二十章 鮮卑慕容部

第五十二回 慕容廆は遼東より起発す

 晋朝の諸親王が相争って寧日はない有様となった中原を横目に、遼東りょうとうは安寧の中にあった。そのため、賢俊の士の中でも南に住まう者は長江ちょうこうを渡って江南こうなんに逃れ、北にある者は難を避けて遼東に向かう。

 右北平に隣接する遼西りょうせい鮮卑せんぴ段部だんぶが占める。部を統べる段匹殫だんひつせんと甥の段末杯だんまつかいはその強盛を恃み、賢士を尊ばず弓馬の技を貴んだ。その一方、さらに奥地にあたる遼東には鮮卑せんぴ慕容部ぼようぶがあり、部帥の慕容廆ぼようかいとその長子の慕容皝ぼようこうは謙虚に士人に接して賢士を礼遇した。

 そのため、中原の難を避けた士大夫の多くは慕容廆の許に身を投じる。その中でも、裴嶷はいぎょく裴開はいかい皇甫岌こうほきゅう遊邃ゆうすい宋該そうがい皇甫真こうほしんといった者たちは、儁才を知られる名士であった。これらの者たちが慕容廆の輔佐を委ねられるのは、当然の成り行きである。


 ※


 この頃、晋朝も遼東、遼西を含む遼水りょうすい沿岸に官吏を置いている。玄菟げんと太守たいしゅ裴武はいぶ東西とうざい總督そうとく遼陽りょうよう校尉こういを兼ねる封釋ふうしゃくが、遼地の異民族の監督に任じられていた。

▼「東西總督」という官は晋代にはない。遼西、遼東の軍政を委ねられていたと考えればよい。

▼「遼陽校尉」という官は晋代にはない。『晋書しんじょ職官志しょっかんしによると、「武帝は南蠻なんばん校尉こうい襄陽じょうように、西戎せいじゅう校尉こうい長安ちょうあんに、南夷なんい校尉こうい寧州ねいしゅうに置いた」という記述があり、蛮夷の統治にあたる校尉の官はこれらに尽きる。遼地の異民族の安撫を委ねられていたと考えればよい。

 裴武が死んで裴嶷と裴開が慕容部に従った後、封釋は遼地の支配を専らにするようになり、ついに心労より病に倒れた。

 鮮卑山せんぴざんには素喜連そきれん木丸津ぼくがんしんという二部の酋長があり、剽悍ひょうかんではあったが封釋と遼東りょうとう督護とくご李臻りしんはばかっていた。

 その李臻は遼地の異民族に尊敬されており、人心を得ていた。遼東太守の龐本ほうほんがそれを嫉み、私怨により李臻を謀殺する。封釋は病みついており、これを防ぎ得なかった。

 李臻の死後、素喜連と木丸津は忌憚するところがなくなり、封釋の病に乗じて金山きんざん義州ぎしゅう海州かいしゅうの諸郡縣を攻め落とし、李臻の復讐であると称して人を集める。

▼「金山」は、『明史みんし地理志ちりし遼東りょうとう都指揮使司としきしし開元城かいげんじょうの條に、「西北に金山有り。東に分水ぶんすい東嶺とうれい有り。北に分水ぶんすい西嶺せいれい有り。西に大清河だいせいが有り、東に小清河しょうせいが有り。流れてここに合し、下流して遼河りょうがに入る」とある。よって、遼水りょうすいよりさらに上流にあった。この地には永樂えいらく二十二年(一四二四)まで韓王府かんおうふが置かれていたが、陝西せんせい平涼へいりょうに移ったとする。そのことは陝西平涼府の條に「韓王府は遼東の開原かいげんより此に遷る」と記されている。同じく職官志の鎮守ちんじゅ遼東りょうとう總兵官そうへいかんの條には「遼陽城りょうようじょうとどまり、開原 、海州、險山けんざん瀋陽しんよう等の處を節制す」とあることから、おおむね現在の瀋陽しんようを中心とする地域にあったと見てよい。

▼「義州」は、『元史げんし地理志ちりし山北さんほく遼東道りょうとうどう肅政廉訪司しゅくせいれんほうし條に義州が挙げられている。『金史きんし地理志ちりしによると、「旧の崇義軍すうぎぐん節度使せつどしであり、りょう(王朝名)に入って宜州ぎしゅうとされ、天德てんとく三年(一一五一)に義州と改められた」とある。『遼史りょうし地理志ちりしには「本は遼西の纍縣るいけんの地である」としているが、纍縣は他書の地理志に現れない。崇義軍節度使の属縣は凌河りょうが河口付近にあるため、遼西でもやや遼東寄りの沿海部にあると分かる。

▼「海州」は、『明史』地理志の遼東都指揮使司條に「西に遼河りょうが有り、塞外より流入し、海州衞かいしゅうえいに至って海に入る」とあり、遼河の河口、遼東半島の西側の付け根付近にあたる。概念図は以下のとおり。


          金山▲ ●玄菟郡


       海州●            

  義州● ┏━━━┓遼東 ┏━━━┓

    ┏━┛  ┏┛ 半島┃   ┃  

  ┏━┛黄海 ┏┛  ┏━┛黄海 ┗┓ 

┏━┛    ┏┛  ┏┛      ┗┓

       ┗━━━┛        ┗

               

