応援コメント

第七十四回 石勒は司馬越の党を殺す」への応援コメント


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    やっとコメント再開です。三国志後伝のまとめについては、思ったより反響が大きく、この機会にもっと詰めていくことにしました。三国志後伝のwikipedia項目閲覧数もまとめの公表日はかなり上がっていましたね。少しずつ定着するように活動したいと思います。

    意外とあっさりですが、石勒の見せ場の一つですね。陳舜臣氏に言わせれば、旧東海王・司馬越の持っていた王衍有する大軍と司馬氏、高官を始末することで、「晋の半分」を滅ぼしたわけです。

    王衍としては、司馬熾が司馬越と対立し、苟晞を取り立てたことで、貴族勢力として司馬熾と洛陽を見捨て、おそらくは、戦線を許昌と東海・瑯邪あたりに後退して、山東の苟晞と北漢の戦いを観望しつつ、王導・王敦を使って江南の実権を奪い取り、洛陽崩壊後は適当な司馬氏を皇帝にして、許昌か建康に貴族勢力のための晋王朝を立て直すつもりだったでしょう。

    しかし、これが巧みなのは、あくまで貴族政治が横行した晋王朝内としての理屈。純粋な戦争屋である石勒は、そんな戦略が成立する前に戦術で一気に叩きつぶしました。戦争経験が乏しく、前線に出ない貴族の王衍は戦場では石勒の敵でなく、かつての十六傑である劉喬とともに捕らえられたということでしょう。

    王衍が石勒に持ちかけたのは、王朝に忠誠心などなく、貴族としては社稷の中で高い地位を占め、自身とその王朝の発展に貢献するものであるという感覚であると思われます。南朝貴族の意識を王衍は先取りしたものでしょう。その後悔は、相手が悪く策謀がうまくいかなかったからだけによるものではないでしょうか。王彌だったら、後の劉裕みたいに取り込めたかもしれません。

    王衍は王戎や王導に比べて評価がかなり低いですが、立派な瑯邪王氏の代表だと思います。

    早速、瑯邪王家の五虎に欠員が出ました。しかし、瑯邪王氏の本領はこれからです。なお、十六傑の劉喬は正確にはここで死んでいます。

    (瑯邪王家の五虎)
    ✕ 王衍
    王導
    王敦
    王澄
    王含
    (諸・瑯邪王氏)
    王彬

    【追伸】
    >『後傳』だけでの展開では先が見えていますので、そこから
    >後の時代の演義モノに興味を持って頂けるといいですね。

    私の考えは違っていて、人の興味の持つ範囲は意外と狭く深いのかな、と思っています。田中芳樹氏やネットの方々が時代を関連付けずにバラバラに紹介したり、比較的、知名度が高い前漢や唐・北宋を押さず、マイナーな光武帝時代や五代時代ばかりプッシュしたことが三国志を除く中国史人気の凋落につながったかなと考えています。要は、固有名詞の定着につながらず、読者から他の中国史はただ難しいものと思われただろうということですね。

    私はしつこいぐらいに三国志後伝について切り口を変えて紹介していくのがいいかと思います。日本におけるロマンある中国史人気は「漢」で始まり、「漢」で終わるというイメージですね。通俗二十一史を見ても他の出来のいい講談は、ほとんどが宋ですから、三国志後伝からどうやってつながりようがないですし。

    作者からの返信

    【追伸を受けて】

    〉人の興味の持つ範囲は意外と狭く深い

    たしかにそうかも知れませんね。日本人は特に。オタク文化なんてのはその結晶ですから。
    個人的には飽きっぽくてダメなんですよねー。飽き性は飽き性でまあまあいいのかも知れません。


    〉時代を関連付けずにバラバラに紹介したり、比較的、知名度が高い前漢や唐・北宋を押さず、マイナーな光武帝時代や五代時代ばかりプッシュした

    おいしい、好きなところのツマミ食いですね。
    陳舜臣『中国の歴史』などで素地があると殷から清までの間を肉付けできたのかも知れませんが、単品で陳慶之とか言われても、「はあ?」となるのは当然ですよね。やむを得ません。


