このエピソードを読む
2018年8月26日 20:35 編集済
ここでは、司馬模は、司馬越の弟ではないので、ディスっていますが、実際は司馬越の党が洛陽を見捨てたので、援軍を送らなかったのでしょう。関中は張方殺害で降伏者が多かったようですし、祁弘に略奪されたぐらいしか被害はないので、まだまだ余力は残していたと思われます。氐や羌に備えるために動けなかったと推測する論文もありますが、その後の経過を見ると、とてもそうは思えません。しかし、こんな時まで、足の引っ張り合いとは、司馬一族の内訌は相当に根深いですね。「国に危機が迫ったら団結する」とする展開は両派の指導者がともに高い意識を持った場合のみ限定の話でしょう。しかし、西晋も復活も難しいですが、北漢としてもいまだ北に王浚と劉琨を残し、河北の統治も安定せず、石勒と曹嶷の服従が疑わしい現状では、実際の勢力は拮抗しているといってよいでしょう。赤壁後とはいえ、曹操は馬超討伐に苦戦しました。劉曜の長安討伐はそれより条件が悪く、厳しい戦いになりそうなのは予測できます。しかし、洛陽の陥落により、秦や新のように首都を落とされたら、晋(全部シンですな)が一気に滅亡しなかったのでは、①北漢が匈奴なため反発により各地方が下らなかったのか、②時代の変化により地方の力が増していたからか、③晋の国家体制がこういう危機に対応できたからか、④その他の理由か、自分としては①が主因ではないかなと考えております。【追伸】自分としては、前漢・魏は乗っ取り(クーデター)とはいえ、心臓部を奪われたら、散発的な反乱だけで終わり、蜀・呉を含めると、後漢以外は首都を落とされたら一気に滅亡したものと考えて発言しました。「いつか書きたい三国志」というサイトの、「北漢は洛陽・長安を落としてもいつまでも天命が降りてこず、劉聡のメンタルが崩壊した」という解釈にある程度、納得するものを感じたからですね。これは、あれほど内訌と腐敗の激しかった晋を地方が見捨てて、北漢に下らないという見込み違いが、匈奴(というか異民族)による漢族の支配がまだ初期段階で反発が強いためであると、私は理解しました。http://3guozhi.net/a/re24.html>匈奴と漢族の反目匈奴と同族である羯が、冉閔から虐殺を受けてそれが支持されるなど、さすがに異民族に対する反発が潜在的に相当にあると考えるべきでしょう。劉宣も劉淵の決起時に「晋為無道、奴隷御我」と語ってますし、北漢や石勒の後趙と同様、胡漢分治していた、前趙は非漢族政権とするための改称だった、とするのは小野響先生の論文「前趙と後趙の成立」にあり、これも反発を背景にしていることを想起するものであります。
作者からの返信
【追伸を受けて】> 「北漢は洛陽・長安を落としてもいつまでも天命が降りてこず、劉聡のメンタルが崩壊した」なるほど、面白いですね。天命が降りてくれば郡県はすべて帰降してくるはずなのに、降ってこないということですか。確かに。李矩や劉琨も執拗に抵抗していますものね。気持ちは分かる感じです。>匈奴(というか異民族)による漢族の支配がまだ初期段階で反発が強いためであると、私は理解しました。これも言われてみれば確かに。漢族が成立してから初めての異民族支配でしたね。それまでは匈奴を奴隷にしていたわけで、部族の人間を奴隷にされた匈奴は漢人を憎みますし、漢人はそれに抵抗する。憎しみの連鎖が起きやすいのは確実です。とすると張賓あたりはかなり希少ですね。しかし、一方で幽燕あたりの士大夫が鮮卑に降って参謀を務めていたりもしますね。鮮卑は中華の外にいたから支配されたというよりも、亡命した感じだったのかなあ。後漢末から鮮卑もたいがい北辺で虐殺をした記事があったように思います、たしか。そうなると、漢人と鮮卑も仲良しではない。中華の地を異民族に支配されるのはいや、逆に中華の外に逃れて異民族に従うのはよい、土地も含めて支配されることへの抵抗が強いと考えるべきか。。。