第八十八回 劉曜は長安城を奪い取る

 晋から降った王因おういん劉曜りゅうように言う。

「すでに包囲して六十日が過ぎ、城内では餓死する者が半ばにまで至っておりましょう。しかし、吾らも将兵の三分の一を失っております。長安ちょうあんの城壁は高く厚く、他の比ではなく、糜晃びこうは老練にして守城を善くし、北宮純ほくきゅうじゅんは勇猛でありながら余人の意見をよく容れ、陳安ちんあんは計略に優れて一軍の将としても秀でています。それに張春ちょうしゅんも謀略を得意としております。彼らが同心して城を守れば、にわかに陥れられますまい。この城下に久しく軍勢を留め、晋の救援に背後を襲われれば、大王が朝廷より責を問われる懼れもございます。臣が長安に入って南陽王なんようおうを説得し、長安城内の民の命を救いたく存じますが、大王はいかが思し召されましょうや」

「吾も南陽王が降って無用の殺戮を避けられるのであれば、それに越したことはない。しかし、晋帝や南陽王は降るであろうか」

「まずは説得して様子を観るよりありますまい」

 そう言うと、王因は劉曜の許しを得て長安に向かう。城門の下に着くと門を開けるよう叫んだ。陳安は王因を迎え入れるよう命じ、城門が開かれる。

「吾は卿を推挙して嶢関ぎょうかんの守りを委ねた。重責を委ねられたにも関わらず、漢賊に通じて関を明け渡した上、さらに此処に姿を現すとはどういうつもりか」

 陳安の問いには答えず、王因が言う。

「南陽王にお話したいことがあります。共に謁見して頂けますまいか」

「吾は城の守りを委ねられており、共に行くことはできぬ。卿が独りで謁見するがよい。その後にまた顔をあわせることもあろう」

 そう言うと、陳安は軍士に命じて王因を南陽王の許に向かわせた。


 ※


 王因を迎えた南陽王の司馬模しばぼが言う。

「卿は嶢関を失ってから、何処にいたのか」

小臣しょうしん(目上に対して謙遜した自称)は不才にして、漢将の関山かんざん関心かんしんに西山の獣道を抜けられ、関を失いました。その際、小臣は部下を斬られた上に擒とされたのです。幸い、古い知己の姜飛きょうひという者があり、死を許されてその部下となったのです。小臣は長安城中の民が餓死の危機に瀕し、さらに三軍が城内に逼塞して苦しむ姿を目にし、大王にお目にかかるべく参じたのです」

「孤にどのような話があるというのか」

「漢将に見えて和約を結び、軍勢を退かせて一城の兵民の命を救うべく参ったのです。小臣は敵に降った不忠者でありますが、一城の兵民の命が救われればそれは大王の陰徳となりましょう。さもなくば、いずれは城は破られて玉石を分かたず皆殺しとされましょう」

「近隣の郡縣には長安の救援を命じる詔が下されておる。久しからずして救援の軍勢が駆けつけよう。卿は孤の部下であった身でありながら、漢賊どもに孤の膝を屈せよというのか」

「大王がご存知ないところでありますが、長安から遣わされた使者はいずれも漢兵に捕らえられました。そのため、漢兵たちは城門を厳しく守って再び使者が遣わされぬように阻んでいるのです。どうして救援の軍勢が駆けつけられましょうか」

「天は大晋を助けぬか。孤は大事を誤った。卿は退き、孤が諸将に諮る結果を待て」

「お邪魔はいたしますまい。ただ大王が死罪の身である小臣の願いをお聞き届け頂けるならば、これに過ぎる幸甚はございません」

 そう言うと、王因は深々と謝して退いた。


 ※


 南陽王は諸将を集めて王因の言葉を報せ、それを聞いた者は口々に言う。

「王因は漢賊どものために説いたのでしょうが、その言に理がなくはありません。城内の民は餓えて子供を取り替えて喰らう有様、内より変が生じてもおかしくありません。万一、城門を開く者が現れて漢賊に攻め込まれれば、一朝に大事は終わります」

