第五十五回 素喜連は慕容の陣に降る

 素喜連そきれんは鎧兜を脱ぐと素服そふくで山を下りた。そのまま慕容部の軍門に到ると、兵士が本陣に駆けてその投降を告げ知らせる。

▼「素服」は白装束と考えればよい。

 慕容翰ぼようかんはそれを知ると、父の慕容廆ぼようかいの幕舎の前まで馬を寄せて言った。

「投降を迎える際は敵を迎えるように警戒すべきと言います。油断されてはなりません」

 慕容廆はその言に従って慕容翰に厳戒を命じると、自らは軍門まで出迎えに行く。軍門が大きく開いても素喜連は進もうとせず、門前に伏して罪を請うた。本心から投降したと知った慕容廆が助け起こそうとすると、素喜連が言う。

「我々が山野の蛮人であって国法を承知しておらぬがため、明公に犬馬の労をおかけいたし、慙愧に堪えません。それにも関わらず、厚恩を蒙って死罪を赦されました。今、衆人とともに罪を請うべく参上いたしました。この身を戮して遼東の百姓への謝罪とする代わり、罪を部落にまで及ぼさぬようにお願いいたします」

「吾らは同じ鮮卑族、同族を害うことを望んではおらぬ。ただ、百姓が生業に安んじられぬ有様を見て已むに已まれず、軍勢を発したに過ぎぬ。罪を悔いて改めるのであれば一家に等しい。こちらに来て衣を改め、その後に礼を取り交わそう」

 慕容廆がそう言うと、素喜連は拝して恩を謝した。

 その後、素喜連は驍騎ぎょうき将軍しょうぐんの職を授けられ、慕容廆に従って棘城きょくじょうに向かう。海州かいしゅう慕容仁ぼようじん遊邃ゆうすいが鎮守することとなり、義州には皇甫岌こうほきゅうが駐屯すると定められた。

 木丸津ぼくがんしんと素喜連の乱が平定されると、封釋ふうしゃく袁謙えんけんと相談して東西とうざい總督そうとくの職を慕容廆に譲ることとした。慕容廆は封釋を遼陽りょうよう校尉こういに留め、袁謙をその副官に任じた。

 これより封釋と袁賢の二人は事毎に慕容廆に諮った後に行うようになり、遼東の郡縣はすべてその下に就いて慕容廆の名声は遠近の知るところとなった。


 ※


 遼西りょうせい段部だんぶは慕容部の勢力伸張に愕き、洛陽の朝廷に上奏を行った。

 太傅たいふの官にある東海王とうかいおう司馬越しばえつは、鎮所の許昌きょしょうでその上奏を聞くと、謀臣を前に嘆息して言う。

「慕容部は遼地の人民に支持されて勢力を伸ばしておる。孤は帝室に連なる親王でありながら、異民族にも敵わぬのか。大丈夫たるものは四海に名を挙げずには満足などできぬものだ」

 東海王の従う佞臣ねいしん潘滔はんとうという者があり、へつらって言う。

「大王ともあろうお方が、何ゆえにそのようなことを言われますか」

「国内を見れば軍政の大権も握れず、漢賊の平定も覚束おぼつかぬ。鼎に功業を刻んで後世に名声を伝えることなど叶うまい。これでは遼東の覇者となった慕容廆にも及ばぬではないか。どうして富貴の身であるなどと言えようか」

「天下の大権はすべて大王に帰しております。後世に名声を伝えたいとお思いであるならば、軍勢を率いて入洛し、与する者を賞して逆らう者を誅し、天子を擁して諸侯に号令し、幼い成王を輔佐した周公しゅうこうたん召公しょうこうせきのように軍政の大権を一手に握られれば、威名は内外に知れ渡りましょう。辺境の異民族、それも穴倉のような遼東に籠もる慕容廆など比べられるにも及びますまい」

「孤は朝廷に上奏して帰藩を請うたのだ。今さら擅いままに入朝するなど許されようか。それなりの名分を考えねばならぬ」

「朝廷は宿老を用いず、繆播りょうは散騎常侍さんきじょうじ王延おうえん尚書令しょうしょれい何綏かすい太史令たいしれい高堂冲こうどうちゅうなど年若い者たちが重用されています。この四人は国政に参与して累世の重臣たちを睥睨へいげいしていると聞きます。大王が陛下に謁見するためと称して軍勢とともに洛陽に入り、これらの者たちを除いて大権を握られれば、廃立さえも意のままにできましょう。まさに偉勲と言えます」