 龐本は部将の袁謙えんけんとともに二部を制圧すべく軍勢を出したものの、戦に敗れて逃げ帰る有様であった。ついに素喜連と木丸津は猖獗を極め、遼地の民は塗炭の苦しみに喘ぐこととなる。

 袁謙は情勢を憂えて方策を仰ぐべく封釋の許に向かった。封釋はいまだ病が癒えず、出陣できる容態にない。やむなく二人は龐本を斬刑に処して二部に礼物を贈り、侵擾しんじょうを止めるよう約した。しかし、素喜連と木丸津は一月を過ぎぬうちにふたたび殺掠を繰り返す。

 民の多くは慕容廆の許に逃げ込み、素喜連と木丸津の行いを訴えたものの、慕容廆はそれらの民を安撫するのみであった。

 慕容皝が父の慕容廆に言う。

「古より諸侯が覇道を行うには勤皇の行いを果たすよりなく、王道を行うには民を救うよりありませんでした。そうすれば、民は自ら身を寄せて王と仰ぐものです。民心に拠らずして大事業を成した者はいまだかつておりません。素喜連と木丸津の二部は王師を拒んで民は戦に苦しんでおります。吾らがこれを見捨ててよいものでしょうか。二部の者たちは龐本が李臻を殺したことを名分に、間隙に乗じて掠奪をほしいままにしております。封總督(封釋)はすでに龐本を誅殺して名分は失われましたが、それでも二部は民を毒害して止みません。中原では諸親王が争って遼東を顧みる暇はなく、混乱はすでに二年にならんとしております。父君が義によって勤皇の行いを果たされるのは、まさに今を措いて他にありません。賊徒の猖獗を座視することなど許されません。二部がこの遼東に拠って立てば吾らと敵対することは火を見るより明らかです。愚見によれば、軍勢を発して遼民の艱難を救い、素喜連と木丸津を討ち取って二部を併せるのが上策です。それにより、吾らの軍勢は遼東に威を認められましょう。さらに、賊徒を平定した忠義も知られるところとなり、それにより齎される利益は計り知れません。正しく吾らの雄飛はこの一挙にあると言えましょう。この機を逃してはならぬのです。丘を守る狐に倣って穴に身を竦めるなど、大丈夫の行いと言えましょうか」

「お前の言が正しかろう。しかし、吾は北方辺境にあって軍勢は寡兵、糧秣も豊かとは言えぬ。大志を懐いたとしても、大業を成すことは難しかろう」

 慕容皝の長広舌に慕容廆が冷や水を浴びせる。それでも、慕容皝に怯む色はない。

「かつて、陳勝は一尺の地をも持たずして強秦の傾覆を首唱いたしました。吾らは遼東の地に拠っており、遼西より忌憚されております。素喜連と木丸津など問題にもなりません。封總督は病床にあり、袁謙は才を欠きます。いずれ遼の東西が吾らの有に帰するのは明白です。すみやかに二部を平定して軍勢を返し、大業を啓かねばなりません。その暁に晋朝に封爵を求めれば、よもや拒まれることはありますまい。晋朝より官吏が遣わされなくなれば、遼地の大権は吾らのものとなります」

 慕容廆もついに慕容皝の言に同じ、翌日には諸将と謀臣を集めて方策を諮ることとした。


 ※


 慕容皝の意見を聞いた裴嶷が言う。

「鮮卑山の二部は害毒を流して士民は失望し、田地も荒れ果てております。大人たいじん(慕容廆への敬称)が挙兵される義は十分であります。賊徒を平定して大功を建て、人心を収められるべきです。反対する者などございますまい」

 それを聞いた慕容廆が言う。

「素喜連と木丸津を討ち取るなど容易いことだ。しかし、北に軍勢を出せば遼西の段部が吾らの根拠地を突くおそれがある。前後に敵を受ける危険は避けねばならぬ」

 末子の慕容翰ぼようかんが駁して言う。

「聞くところ、段部は先に王幽州おうゆうしゅう王浚おうしゅん)との好誼を断って石勒せきろくと通じたものの、再び石勒とたもとを分かって劉琨りゅうこんに与したと言います。それならば、段部は王幽州と石勒の双方に恨みを買っており、吾らの隙を突く暇などございますまい」

 慕容仁ぼようじんもその傍らより同じる。

「素喜連と木丸津の二部は剽悍であっても粗暴、謀略を善くしません。与し易い敵と言えましょう。二部の軍勢を併せて段部を呑めば、月を越えずに遼地を掌握できましょう。遼西に寄れば幽燕の地、さらに雲中をも窺えます。この機を逃してはなりません」

 慕容廆は三子の意見を聞き終わると、笑って言う。

「お前たちにこれほどの知略があるならば、吾が家の興隆は約束されたようなものであろう」

 ついに慕容部は軍勢を発した。

 先鋒の慕容翰と遊軍の慕容仁をともに先発させ、皇甫岌に二軍の監督を命じる。慕容皝と皇甫真は後詰と定められた。裴開と遊邃に留守を委ねると、慕容廆自らも二万の軍勢とともに征討に向かったことであった。

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