第八十三回 石勒は謀りて王彌を殺す

 汲郡きゅうぐんにある王彌おうびは、ぎょうに入った石勒せきろくが賢人を求めて士大夫を礼遇していると知り、自立を図っていると覚った。それに応じ、参謀を務める劉瞰りゅうかんの弟の劉暾りゅうとん青州せいしゅう刺史しし曹嶷そうぎょくの許に遣わし、ともに石勒を攻めるべく誘いをかける。

 その劉暾は図らずも石勒の遊軍に擒とされ、書状を奪われた。書状は石勒の許に届けられ、石勒は王彌を討つ準備にかかろうとした。

 その時、使者が駆け込んで言う。

陳午ちんごという賊徒が蓬関ほうかんを抜いて百姓を殺害し、大きな被害を出しております」

◆「蓬関」の所在は明らかではないが、『晋書しんじょ石勒せきろく載記さいきを見る限りは兗州えんしゅう陳留國ちんりゅうこくに含まれる浚儀縣しゅんぎけん付近にあったものと考えられる。

 石勒はそれを聞くと、劉暾を斬って事を伏せ、蓬関に向かって陳午を平定することとした。


 ※


 張敬ちょうけいが先鋒となって軍勢を進め、つづけて大勝すると石勒も加わった軍勢が陳午を包囲する。陳午の謀士を務める李頭りとうは石勒の軍勢に抗い難いと思い知り、虞精ぐせいという者を遣わして降伏を願い出た。

 虞精は石勒に見えると言う。

明公めいこう(石勒に対する二人称)は天生の神武を誇られ、海内を平定されるお方です。四海の百姓は明公に望みをかけており、塗炭の苦しみから救われることを望んでおります。今、明公を忌む者があって許昌きょしょうや鄴を狙っているにも関わらず、それを思われずに吾らの如き賊徒を攻めておられます。吾らは賊徒とはいえ明公の郷党のようなもの、非望を懐いているわけでもなく、食を得られれば民草と変わらず頭を垂れ、叛乱などいたしません。どうして虫けらのような吾らに力を用いるに及びましょうか。明公の大事は他にございましょう」

 それを聞いた石勒は虞精を退かせた。そこに報告する者がある。

「王彌の部将の徐邈じょばくが叛き、劉琨りゅうこんの甥の劉瑞りゅうずいと結んで王彌を攻めたとのことです。王彌は連戦の果てに破られ、救援を求める使者を送って参りました」

「吾は賊徒を平定するために此処に来ている。どうして王彌の救援に向かう暇があろうか。王彌を敗れるままに放っておけば、後患も断てるというものであろう」

 石勒がそう言うと、張賓ちょうひんが諌める。

「そうではありません。陳午など小童に過ぎず、すでに降ったも同然です。再び叛いたとしても容易く擒とできましょう。王彌は人中の傑物、吾らとは外は親しくても内には互いに忌んでおります。王彌の内心は先日の書状で明らかです。また、吾らが劉暾を擒としたと知っていれば、救援など求めては参りますまい。王彌が劉瑞に敗れたことは天佑であり、王彌の軍勢を吾らに与えようとするものです。天が与えるものを取らなければ、かえってその報いを受けると申します。すみやかに陳午を捨てて王彌の救援に向かうべきです。計略を練って王彌に対し、この混乱の中で図れば必ずや成果を得られます。遅疑してはなりません」

 石勒は張賓の言葉に従い、虞精に投降を許して百姓を乱すことを厳しく禁じ、汲郡に向けて軍勢を発した。


 ※


 汲郡への進軍中、石勒は張賓に問うて言う。

「この度はどのような計略を用いるべきであろうか」

「吾らの救援を知って劉瑞が戦を捨てるなら、王彌との相見の礼の際に擒とするのがよいでしょう。不意のことでもあり、備えはありますまい。劉瑞が抗戦するようであれば、劉瑞を擒とした後に宴を設けて王彌を招き、擒とすればよいのです。これで明公の後患は除かれましょう」

「軍師の計略はいつもながら万全だ」

 そう言うと、石勒は軍勢を進めて汲郡の境に到り、軍営を置いて劉瑞の退路を断つ。退路を断たれた劉瑞は進退に窮し、やむなく徐邈の軍勢を向かわせた。王彌は石勒の到着を知ると自ら出戦し、石勒は石虎せきこを向かわせる。

