第七十八回 漢は洛陽を破って懐帝司馬熾を擒とす

 呼延攸こえんゆうが到着した翌日、姜發きょうはつ張賓ちょうひんが指麾を執り、諸将を洛陽の各城門に配置した。その配置は密にして指示は厳しく、水をも漏らさぬ態勢が組まれる。これにより、城外との一切の連絡は絶たれた。

 洛陽を孤立させると、張賓はその四方に土山を築くよう命じる。その命によると、高さを城壁と等しくし、広さは山上には百人を超える兵士が留まれるほどもある。

 八門に対して十六の土山が築かれ、さらに弓弩で二百歩先の的を射抜く兵が選抜されて土山上に詰めることとされた。張賓は兵たちを前に厳命する。

「妄りに矢を発するな。吾らが城を攻めて敵に対し、晋兵が城壁に上がって鬨の声を挙げた時こそ、一斉に矢を放つのだ」

 兵たちはその命を受けると、それぞれの持ち場に駆け去っていく。


 ※


 王彌おうび関防かんぼう呼延晏こえんあん張實ちょうじつ黄臣こうしん姜飛きょうひ趙染ちょうせん劉景りゅうけいの八将はそれぞれに城門に攻めかかった。

 迎え撃つ晋兵は、城門に取り付かせてはならぬと城壁上で鬨の声を挙げると、一斉に矢を発する。その時、土山上に潜んでいた漢兵たちはにわかに起ち上がり、一斉に矢を放った。晋兵は思わぬところから矢を雨霰と射かけられ、多くの者が死傷する。

 王雋おうしゅんはすぐさま大楯を担いだ兵を前に出して弓兵を守るよう命じた。それを見た姜發は、弓弩を置いた大砲を放つよう土山の兵に命じる。山上から放たれる砲弾は楯をなぎ倒し、晋兵たちはついに城壁から退いた。

「退くな。退けば城門を打ち破られるぞ。土山の兵は限られる。こちらからも大砲を放てば撃ち負けはせぬ」

 逃げる兵を王雋は叱咤し、城壁上に大砲が据えられる。土山に向けて砲弾が応射され、漢兵にもかなりの死傷が出てその日の戦は手仕舞いとなった。


 ※


 庾珉ゆみんは懸念して王雋に言う。

「漢賊どもは城外に土山を築いて城を攻めようとしている。さらに土山の数が増えれば、洛陽の城とて陥らざるを得ぬ」

石車せきしゃを造って土山を削り壊せば、また土山を築こうなどと思うまいよ」

▼「石車」については不詳。『三國志さんごくし袁紹傳えんしょうでんに「太祖たいそ曹操そうそう)は乃ち發石車はつせきしゃを為り、紹の樓を擊ちて皆な破る。紹の眾は號して霹靂車へきれきしゃと曰う」と石を発して城楼を打ち壊した例があり、同様のものかと推測される。

 王雋はそう言って復命に向かった。晋帝の司馬熾しばしはその言をれ、城内の工匠を動員して石車を造るよう命じた。一夜にして八十台もの石車が造り上げられる。

 石車の形は大砲に似る。砲門が八つあって八石機はちせききと呼ばれ、それぞれの底は硝煙で満たされている。その砲門に碗のような大きさの石を入れて放つ仕組みであった。それが城壁上に据えられ、車の横には石を入れた大桶が置かれる。

 土山一つに五台の石車が向かい合うこととなった。

 夜が明けると漢兵はふたたび城門に攻めかかり、土山上の兵たちも矢を放つべく立ち上がる。晋兵たちは昨日と同じく城壁上から矢を射かけた。土山上の漢兵たちも矢を放って援護する。

 王雋が石車の砲撃を命じると、兵は導線に火を着ける。天地を震わす大音響とともに石が放たれ、土山上の漢兵が吹き飛ぶ。石は土山をも削り壊し、山上にあった二千の兵士はいずれも命を落とした。張賓は崩落した土山を見ると、策を変じて地道からの攻撃を命じる。

 王雋は城を巡って漢兵の動きを調べると、諸将を集めて言う。

「漢兵は攻めあぐねている。思うに、次は地道を掘って城を陥れようとするであろう」

 城内の民まで動員して城壁から少し離れた場所に深い塹壕を掘らせる。近くに水がある場所では塹壕に水を注いで封じ、それ以外の場所は輪番で百姓に監視させる。地道を掘っていた漢兵は水を引いた場所にあたり、流れ込んでくる水に溺死する者が多く出た。


 ※


 漢兵が攻めあぐねている間、洛陽の食糧不足はいよいよ深刻になった。餓死する者が相継ぎ、哭声は日夜絶えることがない。その様子を知った劉聰が言う。

「城の失陥は早晩にある。小細工を弄したところで将兵を損なって日を送るだけであろう。鄴の苟晞や西の関中、北の幽冀、遼東や并州の軍勢が来援すれば、前功を捨て去ることとなる。夜明け頃に城門を攻め討てば、城内の民は畏れて人心は乱れ、その乱れを突いて城を陥れられよう」

