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2018年7月27日 21:28
ついに洛陽が陥落し、司馬熾が捕らえられ、西晋が実質的に滅亡しました。張騏・張驥は魏将の子孫にしては忠臣として最後まで奮戦して扱いがよかったですな。張遼・張郃・徐晃・許褚・呂虔の子孫の扱いは比較的いいと思います。特に、張郃は良くも悪くも諸葛亮との因縁の敵ですから。郗性と郗禮については説明はなかったようですが、おそらく郗慮の子孫ですね。孔萇に仇を討たせるためでしょう。もっとも、郗氏には大物が生まれてしまい、演義ファンには悔しい歴史展開になってしまいますが。王雋・庾珉の奮戦は、袁紹軍の審配の鄴における戦いを想起させますな。演義の記述をモデルにしたのでしょう。また、王彌も劉曜と対立し、自立を図ることにしたようです。王彌と劉曜はアンチ石勒で仲良くなれそうな感じがしますが、劉曜は王彌とも対立しました。劉曜は表面では取り繕った石勒にまんまと騙されたようです。石勒の社交スキルの高さと、劉曜の単純さが分かりますね。ここで記述されていませんが、東平王・司馬楙も戦死します。彼も司馬熾に進言して、東海王の部下・何倫を攻撃させたという事実もありました。なお、史実では呉王・司馬晏も洛陽の陥落とともに死んでいます。リストにいれていなかった太子・司馬詮と司馬衷、司馬遹を含めて、23名中生き残ったのはたった、南陽王・司馬模と瑯邪王・司馬睿(と捕まった司馬熾)のみ。司馬氏の積悪の結果か、国家体制自体が悪かったのか、我欲に狂った八王たちの罪か、時代の流れによるものか、とにかく、晋に再度、統一できる機会が訪れることはありませんでした。司馬氏のリストもこれで最後です。(帝室)懐帝:司馬熾→捕らえられる皇太后:羊献容→捕らえられる皇后:梁蘭璧→捕らえられる執政:司馬熾→捕らえられる 太子:✕ 司馬詮(八王)汝南王・司馬亮(死亡)楚 王・司馬瑋(死亡)淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり趙 王・司馬倫(死亡)梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり斉 王・司馬冏(死亡)長沙王・司馬乂(死亡)成都王・司馬穎(死亡)河間王・司馬顒(死亡)東海王・司馬越(死亡)(親王公)瑯琊王・司馬睿南陽王・司馬模予章王・司馬熾 → 皇帝へ✕ 東平王・司馬楙新野王・司馬歆(死亡)東安王・司馬繇(死亡)范陽王・司馬虓(死亡)東瀛公・司馬騰(死亡)呉 王・司馬晏(死亡)清河王・司馬覃(死亡)
作者からの返信
こんにちは。〉西晋が実質的に滅亡しました。311年のことでした。永嘉の乱は316年に長安に残存する西晋遺臣が屈服して終わり、ここまでを一般に永嘉の乱とします。しかし、洛陽失陥以降の西晋は死に体に近く、事実上の西晋滅亡といってもよいですね。〉張騏・張驥は魏将の子孫にしては忠臣として最後まで奮戦して扱いがよかった張郃の子孫でしたね。一般には張遼の方が評価が高そうなので意外な感じでしたが、鼎立後の張遼は対呉戦線が中心になり、蜀とはご縁がなかったので、因縁を重視したのでしょう。〉張遼・張郃・徐晃・許褚・呂虔名前が。。。戌とか駑とか生き物系はけっこう見下しているような気もしました。呂虔は律や鐘で音楽系、徐晃の子孫だけ玖舒と美々しいのも不思議です。思い入れがあったのかなー。〉郗慮献帝の伏皇后を連行した華欽の部下Bですね。孔萇の先祖である孔融とは互いの優劣を競って仲違いしておりますが、鄭玄に師事して荀彧に登用された名門学者さんコース、玄孫は東晋の大立者、北府軍団の創始者である郗鑒ですね。子と孫の名は伝わっていませんし、郗性と郗禮は史書に見えません。性と礼という名も対照的ですから、創作して伏皇后を逮捕した罪を購わせたのでしょう。〉王雋・庾珉正史に記録はありますが、断片しかないので忠烈の印象を与えるため、審配の鄴攻防戦から記事を援用したわけですね。戦の流れとかだいたい同じです。酉陽野史が前史をうまくカット&ペーストして使ったわけで、興味深いです。しかし、審配さん、改めて見ると仲悪い人が多すぎやしませんか。。。〉王彌設定上、劉霊つながりで劉淵に従っていましたから、あまり蜀漢の忠臣という感じではなく、戦争技術者的だったのかも知れません。劉聰さえ同輩と見ていますからね。劉曜と反りが合わなければ従わないのも何か納得できます。〉太子・司馬詮と司馬衷、司馬遹を含めて、23名中生き残ったのはたった、南陽王・司馬模と瑯邪王・司馬睿(と捕まった司馬熾)のみ。うーむ、絶景かな(違う)三国時代末期に魔王のように力を振るった司馬懿、司馬師、司馬昭の末裔がこんなに悲惨な末路を辿るとは、予想もできませんね。そう考えると、本作は三国志ファンによる司馬氏への復讐なのかも知れません。司馬懿の曹爽排斥あたりから続けて読むと、ある一族の盛衰という感じになります。まあ、江南には司馬睿があって晋の国統はさらに100年を閲するわけですが、東晋は連合政権みたいなもんですから、また別の国ではあります。南無南無。
