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2018年5月31日 18:33
いよいよ、主要な司馬氏の勢力の減退とともに、貴族の代表であり、政争に関わり合わないように逃れてきた瑯邪王氏の王衍が主要舞台にあがってきました。石勒とは、通俗續三國志24回からの因縁です。王衍と東海王・司馬越は、島田悠「八王の乱における貴族ー王衍、東海王越を中心に」で詳細に論じられています。山簡とともに貴族的な無為な人物として、評判の悪い王衍ですが、玄学によった高い思想性を持つ七賢の後継者でもあり、同じように貴族の代表であり、瑯邪王氏の一人でもあり、清談を好み、表面上は無為の政治につとめ、巧みな政治手腕が最大の武器とした王導が高く評価されているのに、一概に無能と切り捨てるのは不当でありましょう。長い八王の乱の多くの人物が退場を余儀なくされる中、玄学による「無為の治」を継承し、貴族勢力を率いて、中央の官僚組織を保持し、東海王に組みし、皇帝を無力化し、寒門を用いる斉王・長沙王・成都王・河間王を始末した手腕はなかなかのものと考えられます。司馬越はあそこまで裏切りを繰り返し、なぜ、八王の乱の勝利者になれたのか。その政治力を怪物的と評価する意見があり、また、司馬越と対立した懐帝・司馬熾を非難する意見が見られますが、司馬越が貴族と長沙王を裏切った禁軍にかつぎされただけと考えれば、そのちぐはぐな政治力に納得がいきます。また、司馬熾の立場から見れば、司馬氏の代表となりながら、何度も他の王を裏切り、人材を己の幕府に集中され、貴族勢力の代弁者として皇帝権力を侵害し、許昌にいて軍権を握る司馬越に対する不信が充満するのは当然と思えます。なお、繆播は史実ではかつて東海王の配下として河間王を嵌めて張方殺害を使嗾した人物、何綏は何曽の孫にあたります。司馬熾も司馬越勢力切り崩しを行っており、苟晞もまた司馬越と対立します。なお、漢軍の洛陽攻撃前に、清河王・司馬覃が皇帝にかつぎだされる動きがあったため、司馬越によって殺されています。司馬越としては懐帝を取り替えるつもりはなかったと思われます。司馬氏のリストは、変更します。残り5名です。(帝室)懐帝:司馬熾皇太后:羊献容皇后:梁蘭璧執政:司馬越(八王)東海王・司馬越汝南王・司馬亮(死亡)楚 王・司馬瑋(死亡)淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり趙 王・司馬倫(死亡)梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり斉 王・司馬冏(死亡)長沙王・司馬乂(死亡)成都王・司馬穎(死亡)河間王・司馬顒(死亡)(親王公)瑯琊王・司馬睿南陽王・司馬模予章王・司馬熾 → 皇帝へ東平王・司馬楙✕ 清河王・司馬覃新野王・司馬歆(死亡)東安王・司馬繇(死亡)范陽王・司馬虓(死亡)東瀛公・司馬騰(死亡)呉 王・司馬晏(死亡)
作者からの返信
こんばんは。〉司馬氏の勢力の減退宗室がこれだけ死ねば減退もしますわな。〉石勒とは、通俗續三國志24回からの因縁です。「郭胡は同情して二人(石勒と汲桑)を匿い、外の者たちの目に触れないようにする。しかし、王衍が刺史に着任するより蜀漢の遺臣の追求は厳しくなり、匿い抜くことが難しくなった」ですね。ホンのチョイ役であります。〉司馬越が貴族と長沙王を裏切った禁軍にかつぎされたふうむ。寒門を用いた長沙王vs貴族に与した東海王の争いで、禁軍は長沙王を裏切って東海王についた、というわけですか。当然、貴族代表の王衍は東海王につく、と。なるほどなあ。。。〉貴族勢力の代弁者として皇帝権力を侵害し、許昌にいて軍権を握る司馬越曹操もそんなことはしていませんし、これは、政治的権威と兵権を握る実力者の地理的分離として最初の例かも知れませんね。近いけど。高歓は皇帝を鄴に置いて自らは晋陽で兵権を握り、宇文泰は皇帝を長安に置いて蒲坂対岸の同州で兵権を握り、それぞれに国家を遠隔操作しましたが、それに近い感じだったのかも知れません。しかし、王衍の族弟の王敦が変な役回りを与えられているのですね。司馬熾に東海王の異心を警告したり。なんだかなあ。。。