 命を受けた石勒と劉曜は城攻めの軍勢を自ら率い、王彌、姜飛、呼延攸こえんゆうと五軍を編んで将兵に訓令する。

「兵が命に従わねば隊長を斬刑に処する。隊長が命に従わねば總旗そうきを斬刑に処する。總旗が命に従わねば把總はそうを斬刑に処する。把總が命に従わねば百總ひゃくそうを斬刑に処する。百總が命に従わねば千總せんそうを斬刑に処する。勲功を挙げた者は別に賞賜をおこなう」

◆「總旗」は『明史みんし職官志しょくかんし各所かくしょ條に「諸將の部するところをしらべ、兵五千ある者を指揮使しきしと為し、千人ある者を千戶と為し、百人ある者を百戶と為し、五十人ある者を總旗と為し、十人ある者を小旗しょうきと為す」とあり、五十人の兵を率いる武官を言う。「百總」と「千總」はそれぞれ「百戸」「千戸」に相当すると考えてよいだろう。「把總」はいささか異なり、総兵官そうへいかんの條に「けだし明の初め、參將、遊擊、 把總はそう都督ととく等の官は亦た多く勳戚を以てあつる有りと雖も、後に至らば則ち杳然ようぜん(遥か遠くに隔たっているの意)たり」とあり、他と同じく兵を率いる武官であったと見られる。

 漢兵たちは一斉に城門に向かい、無数の雲梯うんていを駆け上がり、丸太を牽いて城門に打ちあてる。その間にも城外からは火矢や砲弾が絶え間なく浴びせられた。

 晋兵たちは防戦一方に押し捲られ、空腹の兵たちは力を失って降り注ぐ矢に倒れ伏す。いよいよ晋兵は漢兵の猛攻を支えきれなくなりつつあった。


 ※


 丘光きゅうこう楼裒ろうほうは善戦したもののついに討ち取られ、呼延攸が平昌門へいしょうもんを陥れた。門から雪崩れ込んだ漢兵たちは至るところに火を放って諸門を守る晋兵の動揺を誘う。燃え上がる炎を見た晋兵は戦意を失い、王彌と徐邈じょばく廣陽門こうようもんを打ち破った。

▼「平昌門」は洛陽外城の南面にあって東から二番目の門にあたる。「廣陽門」は西面にあって最南の門にあたる。概念図は以下のとおり。


  ┏━━□━━━○━━━□━━┓

  ┃ 大夏門 宣武観 穀門  ┃

  □閶闔門       上東門□

  ┃             ┃

  ┃             ┃

  □西明門       東陽門□

  ┃             ┃

  ┃             ┃

  ■廣陽門       青陽門□

  ┃   宣陽門    開陽門┃

  ┗━□━━□━━━■━□━━┛

   津城門    平昌門


 司空しくう荀藩じゅんはん光祿大夫こうろくたいふ荀組じゅんそたちは城が保ちがたいと知り、轘轅關かんえんかんを指して落ち延びていく。それに続いて晋兵たちも先を争って城から逃れ出た。

 姜飛と黄臣は宣陽門せんようもんを奪い、劉曜の軍勢は西明門さいめいもんを斬り開き、石勒は東陽門とうようもんを打ち破る。それまで踏み止まっていた一部の晋兵たちも崩れるように逃げはじめた。

▼「東陽門」は原文では「東明門とうめいもん」とするが、「西明門」に対する門は「東陽門」であるため、誤りと見て改めた。


 ※


 朝廷の大官たちはみな落ち延びたわけではない。郗性ちせい桃豹とうひょうに、郗禮ちれい桃虎とうこにそれぞれ擒とされた。

 奮戦していた曹武そうぶは落ち延びようとして果たさず、孔萇こうちょうに追われて討ち果たされる。首級を挙げて引き返そうとすると、曹誠そうせいが復仇のために斬りかかり、五合もせずに生きながら擒とされた。

 上官己じょうかんきは宮城に駆け込むと晋帝の司馬熾を馬に乗せ、北宮純ほくきゅうじゅんが前駆となって城外に向かう。漢兵の包囲は北宮純が振るう大斧に薄紙のように破られた。そこに姜飛と黄臣が駆り、道を阻んで通さない。

 北宮純が馬を駆って斬り抜けようとすれば、黄臣は刀を振るって架け止める。上官己は戦を捨て、ただ晋帝を護って走り抜けんと図った。姜飛は鎗を捻ると一突きで逃げる上官己を討ち取る。

 北宮純は上官己の戦死を見ると、馬を返して血路を拓き、涼州りょうしゅうを指して落ち延びていく。晋帝は命からがら宮城に戻り、太子の司馬詮しばせんを連れて宮城の北に広がる華林園かりんえんに逃げ込んだ。