 劉瑞は石虎の軍勢を迎え撃ったものの、わずか十合の間に石虎の一刀を浴びて両断され、その軍勢は潰走した。徐邈もこれに乗じて逃げ奔る。


 ※


 石勒は王彌の許に人を遣わし、劉瑞の首級と書状を届けさせる。書状は祝賀の宴に誘うものであった。

 王彌が躊躇して僚属に諮ると、従事の張嵩ちょうすうが進み出て言う。

「石勒は狡猾、張賓は詐略に長けております。祝宴の席で暗殺を図られれば防ぎようがありません」

「遠方より救援に来たにも関わらず、その誘いを断る理はあるまい」

 参謀の劉瞰も言う。

石公せきこう(石勒)は吾らのために劉瑞を破ったのですから、吾らが宴席を設けて酬いるべきです。どうしてその祝宴に赴く理がありましょうか。さらに思えば、到着が早すぎた嫌いもあります。必ずや謀略を企てておりましょう。決して行ってはなりません。書状を遣って遜謝し、吾らが石公を招いて慰労するのが上策です。明日にでも軍営を訪ねて宴席に誘えば、断ることはありますまい」

「今や石勒の軍勢は盛んである。宴席に誘われて断ることなどできようか。書状を遣って謝絶すれば疑心を起こし、かえって事を難しくしかねぬ」

 王彌が懸念すると、劉瞰は重ねて諌める。

「ただ招きに応じられないというだけのことです。誤解など生みようもありますまい」

「ならぬ。思うに、石勒に他意はあるまい。張孟孫ちょうもうそん(張賓)や趙文翰ちょうぶんかん趙染ちょうせん)はともに艱難を潜り抜けた仲、ただ新主(劉聰りゅうそう)のことを論じたいというのであろう」

 ついに王彌の意は決し、軍営を王如おうじょに、城を王邇おうじに委ねると、十数名とともに石勒の軍営に向かった。


 ※


 軍門に相見えると、営内に設けられた酒席に招じ入れられる。石勒たちに向かって坐すると新主の劉聰と先帝の劉淵について語り合い、各々嘆息した。酒盃が宴席を巡り、数巡したところで徐邈が逃げ去ったとの報告が入った。

 これで汲郡での戦はほぼ終息したことになる。

王彌は席を立つと、酒盃を手に石勒の前に向かう。石勒は王彌が差し出す酒盃を受け取り、傍らの孔萇こうちょうに目を遣る。孔萇は起ち上がると酒壷を取りに席を離れた。

 孔萇が戻った時、王彌は石勒に拝謝して身を伏せていた。

 孔萇は酒壷を捨てると王彌の背に刀を振り下ろした。刀を受けた王彌は地に倒れ、傍らにあった桃豹とうひょうがさらに刀を振り下ろす。

 王彌の命は戦場ならぬ宴席に果てた。


 ※


 石勒は軍勢に厳戒を命じると王彌の首を晒し、その将兵を慰諭すべく次のような書状を送った。


 漢主の詔によると、王車騎おうしゃき(王彌)は国の重職にありながら新君に朝賀せず、先帝の陵墓に拝礼せず、不臣の心を懐いておった。

そのために吾に誅殺を命じられたのである。その罪は一身に止まって余人には及ばぬ。妄動するものは詔を違えた罪により、三族を滅ぼされるものと心得よ。


 この書状を呈されると王彌の麾下にあった将兵は誰も動かなかった。

 王彌の弟の王如は石勒に害されるかと懼れ、五千の軍勢を率いて平陽へいように逃げ戻ろうとした。しかし、その途上を徐邈に阻まれて抜けられず、軍勢を襄陽じょうようの方面に転じる。行くあてのない王如は糧秣も尽き、王璃おうりという者と結んで兄弟となり、賊徒に身を落とした。

 王邇も城を捨てて落ち延び、王逵おうき張嵩ちょうすう劉瞰りゅうかんたちは庶人に紛れて逃れ去り、平陽に帰って劉聰に告げ報せた。


 ※


 石勒が王彌の軍勢を合わせ、いよいよその勢いが盛んになった。漢主の劉聰は新たに即位したばかり、軍勢を発して平定することは難しく、罪を責める詔を下すに止めた。

その詔は次のようなものであった。

「王車騎(王彌)は国家の元勲であり、勲功はあっても罪過はない。朕に上奏することもなく宿将を誅殺するとは、専断も甚だしい」

 石勒はその詔を見るとやや心を安んじ、平陽に人を遣わした。その上表文では、専断の罪を謝するとともに、王彌が曹嶷に送った書状を呈し、王彌が陰謀を企てていたと申し開きをおこなった。

 これを聞いた劉聰は手の打ちようもなく、詔を下して石勒を鎮東ちんとう大将軍、幽州ゆうしゅう郡公ぐんこう都督ととく幽并ゆうへい二州にしゅう諸軍事しょぐんじに任じた。

 石勒はその詔を奉じると、前鋒ぜんぽう将軍の張敬、将軍の伏封ふくほう豫州よしゅうの郡縣に遣わして平定させた。この軍勢は長江まで到った後に取って返し、淮水の南にある葛陂かつはに駐屯した。

◆「葛陂」は『後漢書』郡國志によると豫州よしゅう汝南郡じょなんぐんに含まれる。淮水わいすい南岸にある。

 これより荊州けいしゅうの異民族には石勒に降る者が多く出たため、晋人たちも畏れて征討を避けたことであった。

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