「この四人は忠心を懐いて政事にあたり、孜々ししとして善政を行っておる。罪のない者を誅殺するに忍びぬ」

「大王に利があるならば、善人であっても誅殺せねばなりません。魏の武帝ぶてい曹操そうそう)も天朝の宣帝せんてい司馬懿しばい)もそのようにして天下を得たのです」

 潘滔との問答を終えると、東海王は劉洽りゅうこうに是非を問うて言下になみされた。さらに劉輿りゅうよにも是非を問うてみる。

「大丈夫たる者は行うべきを行うものです。余人に問うにも及びません」

「大事を行いたいとは思うが、後世に不徳であると非難されよう」

「非常の事は定法じょうほうには馴染まぬものです」

「それでは、どのようにすべきか」

「不朽の名を残されるには、蓋世の功を立てるよりありません。蓋世の功を立てるには、伊尹いいん霍光かくこうのように皇帝の廃立を行うよりありません。伊霍いかくの事を行うには、皇帝の側近を除かねばなりません。王延と何綏はともかく、繆播はかつて陳敏ちんびんを平定する軍勢を送らなかったとががあります。共謀してこの咎を行ったと誣告ぶこくすれば、連なる数人を誅するなど容易いことです」

 東海王はついに意を決して先触れの者を洛陽にある腹心の何倫かりんに遣わすと、翌日には五千の軍勢とともに洛陽に向かった。


 ※


 東海王の入洛を知らせる駅馬が行き交い、騒然とした様子を見ると、中書監ちゅうしょかん王敦おうとんは親しい者にこう言った。

「東海王は威権を専らにして百官の任免をほしいままにしている。先の使者は上奏し、旧事に託けて尚書を罪すべしと述べたらしい。その上奏が行われぬうちに上洛してくるとは、必ずや繆播と高堂冲を誅殺せんとするであろう。そうなると、罪のない王延と何綏も無事ではすまぬ。痛ましいことだな。彼らが誅殺されれば晋の政事がまた衰えることは必定、中原が安寧でいられるはずもない」

 王敦は宮中に向かうとその旨を上奏するも、晋帝は信じずに言う

「太傅(司馬越)は自ら望んで鎮所に還ったのだ。そのような行いをするはずもない。卿は疑心を懐かぬがよい」

 日ならず東海王は洛陽に入り、繆播、高堂冲、王延、何綏をはじめとする十数名を晋帝の目前で捕縛した。

「これらの者たちは忠義を懐いて礼を尽くしている上、誰一人として罪を犯してはおらぬ。何ゆえに捕縛するのか」

 晋帝が問うと東海王は言う。

「繆播は陳敏の平定を遅らせました。裏で通じておったのです。何綏はたびたび酒宴を開いて賓客を集め、陰謀を企てていたことは明白です。いずれは何綏を擁して叛乱を行う者が現れます。誅殺せねば後患を遺すこととなりましょう」

「偽りを申すな。そのようなはずはない。これらの忠臣を誣告するでない」

 東海王は晋帝の制止を聞かず、捕らえた者たちを引き出すと斬刑に処し、しばらくすると首級が献じられた。それを見ると晋帝は涙を流して言う。

「太傅の横暴がこのようであるならば、お前たちは先に黄泉に行っておれ。朕も遠からず再会することとなろう」

 東海王はふたたび宮中に戻ると、刑戮した者たちの三族を誅殺するよう願った。晋帝はそれを許さず、溜息を吐いて後宮に退く。東海王も強く求めることはなく、ついに宮中を退いた。


 ※


 この時、太尉たいい劉寔りゅうしょくという者があり、東海王の専権を見て晋朝の先行きが暗いと見通した。さらに、辺境では異民族が跋扈ばっこして漢兵が洛陽に逼っている。上奏して辞職を願い出たものの、晋帝はそれを許さない。そのため、劉寔は将来を憂えていた。