>冉閔髭が濃い人間は漢人でも殺されたという話がありましたね!>「晋為無道、奴隷御我」この発言にも漢人に対する憎しみが見えます。> 前趙は非漢族政権とするための改称匈奴の政権で漢はねーわ、という感じですね。胡漢分離するなら漢は名乗れませんね、確かに。最近は史書から離れてしまったので、色々ド忘れしておりました。というより、この時期の異民族に関して定見を持つほどには読み込めていないんだなあ。わりとフワフワしています。大変参考になりました。※こんばんは。漢文を読むという行為に悩む今日この頃です。あー、司馬模は司馬越、司馬騰の弟なんですね。父の司馬泰は司馬懿の四男である司馬馗の子、宗室真っ只中ですが、司馬越の党派に与していた、と。それより何より、高歓が東魏を建国した際の腹心の一人、司馬子如がその末裔と知ってビックリ。詐称クサイですが、名乗って恥ずかしい家名ではなかったわけですよね。〉関中は張方殺害で降伏者が多かったようですし、祁弘に略奪されたぐらいしか被害はないので、まだまだ余力は残していた作中では姜發が「雍州から西の漢中、秦隴には数十万の精兵があると観ねばなりません」と兵力があることを懸念していますね。その重鎮である長安に弟を置いた司馬越は、なかなか頭が切れたと見るよりありません。〉司馬一族の内訌は相当に根深いですね。懐帝司馬熾は司馬越を信用せず、司馬模を長安に置いて逃げ場を確保していたわけですが、まあ、司馬越のやり方を知る限り、そうなりますよね。〉「国に危機が迫ったら団結する」前漢や後漢のように、二百年を閲した王朝のようにはいきませんよね。当人の識見というより、天があるように国家があると思えるかによるのかなと思いました。西晋は国家として若すぎましたか。〉北漢地味に大変な状況です。石勒と曹嶷の自立傾向が明らかになりつつあり、劉聰の掌握する範囲は劉淵の時代とはだいぶ異なります。山東半島から河北中央部への制御が難しい。これはキツイです。しかも、劉聰の器量は末期の劉淵からでも二段落ちくらいですからね。。。暗雲が垂れ込めます。〉晋(全部シンですな)が一気に滅亡しなかったうーむ。どうなんでしょうね。意図されるところと違うかも知れませんが、首都を落とされてから余燼が燻らなかった国家は逆に少なくないですか?秦は中央集権で封国が存在しませんでしたから、頭を打たれたヘビのように死ぬしかありません。また、新は簒奪したものの封国を定着させて藩屏とすりには短く、かつ、一族が集中していたので一網打尽にされた印象です。以降、前漢滅亡時は南陽をはじめとする劉氏が抵抗し、後漢が滅亡に瀕して蜀漢が立ちました。蜀漢と呉は亡命政権を生まず、魏は内部を食い荒らされて換骨奪胎したために亡命政権はなし。西晋の関中政権や東晋は亡命政権ですね。前秦はかなりあがいた印象ですし、慕容燕は前燕滅亡に際して国が分かれましたね。拓跋魏は内部分裂なのであてはまりませんが、その後を受けた北齊は一族の高紹義が突厥に逃れて営州に余喘を保ちました。南朝では梁元帝が江陵に建てた政権が該当しますかね。こうして観ると、一定期間の支配を維持し、かつ、宗室を封建した国家はだいたい首都陥落後に亡命政権を生んでいる、ような気がします。そう考えると、漢代に中国古代封建国家の基本型が確立されており、それを踏襲すると首都を落とされても封国に亡命政権が生じる機能を持つ、と考える方がいいのかなあ。。。〉①北漢が匈奴なため反発により各地方が下らなかったのか①を推されるとのことですが、匈奴と漢族の反目というのが、管見する限りイマイチ史書に見当たらない気がしました。そういう史料ってありましたっけ?なので個人的な見解は、③晋の国家体制がこういう危機に対応できたからが一番近いかも知れません。まあ、晋に限った話ではないのですが、中国古代封建国家の完成によるもの、という理解です。うーむ。まだ釈然としないなあ。。。
編集済