    〉三国志を除く中国史人気の凋落

    これまでにあったのだろうかという疑問もありましたが、『通俗二十一史』を見る限り江戸時代まで視野を広げると、違う景色がありそうですね。
    都市では売り本より貸し本が主体だったでしょうから、民衆人気が見込めないと開版できないでしょうし、あれだけ翻訳されていたのは驚きです。

    今の方が訳書を手に入れにくくなっているのは皮肉なものですね。


    〉三国志後伝について切り口を変えて紹介していくのがいいかと思います。

    有言実行ですね(笑


    〉日本におけるロマンある中国史人気は「漢」で始まり、「漢」で終わる

    見識ですね。

    たしかに、戦国時代末期からの漢文化は五胡の時代に失われてしまいます。河北は五胡、江南は風土が特殊ですから、黄土地帯を中心とした文化は成り立たなくなります。

    日本人が思う漢文化の終焉ですね。
    ただ、日本はシルクロードの果てでもあり、正倉院の宝物に憧れる身としては、唐とそこにいたるまでの時代には興味があります。

    『続三国志II』も終わりが見えてきましたので、これで三国志末から西晋滅亡まで、曲がりなりにも繋げられます。その先はどう立ち向かったものかなあ。。。

    『続三国志』のお手入れをしながら考えてみます。





    こんばんは。

    > 三国志後伝のまとめについては、思ったより反響が大きく

    多くの方に興味を持って頂けたようで何よりでしたねー。
    かなり詰めて調査されていたので、よかったです。


    > 少しずつ定着するように活動したいと思います。

    『後傳』だけでの展開では先が見えていますので、そこから
    後の時代の演義モノに興味を持って頂けるといいですね。
    まあ、三國志の続編という点が興味を惹くところですから、
    なかなか難しいわけですが、何とかしたいところです。


    > 石勒の見せ場の一つ

    なんかアッサリだったので、ふーんって感じで訳してました。
    どっちかと言うと、王衍を殺害したあたりが見所かなあ、と。
    けっこう世評を気にしているあたり、英雄っぽくないですね。

    実際には、輿論を味方につけることは非常に大事ですが。


    > 王衍

    なかなか闇が深い方ではありますが、作中では寒門出身の苟晞と
    対比される位置づけなんでしょうね。

    王衍が清談に耽って西晋を滅亡に導いた、というのが一般の世評
    なのかな、と思います。敗戦責任者。

    実際には、貴族勢力の代表者として巧みに立ち回ったものの、
    そういうのは一切無視の羯族にかち合ってお亡くなりになった、
    というのも一つの可能性としては十分考えられるわけですが。

    本作では完全に「アホの子」として描かれておりまして、少々
    気の毒な感じもしますね。。。って『晋書』の傳もなかなか
    ヒドイ感じなので、唐代の一般的見解なのかもしれません。

    俄にして軍を舉げて石勒の破るところとなる。
    勒は「王公」と呼び、これと相見えて衍に問うに晉の故を以ってせり。衍は為に禍敗の由を陳べ、計の己に在らざるを云う。勒は甚だ之を悅び、ともに語りて日を移せり。
     →ここまでは石勒とうまくやっている。
    衍は自ら少しく事に豫らざるを說き、自ら免れんと欲し求め、因りて勒に尊號を稱することを勸む。勒は怒りて曰わく、
    「君の名は四海を蓋い、身は重任に居り、少壯にして朝に登り、白首に至る。何ぞ世事に豫らずと言うを得んか!天下を破壞するは、正に是れ君の罪なり」と。
    左右をして扶え出さしむ。
     →退場。

    文脈から見ると媚びすぎて殺された感があります。


    > その後悔は、相手が悪く策謀がうまくいかなかったからだけによるものではないでしょうか。

    ちなみに正史の末期のお言葉は次のとおりです。

    衍の將に死なんとするに、顧みて言いて曰わく、「嗚呼!吾が曹は古人に如かざると雖も、向に若し浮虛を祖尚せず、勠力して以て天下を匡さば、猶お今日に至らざるべし」と。時に年五十六なり。

    こうして見ると、やっぱりかなりアレな感じですね。
    そこまでのしたたかさは正史には反映されていないです。

    果たして王衍とはどういう人だったのかは、かなり謎ですね。
    しかし、それを考えるのが歴史の楽しみですしね、ええ。

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