いよいよ、主要な司馬氏の勢力の減退とともに、貴族の代表であり、政争に関わり合わないように逃れてきた瑯邪王氏の王衍が主要舞台にあがってきました。石勒とは、通俗續三國志24回からの因縁です。
王衍と東海王・司馬越は、島田悠「八王の乱における貴族ー王衍、東海王越を中心に」で詳細に論じられています。
山簡とともに貴族的な無為な人物として、評判の悪い王衍ですが、玄学によった高い思想性を持つ七賢の後継者でもあり、同じように貴族の代表であり、瑯邪王氏の一人でもあり、清談を好み、表面上は無為の政治につとめ、巧みな政治手腕が最大の武器とした王導が高く評価されているのに、一概に無能と切り捨てるのは不当でありましょう。
長い八王の乱の多くの人物が退場を余儀なくされる中、玄学による「無為の治」を継承し、貴族勢力を率いて、中央の官僚組織を保持し、東海王に組みし、皇帝を無力化し、寒門を用いる斉王・長沙王・成都王・河間王を始末した手腕はなかなかのものと考えられます。
司馬越はあそこまで裏切りを繰り返し、なぜ、八王の乱の勝利者になれたのか。その政治力を怪物的と評価する意見があり、また、司馬越と対立した懐帝・司馬熾を非難する意見が見られますが、司馬越が貴族と長沙王を裏切った禁軍にかつぎされただけと考えれば、そのちぐはぐな政治力に納得がいきます。
また、司馬熾の立場から見れば、司馬氏の代表となりながら、何度も他の王を裏切り、人材を己の幕府に集中され、貴族勢力の代弁者として皇帝権力を侵害し、許昌にいて軍権を握る司馬越に対する不信が充満するのは当然と思えます。
なお、繆播は史実ではかつて東海王の配下として河間王を嵌めて張方殺害を使嗾した人物、何綏は何曽の孫にあたります。司馬熾も司馬越勢力切り崩しを行っており、苟晞もまた司馬越と対立します。
なお、漢軍の洛陽攻撃前に、清河王・司馬覃が皇帝にかつぎだされる動きがあったため、司馬越によって殺されています。司馬越としては懐帝を取り替えるつもりはなかったと思われます。
司馬氏のリストは、変更します。残り5名です。
(帝室)
懐帝:司馬熾
皇太后:羊献容
皇后:梁蘭璧
執政:司馬越
(八王)
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
河間王・司馬顒(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
✕ 清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
呉 王・司馬晏(死亡)
作者からの返信
こんばんは。
〉司馬氏の勢力の減退
宗室がこれだけ死ねば減退もしますわな。
〉石勒とは、通俗續三國志24回からの因縁です。
「郭胡は同情して二人(石勒と汲桑)を匿い、外の者たちの目に触れないようにする。しかし、王衍が刺史に着任するより蜀漢の遺臣の追求は厳しくなり、匿い抜くことが難しくなった」ですね。
ホンのチョイ役であります。
〉司馬越が貴族と長沙王を裏切った禁軍にかつぎされた
ふうむ。
寒門を用いた長沙王vs貴族に与した東海王の争いで、禁軍は長沙王を裏切って東海王についた、というわけですか。
当然、貴族代表の王衍は東海王につく、と。なるほどなあ。。。
〉貴族勢力の代弁者として皇帝権力を侵害し、許昌にいて軍権を握る司馬越
曹操もそんなことはしていませんし、これは、政治的権威と兵権を握る実力者の地理的分離として最初の例かも知れませんね。近いけど。
高歓は皇帝を鄴に置いて自らは晋陽で兵権を握り、宇文泰は皇帝を長安に置いて蒲坂対岸の同州で兵権を握り、それぞれに国家を遠隔操作しましたが、それに近い感じだったのかも知れません。
しかし、王衍の族弟の王敦が変な役回りを与えられているのですね。司馬熾に東海王の異心を警告したり。なんだかなあ。。。