編集済
苟晞は大勝利を生かせず、高淵ならまだしも、刁膺を捕らえるほどの勇将であり、片腕であった夏陽まで処刑してしまい、さらに青州まで失い、これまた、破滅への端緒にしてしまいました。夏国相を見逃すように進言した葉禄も無事で済んだと思えず、苟晞軍は童礼まで見捨てており、もう、山東・河北広範囲を領有することは困難でしょう。正面戦闘は苟晞軍はさほど強くないのは元々ですし。
これはあくまで小説として分かりやすく夏陽・高淵に集約しているだけで、「屠伯」と呼ばれた苟晞は初め、晋書における従母の息子の処刑に見られるように法家的にできるだけ公正には行おうとしていたのでしょうが、次第に大雑把になっていき、かつ、暴走していき、似たようなことは多々あったでしょう。これが、法家思想の最大の欠点ですね。
曹嶷についても、思わぬおこぼれに預かり、いよいよ史実通りに山東に自立していく基礎ができましたな。現代人としては、晋に滅ぼされた魏が形を変えて復活するのはうれしいのですが、当時の人たちはどう思ったのかは分かりませんな。
先のコメントで河東さんが遊侠についてコメントをお書きになっていましたが、木村正雄先生の書籍でも、陳勝・赤眉や黄巾などの民衆叛乱(あくまで昔の史学の概念ですが)が大規模になった理由として、広範囲での情報を持っていた遊侠や商人の協力があったからではないかと分析されていたと記憶しています。曹嶷もそうだったかもですね。
遊侠は私も大好きで、水滸伝をきっかけとして、大室幹雄先生や相田洋先生の書籍を読んだり、汪湧豪「中国遊侠史」など日本語文献を読んで、同人誌は実は盛唐(をモデルにした中国)の遊侠・商人を主人公にしたものだったので、遊侠の活躍と聞くと嬉しくなりますね。
ネットの歴史議論でも、豪族関係は注目は集め始めていますが、思想史や遊侠にも注目を集めて欲しいものです。
【追伸】
法家は表面上はなくなっているように見えますが、酷吏たちはそれを信望し、前漢の宣帝が「漢は王道(儒教)・覇道(法家)を雑えて治める」として光武帝や明帝に引き継がれていますから。段々、儒教に吸収されながらも生き残り、後漢末の曹操は法家思想が強いことで知られます。乱世では覇道として法家が重宝されますから、法家が盛り返してきて、儒教の信用が薄れて、玄学や文学がもてはやされたのでしょう。
西晋で勢いを増してきた玄学も、実は儒教と対立するものでなく、経典を老荘思想で解釈するというものでしたから、道徳の根幹は同じでした。苟晞は元々さほど高くない身分の役人でしたし、司馬睿や庾亮が後々に国家権力を強くするため、法家思想を重視しますから。道徳的な問題で、あまり前面に出すことが躊躇われただけでしょう。
間違いなく実務レベルでは法家思想は脈々と受け継がれたでしょうね。
王敦は青州刺史だったのは間違いないですが、資治通鑑によると永嘉三年(309年)には繆播が司馬越に殺された後あたりに、司馬越の運動で揚州刺史に任命されていますから、この頃には揚州刺史ですね。陳敏の後任ということにしておけば、全く問題はなかったのに、ここは酉陽野史の順番入れ替えがうまくいかなかったところですね。
王敦が揚州刺史となり、さらにそれが安定してから、司馬睿の都督に実が伴うのでしょう。江州刺史・華軼の例が示す通り、下位の都督・刺史・太守が従わないと、都督の職位があっても役に立ちません。華軼が討伐されるのは311年です。
遊侠思想については仕方ないのでしょうね。昔、「やる夫光武帝」を読んだ時に「遊侠=ドキュン」とされていて、分かりやすくするためのネタであることを理解しつつも不快でそれ以上読むのは止めたことがあります(笑)
作者からの返信
【追記を受けて】
〉法家思想
そういえば、以前に思想史を攻めてはりましたな。
さすがの解説でした。勉強になります。
やはり、技術的な思想は常に現場では必要になりますよね。そう考えると、墨子教団の消滅は実に謎ですね。あれだけ技術に特化した集団もなかったのに。改めて興味が湧きます。
〉王敦
やっぱりなあ。通鑑あたりをまるっと流用したりしてそうだもんなあ。。。後で訂正しないといけませんね。
〉「遊侠=ドキュン」
(笑)
史記の季布伝なんかを読んでドキュン呼ばわりはできませんけどねー。劉邦を敵に回してビビらない大立者ですよ。もちろん、狭いエリアではチンピラっぽいのも多数だったんでしょうけど。
