第七十五回 漢は洛陽を囲むも克くせずして退く

 石勒せきろく司馬越しばえつの屍を焼いた後、襄陽じょうようから漢水かんすい下流の江陵こうりょうまで軍勢を広げる。周囲に脅かす敵はなく、晋兵は戦えば必ず敗れたため、さらに漢水の上流にも軍勢を向ける是非を諮った。

「三つの不可があります」

 張賓ちょうひんは厳しい表情でそう言い、孔萇こうちょう許昌きょしょう洛陽らくように向かうよう勧めた。孔萇は祖父の孔融こうゆうの仇である曹氏に報復せんと企てていたのである。

 石勒はいずれも許さず、襄陽から動かない。日を送るうちに風土の違いから軍中に疫病が流行り、兵の五人に一人が命を落とすほどの猛威を振るった。そのため、石勒は軍勢を襄陽から江夏こうかに移し、長江南岸の豫章よしょうや沿岸のきんかん、さらには建康に侵攻する機を睨んでいた。

◆「蘄」は『晋書』地理志によると豫州の譙郡に属する。

◆「皖」は『晋書』地理志によると揚州の廬江郡に属する。


 ※


 劉曜りゅうようが洛陽で敗戦を喫するより、漢主の劉淵りゅうえんはつねに再挙を企てていた。

 一方、石勒が二十万の軍勢を率いて漢水沿岸に威を振るい、王彌おうびが十万の軍勢で汝南じょなん潁川えいせんを奪ったと聞くと、百官を集めて言う。

「今や石勒の軍勢は破竹の勢に乗じている。先に洛陽を幾度か攻めて抜けなかったものの、石勒の軍勢は江夏まで進んだ。軍勢を返してともに洛陽を攻めるよう命じれば、今度こそ陥れられよう」

「陛下のご指示は遠大でありますが、懸念がございます。強くなるほどに石勒は制し難くなります。すみやかに詔を下して叛かぬよう釘を刺さねばなりません」

 群臣の多くはそう延べ、その言が納れられて再び始安王しあんおう劉曜りゅうようが洛陽攻めに起用された。劉曜に下された命は、北路より洛陽に向かい、石勒と軍勢を合わせて陥れよというものであった。


 ※


 漢主の詔が伝えられたが、石勒は軍勢を留めて動かない。孔萇こうちょうが懸念して言う。

「これまで洛陽攻めが幾度か行われましたが、都督はいずれも出兵されませんでした。この度も遅疑して時を移せば、いよいよ君命に背いたとの評が立ちましょう」

 石勒はその言を納れ、張賓ちょうひんに軍勢の再編を命じた。

 孔萇を先鋒に任じ、張實ちょうじつ趙染ちょうせんが左軍を率いて張敬ちょうけい趙概ちょうがいが右軍を率いる。石勒の本軍には刁膺ちょうよう桃豹とうひょう孔豚こうとん呉豫ごよ張越ちょうえつ趙鹿ちょうろく張曀僕ちょういつぼくが属する。

 十五万の軍勢が洛陽に向かって潮のように動きはじめた。


 ※


 平陽へいようを発した劉曜は劉厲りゅうれい関防かんぼう関山かんざんの軍勢を大夏門たいかもんに配し、劉景りゅうけい関謹かんきん関心かんしんの軍勢を廣陽門に配し、自らは趙固ちょうこ姜發きょうはつ劉義りゅうぎとともに上東門じょうとうもんに向かう。