ここでは、司馬模は、司馬越の弟ではないので、ディスっていますが、実際は司馬越の党が洛陽を見捨てたので、援軍を送らなかったのでしょう。関中は張方殺害で降伏者が多かったようですし、祁弘に略奪されたぐらいしか被害はないので、まだまだ余力は残していたと思われます。氐や羌に備えるために動けなかったと推測する論文もありますが、その後の経過を見ると、とてもそうは思えません。
しかし、こんな時まで、足の引っ張り合いとは、司馬一族の内訌は相当に根深いですね。「国に危機が迫ったら団結する」とする展開は両派の指導者がともに高い意識を持った場合のみ限定の話でしょう。
しかし、西晋も復活も難しいですが、北漢としてもいまだ北に王浚と劉琨を残し、河北の統治も安定せず、石勒と曹嶷の服従が疑わしい現状では、実際の勢力は拮抗しているといってよいでしょう。赤壁後とはいえ、曹操は馬超討伐に苦戦しました。劉曜の長安討伐はそれより条件が悪く、厳しい戦いになりそうなのは予測できます。
しかし、洛陽の陥落により、秦や新のように首都を落とされたら、晋(全部シンですな)が一気に滅亡しなかったのでは、①北漢が匈奴なため反発により各地方が下らなかったのか、②時代の変化により地方の力が増していたからか、③晋の国家体制がこういう危機に対応できたからか、④その他の理由か、自分としては①が主因ではないかなと考えております。
【追伸】
自分としては、前漢・魏は乗っ取り(クーデター)とはいえ、心臓部を奪われたら、散発的な反乱だけで終わり、蜀・呉を含めると、後漢以外は首都を落とされたら一気に滅亡したものと考えて発言しました。
「いつか書きたい三国志」というサイトの、「北漢は洛陽・長安を落としてもいつまでも天命が降りてこず、劉聡のメンタルが崩壊した」という解釈にある程度、納得するものを感じたからですね。これは、あれほど内訌と腐敗の激しかった晋を地方が見捨てて、北漢に下らないという見込み違いが、匈奴(というか異民族)による漢族の支配がまだ初期段階で反発が強いためであると、私は理解しました。
http://3guozhi.net/a/re24.html
>匈奴と漢族の反目
匈奴と同族である羯が、冉閔から虐殺を受けてそれが支持されるなど、さすがに異民族に対する反発が潜在的に相当にあると考えるべきでしょう。
劉宣も劉淵の決起時に「晋為無道、奴隷御我」と語ってますし、北漢や石勒の後趙と同様、胡漢分治していた、前趙は非漢族政権とするための改称だった、とするのは小野響先生の論文「前趙と後趙の成立」にあり、これも反発を背景にしていることを想起するものであります。
作者からの返信
【追伸を受けて】
> 「北漢は洛陽・長安を落としてもいつまでも天命が降りてこず、劉聡のメンタルが崩壊した」
なるほど、面白いですね。
天命が降りてくれば郡県はすべて帰降してくるはずなのに、降ってこないということですか。確かに。李矩や劉琨も執拗に抵抗していますものね。気持ちは分かる感じです。
>匈奴(というか異民族)による漢族の支配がまだ初期段階で反発が強いためであると、私は理解しました。
これも言われてみれば確かに。
漢族が成立してから初めての異民族支配でしたね。それまでは匈奴を奴隷にしていたわけで、部族の人間を奴隷にされた匈奴は漢人を憎みますし、漢人はそれに抵抗する。
憎しみの連鎖が起きやすいのは確実です。
とすると張賓あたりはかなり希少ですね。
しかし、一方で幽燕あたりの士大夫が鮮卑に降って参謀を務めていたりもしますね。鮮卑は中華の外にいたから支配されたというよりも、亡命した感じだったのかなあ。
後漢末から鮮卑もたいがい北辺で虐殺をした記事があったように思います、たしか。そうなると、漢人と鮮卑も仲良しではない。
中華の地を異民族に支配されるのはいや、逆に中華の外に逃れて異民族に従うのはよい、土地も含めて支配されることへの抵抗が強いと考えるべきか。。。
>冉閔
髭が濃い人間は漢人でも殺されたという話がありましたね!