ついに洛陽が陥落し、司馬熾が捕らえられ、西晋が実質的に滅亡しました。
張騏・張驥は魏将の子孫にしては忠臣として最後まで奮戦して扱いがよかったですな。張遼・張郃・徐晃・許褚・呂虔の子孫の扱いは比較的いいと思います。特に、張郃は良くも悪くも諸葛亮との因縁の敵ですから。
郗性と郗禮については説明はなかったようですが、おそらく郗慮の子孫ですね。孔萇に仇を討たせるためでしょう。もっとも、郗氏には大物が生まれてしまい、演義ファンには悔しい歴史展開になってしまいますが。
王雋・庾珉の奮戦は、袁紹軍の審配の鄴における戦いを想起させますな。演義の記述をモデルにしたのでしょう。
また、王彌も劉曜と対立し、自立を図ることにしたようです。王彌と劉曜はアンチ石勒で仲良くなれそうな感じがしますが、劉曜は王彌とも対立しました。劉曜は表面では取り繕った石勒にまんまと騙されたようです。石勒の社交スキルの高さと、劉曜の単純さが分かりますね。
ここで記述されていませんが、東平王・司馬楙も戦死します。彼も司馬熾に進言して、東海王の部下・何倫を攻撃させたという事実もありました。なお、史実では呉王・司馬晏も洛陽の陥落とともに死んでいます。リストにいれていなかった太子・司馬詮と司馬衷、司馬遹を含めて、23名中生き残ったのはたった、南陽王・司馬模と瑯邪王・司馬睿(と捕まった司馬熾)のみ。司馬氏の積悪の結果か、国家体制自体が悪かったのか、我欲に狂った八王たちの罪か、時代の流れによるものか、とにかく、晋に再度、統一できる機会が訪れることはありませんでした。
司馬氏のリストもこれで最後です。
(帝室)
懐帝:司馬熾→捕らえられる
皇太后:羊献容→捕らえられる
皇后:梁蘭璧→捕らえられる
執政:司馬熾→捕らえられる
太子:✕ 司馬詮
(八王)
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
河間王・司馬顒(死亡)
東海王・司馬越(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
✕ 東平王・司馬楙
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
呉 王・司馬晏(死亡)
清河王・司馬覃(死亡)
作者からの返信
こんにちは。
〉西晋が実質的に滅亡しました。
311年のことでした。
永嘉の乱は316年に長安に残存する西晋遺臣が屈服して終わり、ここまでを一般に永嘉の乱とします。
しかし、洛陽失陥以降の西晋は死に体に近く、事実上の西晋滅亡といってもよいですね。
〉張騏・張驥は魏将の子孫にしては忠臣として最後まで奮戦して扱いがよかった
張郃の子孫でしたね。一般には張遼の方が評価が高そうなので意外な感じでしたが、鼎立後の張遼は対呉戦線が中心になり、蜀とはご縁がなかったので、因縁を重視したのでしょう。
〉張遼・張郃・徐晃・許褚・呂虔
名前が。。。戌とか駑とか生き物系はけっこう見下しているような気もしました。
呂虔は律や鐘で音楽系、徐晃の子孫だけ玖舒と美々しいのも不思議です。思い入れがあったのかなー。
〉郗慮
献帝の伏皇后を連行した華欽の部下Bですね。
孔萇の先祖である孔融とは互いの優劣を競って仲違いしておりますが、鄭玄に師事して荀彧に登用された名門学者さんコース、玄孫は東晋の大立者、北府軍団の創始者である郗鑒ですね。
子と孫の名は伝わっていませんし、郗性と郗禮は史書に見えません。性と礼という名も対照的ですから、創作して伏皇后を逮捕した罪を購わせたのでしょう。
〉王雋・庾珉
正史に記録はありますが、断片しかないので忠烈の印象を与えるため、審配の鄴攻防戦から記事を援用したわけですね。戦の流れとかだいたい同じです。酉陽野史が前史をうまくカット&ペーストして使ったわけで、興味深いです。
しかし、審配さん、改めて見ると仲悪い人が多すぎやしませんか。。。
〉王彌
設定上、劉霊つながりで劉淵に従っていましたから、あまり蜀漢の忠臣という感じではなく、戦争技術者的だったのかも知れません。
劉聰さえ同輩と見ていますからね。劉曜と反りが合わなければ従わないのも何か納得できます。
〉太子・司馬詮と司馬衷、司馬遹を含めて、23名中生き残ったのはたった、南陽王・司馬模と瑯邪王・司馬睿(と捕まった司馬熾)のみ。
うーむ、絶景かな(違う)
三国時代末期に魔王のように力を振るった司馬懿、司馬師、司馬昭の末裔がこんなに悲惨な末路を辿るとは、予想もできませんね。
そう考えると、本作は三国志ファンによる司馬氏への復讐なのかも知れません。司馬懿の曹爽排斥あたりから続けて読むと、ある一族の盛衰という感じになります。
まあ、江南には司馬睿があって晋の国統はさらに100年を閲するわけですが、東晋は連合政権みたいなもんですから、また別の国ではあります。南無南無。