第七十七回 張騏兄弟は漢将に殺さる

 王彌おうび平陽へいよう徐邈じょばくを遣わして洛陽攻めに加わることを願い、南陽なんようの銭糧を収めて汝潁じょえいに軍勢を移した。そこでは日々調練を繰り返して徐邈の復命を待つ。

▼「汝潁」は洛陽から東南の方向にある汝南じょなん潁川えいせんを言う。原文では「汝寧じょねい」とするが、『元史げんし地理志ちりし河南江北等處かなんこうほくとうしょ行中書省こうちゅうしょしょうの汝寧府條によると、「(至元しげん)三十年(一二九三)、河南かなん江北こうほく行省こうしょう平章へいしょう伯顏ばやんは言えらく、『蔡州さいしゅう汴梁べんりょうの地を去ること遠く、凡そ事はあやまるにいたらん。宜しく散府さんぷのぼすべし』と。遂に汝寧府に升せて直ちに行省にしたがい、そくえい信陽しんようこうの四州を以てこれに隸わしめ、復た遂平縣ついへいけんを置けり」とあり、これが初めと思われる。『明史みんし』地理志にも汝寧府はあり、同じく汝水と潁水の一帯が含まれている。晋代の用語に合わせて改めた。

 徐邈は漢主の劉淵りゅうえんの勅書を持って復命し、王彌は勅書を一読すると、王邇おうじ王如おうじょに前駆を命じて徐邈とともに呼延攸の加勢に差し向け、自らは五万の軍勢を率いてその後に続いた。

 王邇たちは呼延攸こえんゆうが洛陽の城下に軍勢を留めていると知り、ともに洛陽を攻めるべく廣陽門こうようもんに対する位置に軍営を置いた。

▼「廣陽門」の位置は以下の概念図の通り。


  ┏━━□━━━○━━━□━━┓

  ┃ 大夏門 宣武観 穀門  ┃

  □閶闔門       上東門□

  ┃             ┃

  ┃             ┃

  □西明門  洛陽城  東陽門□

  ┃             ┃

  ┃             ┃

王邇■廣陽門       青陽門□

王如┃津城門   平昌門 開陽門┃

徐邈┗━□━━□━━━□━□━━┛

      宣陽門   


 呼延攸は王彌の軍勢が到着したと知り、洛陽の城攻めにかかった。晋兵たちは城壁に拠って矢石を絶えず放ち、漢兵たちは怖れて近づけない。呼延攸は怒って自ら将兵を督戦し、大砲を城の垣に放つ。その砲撃により晋兵は多くの死傷者を出した。

 晋主の司馬熾しばしは漢の攻撃が急と知り、大いに畏れて百官を召し集め、漢軍を退ける計略を諮った。

「臣らは国家の大恩に浴しております。必ずや漢賊どもを退けて御覧に入れましょう。今や漢賊どもの攻撃は厳しく、出戦せねばいずれは城門を打ち破られかねません。漢賊の軍勢が集る前に叩くのが上策です。明日、臣ら兄弟が城を出て賊の一陣を破れば、その士気を挫けます」

 張騏ちょうき張驥ちょうきの兄弟がそう言うと、百官は喜んで言う。

「将軍兄弟でなくては、漢賊どもを退けられますまい」


 ※


 翌早朝、四万の軍勢が城を出た。張騏が前駆となって張驥はその後につづき、軍勢を二つに分けると漢の軍営に攻めかかる。

 呼延攸は軍勢を点呼して城攻めにかかろうとしていたが、そこに鬨の声が響く。すぐさま馬に乗ると大刀を抜いて軍営を出た。殺到する晋兵に出遭って数人を打ち払ったところ、張驥が攻め寄せてきた。

 呼延攸の子の呼延鐩こえんすいが鞭を振るって前を阻むも、晋兵たちも必死で斬り込んでくる。その勢いには抗えず、呼延鐩は乱戦の中で張驥に討ち取られた。

 呼延攸は軍勢を退ける暇もなく死力を尽くして晋兵と戦い、青銅の大刀は刃毀れしていよいよ危うくなる。

 その頃、城西の軍営には王彌が到着し、呼延攸の城攻めに加勢するよう王如、王邇、徐邈に命じていた。三将が軍営を出たところに斥候が駆け込んで言う。

「晋将の張騏が吾らの軍営に攻め寄せ、小将軍(呼延鐩)は討ち取られていよいよ総崩れに至りそうです。すみやかに加勢に向かって下さい」

 王彌はそれを聞くと、王如と王邇を向かわせる。二将は飛ぶように馳せ向かうと、張騏と張驥に挟まれた呼延攸が危うい。二将が加勢に向かえば、張騏たちも馬を返して駆け去った。