 百官のうちに秘書丞ひしょじょう張瓊ちょうけいという者があり、王因とは親友の間柄であった。その者が進み出て言う。

「かつて魏兵が蜀に入った折、後主は譙周しょしゅうの勧めに従って鄧艾とうがいに投降し、百姓に危害が及ばぬよう願ったといいます。その子孫が中興の大事を果たし得たのは、この一事によるのです。百姓に害を及ぼしてはなりません。大王におかれましても、後主に倣って百姓に害を及ぼされぬことが肝要と存じます。内より変事が生じては、悔いても及びません」

 張瓊の言を聞くと、南陽王は呻吟して言う。

「卿の言に理があるものの、それでは孤は先帝に重罪を犯すこととなろう」

「時勢には常態と非常の態があり、方策も同じことです。今や大晋の命数は陽九きょうきゅうの厄に及び、おそらく大王お一人の力では支えられますまい。臣はそれゆえに非常の方策により兵民の命を救い、恩恵を後日の資とされるようお勧めするのです」

▼「陽九の厄」の原文は「陽九」、奇数は陰陽の陽にあたり、一桁の最大数である九は陽気の極みとされる。よって、「陽九」は極まった事態を意味し、「陽九の厄」は破滅に近い意味を持つ。

 南陽王は意を決さず、さらに陳安を呼ぶ。

「大王はどのようにお考えですか」

「王因を斬って投降を拒めば、兵民の心が変じて長安を守りきれぬ懼れがある。そうなれば、ただ漢賊の擒となるだけであろう。それだけならばまだしも、大晋の威名は地に堕ち、宗廟を損なって後世の者どもに哂われよう」

「百官の心事を観るに、漢賊を畏れる者が多くあります。長安を守り抜くにも闘志を欠くのです。計略を行うよりありますまい。まず、『城内の飢餓が窮まっており、百姓の飢え死にする者が数え切れぬ。勧めに応じて投降する。ただし、城内が混乱して無辜の命が奪われるのは本意ではない。投降に先んじて包囲を解き、混乱せぬよう配慮して貰いたい』と王因に伝えましょう。投降するならばと劉曜も従うでしょう。吾らは投降を願う書状を送って安心させる一方で、軍勢と府庫の財貨を集めます。その後、閻鼎えんてい胡崧こすう糜晃びこうと吾が陛下を護り、大王のご一族と張春、梁綜、王毗は輜重を保ち、夜陰に乗じて糧秣がある上邽じょうけいに逃れるのがよろしいでしょう。上邽から詔を賈疋かひつ索綝さくしんに下し、軍勢を合わせて長安を奪還するのが上策です。このまま長安に留まれば、必ずや内より変事を生じます。張瓊を王因とともに漢賊の軍営に遣わして投降を願わせましょう」

「妙計というべきであろう。しかし、漢賊どもが気づいて追手を繰り出せば水泡に帰する懸念もある。卿らは陛下を守って上邽に向かい、大晋の恢復を図れ。孤は張瓊とともに漢賊に降って時間を稼ごう。それならば上邽に到るまでの懸念もない」

「大王は大晋の主も同然、どうして大王の命を漢賊に与えられましょう」

「孤はすでに老齢に及び、また大晋を支える能もない。孤の嫡子と一族は卿らに託す。必ずや長安を恢復して宗廟を安からしめよ。さすれば、孤は北方に連行されて命を奪われようとも、瞑目して遺恨はない」

 ここにおいて策はついに決した。


 ※


 南陽王は内に入って晋帝を拝すると、索綝と賈疋に与える詔を認めた。それより張瓊とともに数十人の従者を従え、地図と戸籍を奉げて漢の軍営に向かった。それに随う王因が軍営に報告すると、劉曜は自ら軍門に迎え出る。

 南陽王の一行は上賓の礼によって遇され、慰労の酒宴が開かれた。

 その夜、陳安、胡崧、張春は南陽王の子の司馬保しばほを含む一族とともに長安を抜けた。続いて閻鼎、梁綜、王毗、北宮純たちは晋帝を護ってその後につづく。糜晃だけは長安に留まった。