北族の方々はたいていが遊侠的な側面があったように思います。これは北魏末の六鎮の乱を地理的に分析した結果なのですが、明らかに情報の伝播が乱の拡大を引き起こした節があり、河套地方の破落韓、万俟、朔州西部の高車諸部、果ては陝西にある高車や羌族の莫折まで情報の流路があったクサイです。
室町時代の馬借みたいな情報網が張り巡らされていたんでしょうね。
当然、彼らは遠隔地との連絡があり、生業を軸にした交渉を持って遊侠と同じような機能を果たしていたはずです。
うーん、面白いですね。
※
こんばんは。
王浚につづいて苟晞にもケチがついてしまいました。現状、河北の軍閥はこの二人が自立を志向しながらも晋朝の臣下に甘んじており、頼みの綱になっているんですけどね。。。
〉法家思想の最大の欠点
残念ながら、家族主義的な儒教秩序と法家は相性がよくないことは、戦国時代からのお約束ですね。
しかし、苟晞が法家を信奉していたのであれば、それはそれで不思議な話ではあります。晋初の主流は老荘や名家に寄りがちでしたから、法家の学統がどこかで続いていたわけですよね。
そういえば、南北朝の史書を通読すると、酷吏は寒門出身が多いように思います。印象ですけど。
これは、上級官吏の貴族化とともに実務が寒門出身者に丸投げされたこと、および、実務者にあっては法家思想による処理が変わらず必要だったことを示すように思います。
そうなると、貴族が老荘の談に夢中になっているのを横目に、実務は漢代からの法家思想により執行されていた、という漢代以来の二元的な思想運用だったのかも知れませんね。
下部構造の変化は常に緩やかでしょうし。
〉曹嶷
棚ぼたの一語につきますが、苟晞の失策ですね。
この後の青州はいささか疑問があり、苟晞が青州刺史から転任した記述はないのですが、「第六十九回 杜弢は荊湘の二州に拠る」からは王敦が青州刺史となっています。
作中ではこの機に苟晞は青州刺史から転任したと解すればいいのですが、じゃあ王敦は現地に赴任しない遥任だったのかというと、軍勢を率いているからそうでもなさそう、となかなか悩ましい。
曹嶷が廣固にあって臨淄に王敦が赴任した日には、一触即発間違いなしでしょうし。それはそれで激しい罵り合いになって面白そうですけど。
そもそも青州刺史が長沙まで出兵するか?という問題もあり、こういう小さい矛盾が小骨みたいに引っかかるんですよねえ。。。原書がちょいちょい前後関係をイジってるみたいなので仕方ないんですけども。
〉思想史や遊侠にも注目を集めて欲しいものです。
面白いのですが、同時に難しいんですよね。
前者はどこまで現実の意思決定に影響したかが分かりにくいですし、後者は史料に残りません。
着実に実績を積み重ねたい研究者や予備軍には手を出しにくい分野だと思います。
思想史はジャンルが確立されているからまだしもですが、遊侠はむしろ文学を題材にした文化史的なアプローチが目立ちますね。
塩賊や馬賊のような賊徒、秘密結社、それに行や幇のような互助組織は漢文化の特徴の一つですから、おそらく古代まで遡れるものではないかと思うのですが、残念ながら士大夫層から外れるために史料には現れません。
ただ、義兄弟の契りや行も幇も人の流動を前提とする社会経済の中でこそ必要なものであると考えると、いずれも北族の文化が漢文化に取り入れられる過程、五胡から南北朝期が端緒なんじゃないかなあ、と期待しています。
日本の室町期に馬借や土倉が発達したように、地下の発展がこの時代にあったのではないか、そう考えると、カオスと言われる五胡や南北朝の時代も単なる乱世でした、では終わらない歴史的な意味があるんじゃないかな、と。
希望的観測ではありますが。
曹嶷って意外と長生きですよね。大した大物だとは思ってなかったので意外と長く生き延びていて驚いたのを覚えてます。これからどんな感じになるか楽しみです
作者からの返信
薛万徹さま
おはようございます。
コメントありがとうございます。
〉曹嶷
前作「第十八回 張賓は盗に遭いて陳元達を訪う」で初登場、しかも虁安と一緒に『北斗の拳』のモヒカンみたいな強盗で死相が出てる感じでしたが、秘孔を突かれることもなく生き延びてます。
そんな曹嶷も青州に拠って一方の棟梁みたいになってしまいました。軍師がいないのは不安ですが、これからの活躍を期待してしまいますよね。
個人的にも楽しみにしているところであります。