 遅れて徐邈が到着すると、呼延攸とともに晋将の後に追いすがる。

 張騏が洛陽の城門に向かったところ、その前に大刀を抜いた一将が飛び出して叫ぶ。

「吾が軍営を冒した賊どもよ。王飛豹おうひひょう(王彌、飛豹は綽名)が見参である。馬より下りて投降せよ」

 張騏は早朝から戦いつづけて疲労は深く、王彌を相手に勝算はない。馬頭を返すと城を巡って逃れ去る。そこに後を追った徐邈がすでに回り込み、前後に敵を迎えた張騏はやむなく王彌に斬りかかる。

 わずか十合ばかりを過ごしたところ、王彌の一刀が張騏を両断して馬下に斬り落とした。

 張驥は王如と王邇に追われるところ、王彌に斬り殺される兄の姿を目にした。この敗戦を覆せないと覚ると、馬を返して逃げ奔る。その前を呼延攸が阻んで言う。

「お前は吾が軍営を犯して吾が子を殺した。早く此処に来て命を差し出せ」

 呼延攸も早朝から戦いつづけて力尽きていると考えた張驥は、その傍らを抜けて逃げんと図る。そこに王如と王邇が加勢に現れ、三面を囲まれた。呼延攸の一刀を背に受けて馬鞍から落ちたところ、王如に首を刎ねられて絶命する。

 二将を喪った晋兵たちは大いに怖れて逃げ惑い、半ばほどの兵は洛陽の城に逃げ込んだ。余の者たちの多くは討ち取られ、漢に降る兵は三千人を数えた。

 王彌たちは勝勢に乗じて洛陽の城門に攻めかかり、攻防が十日ほど続く。城内の糧秣はいよいよ底を突きつつあった。


 ※


 晋帝は文武百官を集めて言う。

「諸親王の乱より洛陽の府庫は底を突き、先帝が長安に遷られた際には張方ちょうほうめが銭穀をすべて持ち去り、ついに空虚となった。朕の即位より漢賊どもの攻撃が止まず、今や糧秣は尽きて将兵は疲弊し、百姓は餓えに苦しんで怨嗟の声が道に満ちておる。朕はこれらの声を聞くに忍びぬ。どのように処したものであろうか」

 王雋おうしゅんが進み出て言う。

「今や諸侯の外援は期待できず、おそらく洛陽を守り抜くことは難しいでしょう。人を遣って洛水の船を整え、周馥しゅうふくが進言した如く、暗夜に乗じて城を抜け、江南に逃れて再起を期すよりございません」

 晋帝はその言をれ、人を洛水に遣わして船の準備をさせることとした。

 その夜、曹武そうぶ曹誠そうせい郗性ちせいが護衛となり、晋帝と大臣たちは密かに城門に向かった。そこに洛水に使わした者たちが駆け戻って報せる。

「漢賊の呼延晏こえんあんめにより船はすでに焼き払われております。修理しようにも手の施しようがなく、船では逃れられません。陸路より江南を目指すよりございません」

 それを聞いた晋帝は天を仰いで嘆いた。

「天は大晋を滅ぼそうというのか。祖宗の大業はついに覆されてしまうではないか」

 郗性が進み出て言う。

「船を失っては已むを得ません。陸路で長安ちょうあんに向かい、南陽王なんようおうの許に向かわれるのが上策です」

「百官の多くは馬を伴っておらず、車も限られておる。漢賊が追ってくれば残らず擒とされよう。どうして長安までたどり着けようか。まずは宮城に引き返すよりない。諸卿は力を尽くして策を案じよ」

 晋帝と大臣たちは宮城に戻っても眠られず、嘆息するばかりであった。王雋がまた言う。

「先に苟晞こうき倉垣そうえんに遷都して漢賊の鋭鋒を避けられるよう上奏いたしましたが、容れられませんでした。この暗夜に乗じて苟晞の許に向かわれるのが上策です」

▼「倉垣」は原文では「倉坦」、『晋書』孝愍帝紀永嘉五年五月條に「大將軍の苟晞は都を倉垣に遷すを表す」とある。倉垣は兗州陳留国の浚儀縣の東北、倉垣城と推測される。

 晋帝はその言に従い、百官を召して苟晞があるぎょうに向かおうとした。この時、晋帝の傍らには庾珉ゆみん、王雋、丘光きゅうこう樓裒ろうほうがあるばかりであった。

 丘光が言う。

「百官を召し寄せてはなりません。臣の察するところ、百官の多くは洛陽を離れることを快く思っておりません。彼らは自らの妻子を保全せんと思うばかりです。妻子を捨てて陛下に従う者は限られましょう。さらに、鄴に逃れられるのであれば、人数が多くては危険です。吾と樓裒が護衛となり、密かに洛陽を出るのがよいでしょう。明日、陛下の不在を知った百官のうち、忠義の者だけが後を追ってくるはずです」

 庾珉もその言に同じ、一行は西掖門せいえきもんより宮城を出て銅駝街どうだがいに出た。そこでは餓えた民が盗賊となっており、車輿を壊して奪い去っていく。丘光と樓裒が捕らえようとしたものの、数が多くて捕らえきれない。多くの者たちは奪った器物とともに逃げ去った。

