第七十九回 大漢高宗皇帝劉淵は崩御す

 洛陽らくようがまさに陥ろうとしたその日、荀藩じゅんはん荀組じゅんそ秦王しんおう司馬業しばぎょうを奉じ、密かに陽城ようじょうに落ち延びた。

◆「陽城」は『晋書しんじょ地理志ちりしでは司州ししゅう河南郡かなんぐんの條に含まれ、河南郡には洛陽が含まれる。つまり、洛陽近郊にあると考えればよい。

 司馬業は齢十二歳、呉王ごおう司馬晏しばあんの孫であり、荀藩の甥にあたる。晋帝の司馬熾しばしが擒とされたと知ると、南陽王の司馬模しばぼが鎮守する関中に逃れるべく西に向かう。

 途中、食が乏しくなり、滎陽えいよう太守たいしゅ李矩りくに身を寄せた。李矩は彼らを迎えて食を与えると、書状を認めて与えた。

密縣みつけん閻鼎えんていは雄略も人に優れ、五千の軍勢を率いております。ともに大事を議するに足る者と言えましょう。中原の恢復を志されるならば、その許に向かわれるのがよいでしょう」

◆「密縣」は司州の滎陽郡に含まれる。

 荀藩と荀組はその勧めに従い、司馬業とともに密縣に向かう。二人を迎えた閻鼎はその志に同じ、荀藩とともに行臺こうだいを建てて遠近に激越な言辞の檄文を発した。さらに瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい南陽王なんようおう司馬模しばぼを盟主に奉じ、閻鼎は汝陰じょいんの郡守となって散じた敗卒や流民を募る。

◆「行臺」は国都にある尚書省しょうしょしょうの官吏が地方に臨時に開いた役所を指す。ここでは洛陽の失陥にともなうものであるため、実質的には司馬業を擁して司馬熾の後継者を名乗ったと解するのがよい。

 さらに、荊州けいしゅう刺史しし周顗しゅうがいにも秦王を奉じて漢賊を討ち払い、晋室を恢復するよう書状を送った。

 この時、太子の司馬詮しばせんはすでに害され、その弟の司馬端しばたんは流民に紛れて洛陽から倉垣そうえんに向かい、苟晞こうきの許に身を投じた。

 苟晞は司馬端を太子に奉じて自らも行臺を置き、同じく敗卒を集めて洛陽奪回を企てた。


 ※


 漢の太子の劉聰りゅうそうは擒とした司馬熾を連れて諸将とともに国都の平陽へいように向かい、漢主の劉淵りゅうえんに謁見した。劉淵は洛陽の陥落を大いに喜び、司馬熾を解放すると邸宅を下賜し、捨扶持を与えて邸宅で過ごさせた。

 出征した呼延攸こえんゆうをはじめとする諸将は爵位と官職を進められ、平南へいなん鎮南ちんなん安東あんとう寧東ねいとうなどの将軍号を許された。

 亡国の怨みに報いた劉淵は、それより酒食に荒んで荒淫をつづける。ついに病を得ると病勢は日に日に重くなるばかり、明日をも知れぬ重態に陥った。

 太子の劉聰、丞相じょうしょう陳元達ちんげんたつ諸葛宣于しょかつせんう大夫たいふ游光遠ゆうこうえん姜發きょうはつ関防かんぼう黄臣こうしん呼延晏こえんあんたちが寝所に召され、後事を託された。

「朕と卿らは数え切れぬほどの艱難を経てきた。心を合わせて力を尽くし、大漢の旧業を復して亡国の怨みに報いたものの、卿らの大功に何も報いられておらぬ。朕の病はすでに重く、卿らとともに安逸を楽しめぬ。おそらくは二度と起ち上がれまい。卿らの齢は晩年にさしかかり、老成している。長年の好誼を思って太子を輔け、国家を安寧ならしめよ。晋はまだ滅んでおらぬ。必ずや恢復を図るであろう。油断してはならぬ。一度劣勢に追い込まれれば、一族は殲滅されるであろう」

 さらに、劉聰を見て言う。

「朕の観るところ、石勒せきろく曹嶷そうぎょくは純粋な漢の臣ではない。用心して扱え。張孟孫ちょうもうそん張賓ちょうひん、孟孫は字)とその兄弟は朕の骨肉も同じである。顔を見ることはできぬが、後事を託したい。死するにあたっての心残りは石勒せきろくに尽きる」

 そう言うと、劉淵は息を引き取った。群臣は地に伏して哭すると、順次に退いていく。


 ※


 翌日、陳元達たちは劉聰を大漢皇帝に即位させ、年号を光興こうこうと改めた。劉淵の屍は埋葬までの間、白虎殿びゃっこでんに留められ、大漢だいかん高宗こうそう皇帝こうていおくりなされた。

 関防は老齢の上に艱難を共にした劉璩りゅうきょ(劉淵のもとの姓名)を喪い、嘆じて言う。

「吾が祖父は昭烈しょうれつ皇帝(劉備りゅうび)と事を共にし、その交わりは生死を同じくするほどであった。そのためか、昭烈帝は吾が祖父の後を追うように世を去った。永らく離れてはいられぬ間柄であったのだろう。吾は先帝と齢が近い。おそらくは先人のように永らくは生きられまい」

 その夜、関防はかつての劉元海りゅうげんかい(劉淵、元海は字)とともに羌族の地に踏み込む夢を見た。それより病を得て食事を摂らなくなり、半月ほど後に世を去った。


 ※


 新たに漢主となった劉聰は関防の死を知ると喪に服し、三日に渡って政事を執らなかった。関防は忠烈王ちゅうれつおうと諡され、王の礼によって埋葬された。関謹かんきんは兄の死を悼んで慟哭すること三日、同じく食事を摂れなくなって弱り、ついに病に伏した。それより十日ほどが過ぎた頃、兄を追うように世を去った。

 漢主は関防の時と同じく自ら葬儀に臨んで哀を尽くした。関謹は忠順王と諡され、関防とともに劉淵の陵墓の傍らに葬られ、その子の関曼かんまんが生前の職を継いだことであった。

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