまでとは、が正直なところじゃないですかね。
劉淵がそもそも奇跡に近い存在でもありますし、匈奴からあんなんが出て来るなんて予想外にも程がありますよ。規格外です。
〉陳安
いやー、好き嫌いは別にしてスゴイ人ですよね。超パワフル、個人的には苟晞や王浚と並ぶヒットです。彼の活躍というか、梟雄ぶりも『続三国志演義III』翻訳の原動力になるかも。
仰る通り、関西は武人の産地ですよねえ。
〉劉諶(劉曜の父)が酉陽野史にディスられている
劉曜は劉諶の子だからここでくさした、という可能性も捨てがたいです。結局、投降を首唱したメンツは劉曜に不忠の廉で殺害されてしまいます。
劉諶・劉曜という帝室への忠義を至上とする価値観と、譙周・張瓊という民の保護を至上とする価値観を対比したのは明らかです。
うーむ、気づきませんでした。
勉強になります。