>「晋為無道、奴隷御我」
この発言にも漢人に対する憎しみが見えます。
> 前趙は非漢族政権とするための改称
匈奴の政権で漢はねーわ、という感じですね。
胡漢分離するなら漢は名乗れませんね、確かに。
最近は史書から離れてしまったので、色々ド忘れしておりました。
というより、この時期の異民族に関して定見を持つほどには読み込めていないんだなあ。わりとフワフワしています。
大変参考になりました。
※
こんばんは。
漢文を読むという行為に悩む今日この頃です。
あー、司馬模は司馬越、司馬騰の弟なんですね。父の司馬泰は司馬懿の四男である司馬馗の子、宗室真っ只中ですが、司馬越の党派に与していた、と。
それより何より、高歓が東魏を建国した際の腹心の一人、司馬子如がその末裔と知ってビックリ。詐称クサイですが、名乗って恥ずかしい家名ではなかったわけですよね。
〉関中は張方殺害で降伏者が多かったようですし、祁弘に略奪されたぐらいしか被害はないので、まだまだ余力は残していた
作中では姜發が「雍州から西の漢中、秦隴には数十万の精兵があると観ねばなりません」と兵力があることを懸念していますね。
その重鎮である長安に弟を置いた司馬越は、なかなか頭が切れたと見るよりありません。
〉司馬一族の内訌は相当に根深いですね。
懐帝司馬熾は司馬越を信用せず、司馬模を長安に置いて逃げ場を確保していたわけですが、まあ、司馬越のやり方を知る限り、そうなりますよね。
〉「国に危機が迫ったら団結する」
前漢や後漢のように、二百年を閲した王朝のようにはいきませんよね。当人の識見というより、天があるように国家があると思えるかによるのかなと思いました。西晋は国家として若すぎましたか。
〉北漢
地味に大変な状況です。石勒と曹嶷の自立傾向が明らかになりつつあり、劉聰の掌握する範囲は劉淵の時代とはだいぶ異なります。山東半島から河北中央部への制御が難しい。これはキツイです。
しかも、劉聰の器量は末期の劉淵からでも二段落ちくらいですからね。。。暗雲が垂れ込めます。
〉晋(全部シンですな)が一気に滅亡しなかった
うーむ。どうなんでしょうね。
意図されるところと違うかも知れませんが、首都を落とされてから余燼が燻らなかった国家は逆に少なくないですか?
秦は中央集権で封国が存在しませんでしたから、頭を打たれたヘビのように死ぬしかありません。また、新は簒奪したものの封国を定着させて藩屏とすりには短く、かつ、一族が集中していたので一網打尽にされた印象です。
以降、前漢滅亡時は南陽をはじめとする劉氏が抵抗し、後漢が滅亡に瀕して蜀漢が立ちました。
蜀漢と呉は亡命政権を生まず、魏は内部を食い荒らされて換骨奪胎したために亡命政権はなし。西晋の関中政権や東晋は亡命政権ですね。
前秦はかなりあがいた印象ですし、慕容燕は前燕滅亡に際して国が分かれましたね。
拓跋魏は内部分裂なのであてはまりませんが、その後を受けた北齊は一族の高紹義が突厥に逃れて営州に余喘を保ちました。南朝では梁元帝が江陵に建てた政権が該当しますかね。
こうして観ると、一定期間の支配を維持し、かつ、宗室を封建した国家はだいたい首都陥落後に亡命政権を生んでいる、ような気がします。
そう考えると、漢代に中国古代封建国家の基本型が確立されており、それを踏襲すると首都を落とされても封国に亡命政権が生じる機能を持つ、と考える方がいいのかなあ。。。
〉①北漢が匈奴なため反発により各地方が下らなかったのか
①を推されるとのことですが、匈奴と漢族の反目というのが、管見する限りイマイチ史書に見当たらない気がしました。そういう史料ってありましたっけ?
なので個人的な見解は、
③晋の国家体制がこういう危機に対応できたから
が一番近いかも知れません。
まあ、晋に限った話ではないのですが、中国古代封建国家の完成によるもの、という理解です。
うーむ。まだ釈然としないなあ。。。