 石勒の軍勢は到着するや西明門さいめいもんに対し、張實と趙染の左軍が分かれて宣陽門せんようもんに向かった。

▼洛陽外城の諸門の配置は以下の概念図を参照。


  劉厲・関防・関山

  ┏━━■━━━○━━━□━━┓

  ┃ 大夏門 宣武観 穀門  ┃

  □閶闔門       上東門■劉曜

  ┃             ┃趙固

  ┃             ┃姜發

石勒■西明門       東陽門□劉義

  ┃             ┃

  ┃             ┃

劉景■廣陽門       青陽門□

関謹┃津城門   平昌門 開陽門┃

関山┗━□━━■━━━□━□━━┛

      宣陽門   

     張實・趙染


 洛陽を囲む漢の大軍を観ると、城内の百官には愕かない者がない。

 晋帝の司馬熾しばしは嘆いて言う。

「天下の諸侯の軍勢を合わせれば百万は下るまい。しかし、この洛陽に駆けつける者は一人としてない。どうしたものか」

 百官が言葉もなく退こうとしたところ、使者が駆け込んで言う。

涼州りょうしゅうより大将の北宮純ほくきゅうじゅんが三万の軍勢を率い、救援に向かっております。しかし、漢賊の大軍を観て中途に留まっている由にございます」

 晋帝はそれを聞くと、城内より軍勢を出して城に導くよう命じた。


 ※


 この時、東海王の麾下にあった丘光きゅうこう楼裒ろうほうは、漢兵が洛陽を囲んだと聞くと二万の軍勢を集め、救援に向かって先の罪を贖おうと考えていた。しかし、北宮純と同じく漢の大軍を見て進むに進めない。

 二将は北宮純と軍勢を合わせて大夏門を目指すも、門は劉厲、関防、関山に囲まれている。

 北宮純は関防の驍勇を知っており、漢陣に斬り込むと斧を振るって関防を食い止める。その間に丘光は劉厲と戦って一歩も譲らず、そこに楼裒も馬を駆って加勢に向かう。劉厲は目を楼裒に転じた隙に丘光の一刀を受けて馬から落ちる。

 劉厲の落馬を見た漢兵たちはにわかに怯み、涼州兵はその隙を突いて包囲を破る。関山が城門に向かおうとした時には、城門が開いて曹武そうぶの軍勢が突出し、涼州兵たちを迎え入れていた。


 ※


 北宮純と丘光、楼裒は洛陽城に入り、殿上で晋帝に謁見して関内侯かんだいこうの爵位を授けられ、その副将たちもそれぞれ校尉こういに任じられた。

▼「校尉」は『晋書』職官志に「屯騎とんき步兵ほへい越騎えつき長水ちょうすい射聲しゃせい等の校尉、是を五校と為す。並びに漢官なり」とあり、いずれも禁衛兵を統率する官と考えればよい。

「救援が来たことで城内の士気もいささか上がったであろう。卿らは籠城と出戦のいずれがよいと考えるか」

 晋帝の問いに尚書令しょうしょれい庾珉ゆみん侍中じちゅう王雋おうしゅんが言う。

「漢賊の軍勢は多く、士気は高く、鋒を争って勝ち目はございません。ただ城を堅守して救援を待つのが上策です」

 晋帝はその言を納れ、北宮純に宣陽門を守らせ、張騏ちょうき張驥ちょうきの兄弟が遊軍となり、丘光と楼裒に大夏門を守らせ、曹武と上官己じょうかんきに西明門を守らせ、王采おうさい賈胤かいんに上東門を守らせ、曹誠そうせい郗性ちせいに廣陽門を守らせ、庾珉と王雋が督軍を行うことと定めた。

▼張騏と張驥の兄弟は原文では「廣夏門こうかもん」を守ったとするが、該当する外城の門がない。誤りと見て遊軍となったものと解する。配置図は以下のとおり。


  劉厲・関防・関山

  ┏━━■━━━○━━━□━━┓

  ┃ 大夏門(丘光・楼裒)  ┃

  □   (王采・賈胤)上東門■劉曜

  ┃             ┃趙固

  ┃             ┃姜發

石勒■西明門(曹武・上官己)  □劉義

  ┃             ┃

  ┃             ┃

劉景■廣陽門(曹誠・郗性)   □

関謹┃   宣陽門(北宮純)  ┃

関山┗━□━━■━━━□━□━━┛

     張實・趙染



 漢兵が連日に渡って城門を攻めたが、城壁上からの矢石によって夥しい死傷者が出るばかり、包囲が一月を越えても城は落ちない。糧秣は底を突きつつあった。

 張賓が石勒に言う。

「晋の将兵を見るに、攻めるには力不足ですが守るには余力があり、吾らの糧秣は残り少なくなっております。かつ、兵法では三ヶ月を越える攻囲は禁忌とされます。始安王(劉曜)と相談の上、まずは三台を落として糧秣を奪い、あわせて外援の到来を阻むのが先決です。洛陽を孤城として城内の士気を奪い、その後に攻めれば必ずや陥れられましょう」

