応援コメント

第五十二回 慕容廆は遼東より起発す」への応援コメント

  • ついに、前燕・後燕を建国する慕容部が登場ですな。

    慕容廆は、元々、西晋と敵対しており、略奪を繰り返しながら、何度も敗北していたのですが、西晋・夫余への略奪のおかげで生産力が安定したのか、西晋への帰順後の棘城に移転してからの農業生産がうまくいったのか、慕容部は発展したようです。

    戦に強いイメージのある慕容廆ですが、意外と西晋と戦っていた時は負けが多いです。

    しかし、これは仲の悪いイメージしかない慕容三兄弟の仲の良い姿を見ることができる貴重なシーンですな。慕容翰は本来は、慕容皝の庶兄なので、兄弟順は違うのですが、これは酉陽野史の儒教的思想で反映されているようですね。

    この時、慕容皝は数えで14歳なので、史実では慕容皝・慕容仁は従軍したか不明です。資治通鑑でもここは慕容翰単独の発言・功績になっているので、後伝では慕容皝の方が兄の功績を吸っていますね(笑)

    ただ、ここだけ単独で慕容部の活躍として、正史ではあれほど簡略な素喜連・木丸津討伐に尺を割いているところを見ると、三国志後伝は確かにあそこで終わりではなく、それからの続編の構想があったことをにおわせます。

    作者からの返信

    こんばんは。

    > 前燕・後燕を建国する慕容部が登場

    北魏の河北制覇に際して最大の敵になったのが慕容部ですね。
    同じ鮮卑族ですが、宇文部や段部よりも東にあり、中原との
    接触が遅かった分、勢力をつけるのがおくれた印象ですねえ。

    鮮卑は匈奴と戦った東胡の分派と言われますが、さてさて。
    東胡というのはいかにも中原から見てのお話ですし、自らを
    どう認識していたのかはまったく謎です。


    > 慕容廆

    『晋書』載記によると字は「弈洛瓌」というそうですが、実際の姓名は
    慕容弈洛瓌がだったんでしょうね。瓌字と廆字は同音でしょうし。

    『魏書』吐谷渾傳では「若洛廆」となっています。
    えきらくかい、または、じゃくらくかい、どっちも意味不明。

    ちなみに柔然の可汗には郁丘閭・阿那瓌という人もおりまして、
    北朝好きにとってはそれほど変な名ではないのですね。


    > 慕容翰は本来は、慕容皝の庶兄なので、兄弟順は違うのですが、
    これは酉陽野史の儒教的思想で反映されているようですね。

    長幼よりも嫡庶を優先するのが儒教のオススメですから仕方ないですね。
    そうなると、酉陽野史はけっこうガチの儒教信奉者ということになりますか。
    興味深いですね。


    > 資治通鑑でもここは慕容翰単独の発言・功績になっているので、
    後伝では慕容皝の方が兄の功績を吸っていますね

    つまり、慕容皝は前燕建国の王ですから、正統として扱われるわけですね。
    後年は石勒の跡を継いだ石虎と対立したりもしますので、作中では蜀漢の
    遺臣たちのライバルという位置を与えられるべき人でもあるわけです。

    そのあたりはゼヒ読みたいところではありましたが。。。