 晋帝はついに洛陽を抜けられず、泣きながら宮城に帰ると、苟晞の許に人を遣わした。

 洛陽から鄴に遣わされた使者は夜が明ける頃には硤石堡きょうせきほに到り、魏浚ぎしゅんの部下に捕らえられた。魏浚は度支たくし大使たいしに任じられており、多くの米殻を集めて数百家の流民を率い、河陰かいんに拠っていた。

▼「硤石」は『晋書』魏浚傳に「永嘉えいかの末、流人數百家とともに東のかた河陰かいん硤石きょうせきを保つ」とあり、ここで言う河陰は黄河南岸を意味する。時代を下って、『明史』地理志の河南府かなんふの條には「孟津もうしん、府の東北にあり、舊治きゅうち(以前の治所)は縣の東に在り、今治きんち(現在の治所)はもと聖賢莊せいけんそう嘉靖かせい十四年(一五三五)七月に此に遷れり。西北に大河あり。又た西に硤石津きょうせきしんあり、又た西に委粟津いぞくしんあり、又た高渚こうちょ馬渚ばちょ陶渚とうちょあり、皆な大河の津のわたれる處なり。東北に孟津もうしん巡檢司じゅんけんしあり」とあり、ここで言う硤石津の南岸であったかと推測される。その場合、孟津より西にあるため、洛陽の西の黄河南岸にあたると考えられる。なお、と同じく周囲を環濠や塁壁で囲んだ自衛能力のある庄村と考えればよい。

 晋帝の使者を捕らえると、その身分や目的を問い質す。使者は晋帝により鄴に遣わされた旨と洛陽城内の様子をつぶさに語る。魏浚はそれを聞くと痛ましく思い、間道から三千斛(約176kℓ)の糧米を洛陽の城内に届け、晋帝の食に供した。

 

 ※


 それより十日ほどが過ぎ、漢軍を率いる劉曜りゅうようと石勒は、三台さんだいを攻めて抜けず、大いに苛立っていた。そこに斥候が報せて言う。

「呼延攸が平陽より糧秣を牽いて到り、さらに下縣で掠奪して府庫の銭穀を奪うと、軍勢を進めて洛陽を囲みました」

 そこに呼延攸と王彌の軍勢が到着して洛陽の様子を述べ、張騏と張驥の首級を呈した。劉曜は喜んで言う。

「吾はこの度の戦で此奴らを梟首すると誓っておったが、すでに将軍たちの手により討ち取られておるとは思わなんだ」

 呼延攸が劉曜と石勒に漢主の言葉を告げると、二人は言う。

「この度は必ずや洛陽を陥れられよう」

 傍らにある張賓ちょうひんが言う。

「先に軍勢を返して三台を攻めたのは、糧秣が不足したに過ぎません。聖上はそのことをご存知なく、吾らを怯懦と観られたのでしょう。糧秣さえあれば、すみやかに洛陽に軍勢を返し、吾らが怯懦でない証を示せましょう」

 そう言うところにふたたび斥候が駆け込んで言う。

「呼延晏は太子(劉聰)と軍勢を会し、姜飛きょうひを前駆に黄臣こうしん黄命こうめいを左右とし、呼延顥こえんこうを後詰とする三万の軍勢を率い、宣陽門に向かって軍営を置かれました」

 

  ┏━━□━━━○━━━□━━┓

  ┃ 大夏門 宣武観 穀門  ┃

  □閶闔門       上東門□

  ┃             ┃

  ┃             ┃

  □西明門       東陽門□

  ┃             ┃

  ┃             ┃

  □廣陽門       青陽門□

  ┃津城門   平昌門 開陽門┃

  ┗━□━━■━━━□━□━━┛

      宣陽門   

    劉聰・呼延晏


 劉曜と石勒はそれを知ると、関、張、趙、姜、王、魏の諸将とともに劉聰の軍営に向かった。劉聰は諸将を前にして言う。

「洛陽を攻めて晋兵に吾が軍営を脅かされ、呼延朗こえんろうを失ってからは平陽に帰る面目もなく、洛水に軍営を下げてついに年を越してしまった。先に二度、洛陽を攻める軍勢が発せられたものの、主上より詔は下らず吾は加勢に行けなかった。先に洛陽攻めに加わるようにとの詔を得た。諸将と力をあわせて洛陽を陥れ、先の敗戦の恥を雪がねばならぬ」

「戦に身命を賭するは将家の本懐であります。臣らは軍事に奔走して太子に謁見する機会を得られませんでした。平にご容赦下さい」

 諸将はそう言って劉聰の言葉に応じ、劉聰は諸将を慰労する宴席を設けた。酒宴の最中、劉聰は盃を挙げて言う。

「今や洛陽は困窮の極みにある。各城門を囲んで晋の君臣を逃がさず、禍根を残すな。城の陥落は旦夕にある」

 諸将は応諾すると、席を立ってそれぞれの軍営に散っていったことであった。

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