 漢将の呼延勝は長安を抜ける軍勢があると知り、五千の軍勢を率いて追撃に向かった。西に向かう軍勢に追いつくと叫んだ。

「お前たちは何処に逃げるつもりか」

「吾らは涼州りょうしゅうから救援に来たのだ。南陽王と陛下はお前たちに投降すると定められた。それゆえに涼州に引き返すだけのことだ」

「その涼州の軍勢が何ゆえにこの深更に逃げるのか」

 そこに北宮純が現れると、大斧を振るって言う。

「陛下をお守りすべく参じたものの、空しく引き返す。それだけのことに過ぎぬ。吾の手並みは知っていよう。お前が道を阻むならば戦あるのみ、生死を賭けていずれが英雄であるかを示せ」

 北宮純はそう言うと、大斧を挙げて呼延勝に逼った。すでに南陽王が降ったと知る呼延勝としても、ここで北宮純のような難敵と戦をするつもりはない。

「お前たちに他意がなければ、吾らは帰路を阻むような真似はせぬ」

 そう言うと、追撃の軍勢を返した。

 呼延勝の追撃は北宮純に退けられたものの、追兵を知った陳安と閻鼎はそれぞれ道を分かれた。陳安と胡崧は司馬保とともに上邽じょうけいに向かい、閻鼎と梁綜は晋帝を擁して雍州ようしゅうを目指す。

▼「上邽」は『晋書しんじょ地理志ちりしでは秦州しんしゅう天水郡てんすいぐんの治所とする。

▼「雍州」の治所は『晋書』地理志によると長安であり、長安から雍州に逃れたという記述は解しがたい。酉陽野史の誤りと見るよりない。

 北宮純は先行する軍勢が二つに分かれたと知ると、いずれにも向かわず涼州に引き上げた。


 ※


 翌日、長安の変事を知った間諜が報せて言う。

「長安城内の軍勢は晋帝を連れて逃げ去ったようです」

 劉曜は南陽王を召し出すと、問うた。

「お前たちは投降したにも関わらず、晋主を長安から逃がしたのか」

「孤は投降して百万の生命を救うことが本意、吾が帝は幼年であるために将軍に害を加えられるかと懼れて逃げ去ったのでしょう。将軍が長安を陥れられるにあたっての障害は孤があるのみ、孤が此処にある限り、長安に残る将兵など問題にもなりますまい」

 劉曜はその言を信じ、軍勢とともに長安に入城して民を安撫する。南陽王は解放されて私邸に還った。長安の民は十の三も残っておらず、他の者たちは昨夜のうちに逃げ去っていた。また、府庫の財貨は持ち去られて得るところがない。

 長安の禁軍の将校に何欽かきんという者があった。南陽王が司馬業を迎えた際に官職を進められなかったことを怨み、南陽王が陳安に諮って定めた計略を、密かに劉曜に報せた。

 劉曜は怒って言う。

「司馬模は本心より投降したものと思っておったが、己を餌にして晋主を逃がす計略であったか」

 すぐさま劉燦に命じ、捕縛して目の前に連行させた。

「お前は吾らを誑かしてこの空城に誘い込み、外から兵を招いて吾らを苦しめるつもりであったか」

「どうしてそのようなことをいたしましょう」

「それならば、何ゆえに陳安に命じて晋主を逃がしたか」

「陳安と北宮純が勝手にやったことです。孤が預かり知るところではございません」

「お前と陳安が計略を定めて投降したことはすでに明らか。この期に及んで詮議は無用だ」

 劉曜はそう言うと、従って投降した者たちも含めて斬刑に処する。その首級は捷報とともに平陽へいようにある漢主の劉聰に送られた。

 劉聰は長安を陥れて司馬模の首級を挙げたと知って言う。

「関中が陥ったならば、朕の憂えの一つは除かれた」

 功績に報いるべく詔を認め、劉曜を中山王ちゅうざんおうに封じて雍州ようしゅう大総管だいそうかんに任じ、長安の鎮守を命じる。さらに、その軍勢に従う将兵にはそれぞれ封賞を与えたことであった。

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