◆「三台」は原文では「三台郫城」とする。「三台」はぎょう近郊の銅雀台どうじゃくだいをはじめとする台城を指す。「郫城」は地名として益州に見えるのみであり、他には見当たらない。「郫」が「裨」に通じるのであれば、「助ける」「小さい」の意味があり、「出城」の意に解することもできるかと思う。ここではそのように解して省略した。

 石勒は張賓とともに劉曜の軍営に向かい、会見を申し出た。

世龍せいりゅう(石勒の字)と孟孫もうそん(張賓の字)が訪れるとは珍しい。何用か」

「兵法によると、『軍勢が重地に入って糧秣を欠けば、将帥は禍に罹る』と申します。洛陽を囲んで一月を過ぎて糧秣も不足しております。さらに晋の外鎮からの来援もありましょう。そうなっては身動きが取れません。包囲の軍勢を分けて三台と郫城を攻め落とすのが良策です。それにより、糧秣を補うとともに洛陽の左右の腕をぎ、来援の望みを絶てば洛陽は攻めずして陥りましょう」

▼「重地」は『孫子』に「人の地に入ること深くして、城邑を背にすること多きものを重地となす」とし、敵地深くにあたる地を言う。

 劉曜は張賓の計略を重んじていたため、その策を姜發に問うた。

「孟孫の見識は吾の及ぶところではありません。その策に従うのがよろしいでしょう」

 ついに劉曜は三台を陥れるべく洛陽の包囲を解いた。


 ※


 漢兵たちが包囲を解くと、洛陽城内の百官は慶賀して言った。

「漢賊どもは長らく城を囲んでおったが、吾らの厳戒を知り、さらに糧秣がつづかずに退いたのであろう」

 亳州はくしゅうの守將を務める周馥しゅうふくが言う。

▼「亳州」は晋代には存在しない。『隋書』地理志によると、「譙郡しょうぐん後魏こうぎ南兗州なんえんしゅうを置く。後周こうしゅう總管府そうかんふを置き、後に改めて亳州と曰う」とある。晋代では豫州よしゅうまたはそれに属する譙郡の守将に相当すると考えればよい。

「漢賊どもは糧秣を欠いて近隣の郡縣を陥れるべく囲みを解いただけです。糧秣を確保すればまた戻って参りましょう。すみやかに聖上を江南にある瑯琊王の許にお遷しして漢賊の鉾先から逃れねばなりません。その後、漢賊が衰えるのを待って恢復を図るのです。時を失ってはなりません」

 しかし、百官の多くは洛陽から動くことを望まず、晋帝に上奏した。

「先には洛水らくすいに船を備えて洛陽の失陥に備えよとの議論がありましたが、この度も漢賊が大挙して城を囲んだものの、ついに城を抜けず、やはり軍勢を返しました。漢賊どもにはこの洛陽城を抜く力などありはしません。周馥など一部の者たちは、聖駕を遷して根本の地を捨てるよう妄言しておりますが、一度南に遷れば中原はことごとく失われて恢復などできません」

 晋帝はその言葉に従って周馥の意見を容れず、城壁と濠を繕って糧秣を集め、漢兵の到来に備えることとした。その一方、劉曜と石勒の動きを探らせ、外鎮の各所に人を遣って洛陽への援軍を発するよう命じる。

 ついに晋帝は江南への遷都を拒み、洛陽で漢兵を防ぐと定めたことであった。

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