 その族弟に劉坦りゅうたんという者があり、劉寔が暗い表情で時に溜息を吐いているところを見ると、問うて言った。

「この数日というもの、面に憂色が表れております。東海王が忠良の臣を殺したため、将来を憂えておられるのではありませんか」

 劉寔が頷くと、劉坦は語を継ぐ。

「すみやかに辞職して政事から退き、安逸を求められるのがよろしいでしょう。身命より官職を重んじると言われるのですか」

「吾もそれはよくよく承知しておる。しかし、辞職を願っても許されぬのだ。そのために憂えが解けぬ」

 翌日、劉寔はふたたび上奏して強く辞職を願い出た。しかし、晋帝は先に変わらずそれを認めない。劉坦も宮中に入ると上奏して言う。

「古より老年に達した者は官職に就かぬことを憂えず、また官職を重んじぬものです。願わくば、劉寔の辞職を御許し下さい。その生命を全うして終わりを善くすれば、一族の者たちは多くの俸禄を受けるよりも深く御恩に感じましょう。どうして官位を授けることだけが老人への餞となりましょうか」

 晋帝はその上奏を受けても躊躇して決断しない。傍らにある王衍おうえんもそれに賛同すると、ついに意を決して辞職を許すこととした。劉寔には故郷で老年を遅らせるとの詔が下され、さらに田地が下賜されることとなった。

 劉寔はその日のうちに恩を謝し、退く際には晋帝が自ら送り出すほどに礼が尽くされた。


 ※


 後日、晋帝は東海王に問うた。

りゅう太尉たいい(劉寔)は国事を輔けるに中庸を重んじ、朕は甚だ重んじておった。空席となった太尉の職には誰を任じるべきであろうか」

 東海王はその下問に対して王衍を推挙した。晋帝はその意に違わず、ついに王衍を太尉に任じた。

 この王衍は柔弱の人であって自ら率先して事を行わず、ただ清談を好むことで知られている。天下が乱れていることから、保身のために東海王に説いた。

荊州けいしゅう漢水かんすいが北の守りとなり、青州せいしゅうは沿海部にあって険要の地が多くあります。時勢に変事があった際でもこの二州を押さえていれば、退いて身を守ることもできましょう。智謀に優れた腹心の人を遣わして鎮守させれば、朝廷に万一の事があった際の避難に使えます。晋陽しんようの租税を減らして趙襄子ちょうじょうしの砦とした尹鐸いんたくのようなものです」

▼「趙襄氏」の姓名はちょう無恤むじゅつといい、春秋時代の人、晋の六卿と呼ばれる名家であったが、同じく六卿の魏氏、韓氏とともに晋を割って趙国を興した。滅ぼした智氏の旧臣の豫譲から命を狙われた逸話でも知られる。

▼「尹鐸」は『国語』晋語によると、趙氏のために晋陽の租税を引き下げて人心を収めた。それにより、智氏に包囲された晋陽は守り抜かれ、魏氏、韓氏と結んで智氏を滅ぼした。

「誰を遣わしてこの地に鎮守させるのがよいだろうか」

 東海王が問うと、王衍は言う。

「臣は大王の愛顧を賜っております。弟の王澄おうちょうと王敦は智勇を兼ね備えており、鎮守の任にも堪えましょう。二人を守らせれば、大王も臣も安んじていられるというものです」

 東海王はその言をれて王澄を荊州刺史に任じて山簡さんかんを洛陽に還らせ、苟曜こうように代えて王敦を青州刺史に任じ、倉坦そうたんの鎮守を命じることとした。それを受け入れる代わり、鄴城ぎょうじょうは変わらず苟晞こうきが鎮守を続けることを許された。

「お前たちは任地に入れば、糧秣を積むとともに士民の心を獲り、根本の地として固めよ。吾は洛陽にあってお前たちが大郡にあれば、まさに狡兎こうと三窟さんくつというものだ。乱世にあっても安んじていられよう」

▼「狡兎の三窟」は故事成語、猟師に捕まらない賢い兎は三つの隠れ場所を持っていることから、常に有事に備えて逃げ場所を用意しておくことを言うようになった。

 王澄と王敦が命を受けて退くと、王衍は二人にそう言ったことであった。

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