▼「華林園」は洛陽城内の北部にある。概念図は以下のとおり。


  ┏━━□━━━○━━━□━━┓

  ┃    ┏━━━┓    ┃

  □    ┃華林園┃    □

  ┃    ┗━━━┛    ┃

  ┃   ┏━━┓      ┃

  □   ┃宮城┃      □

  ┃   ┗━━┛      ┃

  ┃             ┃

  □             □

  ┃             ┃

  ┗━□━━□━━━□━□━━┛


 呼延攸は宮城に踏み込んで晋帝が華林園に逃れたと知り、華林園を包囲するとついに司馬熾を擒とした。


 ※


 始安王しあんおうの劉曜が宮城の門に到ったところ、王彌は入れ替わりに宮城から出た。劉曜が訝しく思っていると、呼延攸が駆けつけ、劉曜を宮城に招じ入れて堂上に登る。呼延攸は劉曜に司馬熾を献じるとともに、城内での掠奪を禁じるよう願った。

 劉曜は喜んでその勧めに従い、諸門に高札を掲げさせる。

「晋の官将はすみやかに投降して戦死を免れよ。また、漢の官将は妄りに殺戮して無辜の民を害することを禁じる」

 この時、晋の文武百官と城内の兵民のうち、三分の二はすでに逃げ去っている。ただ、司馬氏の一族は害されて生き残る者はほとんどなかった。

 劉曜は司馬熾を拘禁して太子の司馬詮を斬刑に処すると、後宮に踏み込んだ。そこで晋の皇后の羊氏ようしを擒としたが、その美貌を喜んで自らの妃とした。

 劉曜は将兵に命じ、蜀漢の征討に加わった魏の諸将、諸葛緒しょかつしょ鍾会しょうかい鄧艾とうがいの墓を暴いて遺骨を砕かせる。

 羊氏は眉を顰めて言った。

「人が亡くなればその人への怨みは散じるものと聞きます。どうして彼らの墓を保って枯骨にまで及ぶ徳を示されないのですか」

「その理も分からぬわけではない。しかし、その屍を罪して往年に蜀漢を滅ぼした怨みに報いずにはいられぬのだ」

 劉曜はそう言うと、ついに将兵を遣わして墓をこぼたせた。


 ※


 洛陽の府庫が払底していると知った石勒は、糧秣の不足を懸念して許昌きょしょうを占領すると劉曜に申し出る。劉曜はこの申し出を容れ、石勒の軍勢は洛陽を出て東の許昌に向かう。

 石勒が許昌に向かったと知り、王彌が劉曜に言う。

「許昌は曹魏の都であり、余人を置いてはなりません。上党公じょうとうこう(石勒)が許昌に向かわれたとのことですが、放置してはなりません。王も許昌に向かって掣肘を加えるのが上策でしょう」

 劉曜は答えず、王彌はさらに言う。

「洛陽は中原の中央にあたり、山河が四方を囲んでおります。宮城の建物は壮麗を極め、新たに修繕する必要もありません。この地を都として諸侯に命令を発すれば、天下を制することもできましょう」

 王彌が熱心に説いたものの、劉曜は己に先んじて宮城に入った上に出迎えなかった王彌を不快に思っており、拒んで言う。

「この城は空城であって治めるべき民もおらぬ。平陽へいようにも遠く及ぶまいよ」

「一時的に民が逃げ去っていようとも、仁政を布いて徳を施せば、民は自ずから集って参ります。また、周も漢もこの洛陽を都としておりました。どうして敵を畏れる必要がありましょうか」

 劉曜は王彌の意見をついに容れず、擒とした晋の君臣と府庫の図籍を平陽に献じるよう劉聰に願った。長らく平陽を空けていた劉聰はその言をれ、姜發、関防、黄臣たちを引き連れて平陽に向かう。

 劉曜はその後、洛陽の宮城を焼き払った。

「器の小さい小僧めが」

 王彌はそう言うと、劉曜から離れることを考えはじめる。口実を設けて東の項関こうかんに移ろうかと考えていたところ、参謀の劉瞰りゅうかんが勧めて言う。

◆「項関」の用例は『晋書』王彌傳のこの部分にしか表れない。洛陽より東にあったことは明らかであるが、位置は特定できない。

「将軍は国家のために不世の功を建てられましたが、始安王は将軍を快く思っておられません。いずれは両立できなくなりましょう。東に向かって汲郡きゅうぐん兗州えんしゅうに拠り、しばらくは天下の情勢を眺められるのが上策です。うまく行けば天下を一統できましょうし、悪くしても天下の三分の一を占められます。害を避けるとともに先を開く良策ではありますまいか」

 王彌はその言に従い、軍勢を汲郡に移して天下の形勢を観望すると決めたことであった。

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