第五十四回 慕容廆は素喜連を囲む
「
▼「遼東鎮夷校尉」という官職は晋代にない。史実では
「慕容廆の老賊めが。吾と木丸部は慕容部と同じく
そう言うと、軍勢を発して慕容部を迎え撃とうとした。その弟の
「慕容部と敵対してはなりません。木丸部を平定して士気は高く、将兵は精鋭です。吾らの将兵は慕容部に畏れを懐いており、戦となれば蹉跌を踏む虞があります。
素喜連はその献策に従い、軍勢を海州まで退けた。
「木丸部の賊徒が退いたのは吾らを畏れたがためではありません。略奪を繰り返したがために土民たちが従わず、いざとなれば矛をさかしまにすることを懼れたのです。吾らがここで軍勢を返せば、木丸部の者たちはふたたび軍勢を進めるでしょう。将来に禍根を残すこととなります。吾らが遠路を推して軍勢を進めれば、手もなく擒に就きましょう」
慕容皝はその言を
※
素喜連は獣皮の大帽を被って鉄鎧を着込み、矢筒には狼牙の矢を刺して
▼「鉄胎弓」は鉄芯を入れた強弓と考えればよい。
「吾は鮮卑山にあってお前たちは
▼「棘城」は義州の北にあたる。
「無知の鼠賊めが、民を虐げながら対等の身のつもりか。吾が慕容部は中原の士大夫の末裔であって晋朝より官職を授けられておる。お前たちは鮮卑山の賊徒でありながら、民を害すること甚だしい。吾らは大軍とともに此処にある。少しでも時勢を弁えているならば、すみやかに降伏して生命を全うするがよい。抗って生き延びられるとは思わぬことだ」
慕容皝が敵意も露わに罵ると、素喜連はなおも抗弁する。
「吾らは
慕容皝に代わって慕容翰が応じる。
「吾らも遼東に属する身であり、朝廷の大命はつねに吾らに降ることとされておる。つまり、吾らは遼東の総領に等しい。お前たちが擅いままに民を害するならば、征討するのが吾らの務めである。投降せぬならば、木丸津と同じく首級を竿に掛けて遼東の者たちの戒めとするのみよ」
「
素喜連が放言すると、慕容翰は戟を振るって敵陣の前を駆け抜ける。素喜連も鉄杵を手に馬を駆り、両陣の間で一騎打ちとなった。
※
将兵の喚声が天を震わせるなか、慕容翰と素喜連は獲物を狙う猛獣のように互いを追って首級を狙う。滾々と揚がる砂塵の中で杵が打ち下ろされれば戟が架け支え、聞く者の耳には鉄が打ち合う甲高い音が響いた。
二人が戦うこと六十合を過ぎても勝敗は決さず、弟の
素喜連は加勢に現れた皇甫真を見ても怯まず、二人を相手に杵を振るう。慕容仁は素喜芒を討ち取るや、休む間もなく素喜連と戦う二将を目掛けて馬を駆る。さずがの素喜連も三将を向こうに回して勝ち目はなく、逃げ奔って麾下の将兵も潰走した。
慕容皝は軍勢を差し招いて追い討ちに討ち、敵兵の屍は道を塞いで流れる血が河を成す有様となった。
素喜連は腹心と一族とともに北の陰山を目指して逃げ奔り、慕容皝は叫んで言う。
「苦しくともここで追撃を止めるな。この勝勢に乗じて賊徒の巣穴を覆し、一挙に平定するのだ。遼東の民に禍根を残してはならぬ」
慕容仁と慕容翰が先頭に立って後を追い、慕容皝も大軍とともにつづく。陰山の南麓に到っても素喜連は留まらず、深谷の中に逃げ込んだ。
※
慕容廆が本軍とともに到着すると、慕容部の軍勢は谷口に軍勢を配して逃げ道を塞ぐ。素喜連は敗走に際して糧秣を携えておらず、包囲されて七、八日が過ぎると騎兵たちは馬を殺してその肉を喰らいはじめた。
脱出を図っても谷口は厳しく守られて抜ける術なく、ついに馬も食い尽される。兵からは脱走して投降する者が相継ぎ、慕容皝は降った兵から仔細を聞くと、父の慕容廆の許に向かった。
「素喜連の糧秣は払底していよう。数日を待たずしてみな餓死するだけのことだ」
慕容廆が言うと、慕容皝は頭を振って駁する。
「素喜連に従う部衆は少なくありません。素喜連だけならともかく、その部衆をも殺し尽くすには忍びがたいものがあります。人を遣って降伏を勧め、それにより数千の生命を全うさせるべきです。拒むならば軍勢を谷中に送って
それを聞くと慕容廆は手を拍って言う。
「仁徳の言である。お前の望むとおりに行うがよい」
慕容皝は胆智に優れた兵士を選ぶと、谷中にある素喜連の許に軍使として遣わした。
※
隘路にさしかかると素喜連の兵士が
「矢を放つな。吾は慕容大人の軍使である。お前たちの部帥に話さねばならぬことがあるのだ。引き返して部帥に告げ報せよ」
報告を聞いた素喜連は軍使を迎え入れて来意を問うた。
「吾が慕容大人の言われるところをお伝えする。吾らとお前たちはともに遼地の民であって宿怨があるわけではない。ただ、お前たちと木丸部が民を乱したがゆえに罪を問うべく軍勢を発したに過ぎぬ。先に木丸津は迷妄より醒めず、一族兄弟揃って戮されるところとなった。お前たちはこの深谷にあって周囲を大軍に囲まれ、内に糧秣を欠いて外に援軍はない。日ならず餓死することとなろう。吾らはその末路を見るに忍びず、人を遣わしてお前たちに告げる。もし今からでも投降するのであれば、吾らはお前たちの改悛を朝廷に上奏して官職を求め、地を割いて安住することを認めよう。ただ、吾らの地に居するからには、産物を奉献して軍資を助けることを条件とする。奉献はそれほど重くするつもりはなく、これまで以上の富貴も得られるように計らうであろう。この勧めを拒むならば、四面を囲む軍勢は鉄桶のように固く、到底出られるものではない。この谷中で餓えて死ぬこととなろう」
素喜連はその言葉を聞くと拝謝して言った。
「慕容大人が生路を開いて下さるのでしたら、どうして従わぬことがありましょう。ただ、食言されぬかと懸念するのみです」
「それは不明の言というものです。今や抜け出る道はふさがれ、糧秣は尽きて兵の力は枯れ、死は旦夕にあります。吾が大人は拱手しておればよく、食言する必要などありません。また、数千の軍勢を発して谷中の将兵を擒とすることなど袋の中から物を取り出すように容易いことです。大丈夫が人に信を失うような行いをするはずもありますまい」
軍使がそう言うと、素喜連はその言に理があると認め、貂の皮衣を慕容廆に贈ることとし、さらに軍使にも毛皮の套衣を授けた。軍使は引き返すと、皮衣とともに素喜連の意向を報告する。
「素喜連たちは鮮卑山の夷狄であるがゆえ、大局を知らぬ。大局を知らねば疑心を生じるものだ。素喜連が疑心を生じれば数千の生命が失われよう。吾が誓約書を与えてやるがよい」
軍使は慕容廆の親書を携えると、ふたたび谷中に入って素喜連の許に向かったことであった。
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