第五十一回 甘顧の諸賢は陳敏を誅す

 賀循がじゅん紀瞻きたんは南門を囲み、甘卓かんたく卞壼べんこは西門を攻め打ち、錢廣せんこうは北門を、顧榮こえい錢廞せんきんは東門をそれぞれに攻める。

 陳敏ちんびんは諸軍が各門に攻め寄せたと知ると灣頭橋より軍勢を返して城に戻り、それを追って錢廣の軍勢も城に逼る。城上より見渡せば、四面より官兵の旌旗が近づいてくる。恐懼するところに、鉦鼓しょうこの音が天に響き渡り、甘卓や顧榮が背いたと知らされた。

 六万の軍勢を三つに分かち、谷應こくおう谷忠こくちゅうに北門に攻め寄せる錢廣を防がせ、陳政ちんせい羊穎ようえいに南門の紀瞻と賀循を阻ませ、靳茂林きんぼりん王亨おうきょうを東門の顧榮に差し向ける。

 自らは陳恢ちんかいとともに西門に向かい、甘卓を迎え撃つ。別に夏文華かぶんか夏文盛かぶんせい、それに陳宏ちんこう羊奕ようえきの許に人を遣わし、すみやかに兵に返して敵を防ぐように命じた。

 城を挟んだ戦が数日つづくも、明らかな勝敗を見ない。これは、錢端せんたんが城中にあって守城を指麾していたためであった。


 ※


 陳宏は牛渚ぎゅうしょ劉準りゅうじゅんの進軍を阻むところに、陳敏の使者を迎えて事情を聞く。城の危機に色を失い、陳泓ちんおう羊奕ようえきに命じて一万の軍勢とともに救援に向かわせる。陳泓と羊奕は城に向かって引き返す途上に劉機りゅうきの軍勢と出遭い、それぞれに布陣して対峙に入った。

 劉機が陣頭に進んで言う。

「陳宏は何処にいるのか。今や大軍は雲のように集り、陳敏をとりことするのも須臾しゅゆの間にある。お前たちはすみやかに投降して一族の祭祀を保つつもりはないのか」

 陳泓が鎗を引っ提げて突きかかり、劉機は大刀を抜いて迎え撃つ。それより二十合が過ぎた頃、陳泓は劉機の一刀を浴びて馬から転げ落ちる。兵士たちは主帥の落馬に愕いて乱れたった。羊奕は浮き足立った兵士を見ると、陣を抜けて逃げ去った。

 劉機は羊奕を追わず、陳泓の首級を挙げると劉準を迎えるべく陳宏が守る牛渚に向かう。

 羊奕は廣陵こうりょうの城に到ったものの、渡る船がないために岸上に軍勢を留める。顧榮はそれを知ると、書状を認めて人を遣わした。その書状は次のようなものであった。

「あなたの祖父の羊太傅ようたいふ羊祜ようこ)の忠義は百代に冠絶するものであり、その功績は峴山けんざんの石碑に刻まれ、観る者は生前の勲功を思って涙を流したものであった。それにも関わらず、あなたは逆賊を助けて身命を危うくし、引いては祖父の威名を傷つけ損なうのか。すみやかに節を改めて行いを悔いれば、朝廷とて寛容に遇されるであろう」

▼「峴山」は襄陽の東南にある山名、そこに羊祜の功績を刻した石碑があり、読む者がみな涙したため、堕涙碑だるいひと呼ばれたことを指す。

     ●樊城

 ━━━━━━━━━┓

     ●襄陽  ┃

          ┃

      峴山▲ ┃

          ┃


 羊奕はその書状を見ると、ついに軍勢を解散して自らは小船で顧榮に投降した。


 ※


 陳敏は布陣すると甘卓と相対して説得せんと図り、甘卓もそれに応じて陣頭に立った。

「吾が姻戚たる甘大人よ、吾が言葉を聞け。吾は自ら揚州の刺史となっていまだかつて貴方を軽んじたことはない。今すでに姻戚となったからには、理においても相救うべきであろう。不徳なるところがあるならば、示教して頂きたい。どうして小人に与して姻戚に背き、骨肉の親を損なう道理があろうか。そもそも姻戚同士は好悪を一体にするものであろう。これをどのように考えておられるのか」

 陳敏の言葉に甘卓が言う。

「吾は不肖の身であるが、平静より忠孝仁義の四字を忘れたことはない。公はかつて溺れる民を救う心があった。それゆえに姻戚の縁を結び、漢の高祖こうそを支えた蕭何しょうか曹参そうしんの如き勲功を建てんと欲したのだ。しかし、公は不仁の心を懐いて子弟は横暴を働き、郡縣を奪って百姓を害した。そのため、朝廷は震怒しんどして詔を下し、その罪を問われた。公は偽って呉王の命令と称し、その罪を吾に帰した。すでに顧榮、周玘しゅうき、錢廣、羊奕はいずれも朝廷に従って正に帰した。吾も正に帰さねば、公のために一族はみな害されるだろう。瑯琊王ろうやおうは上奏して吾を罪するのを猶予し、功でもって罪を贖うことを願われた。朝廷はそれを容れて公を討つにあたって吾を謀主とし、それにより呉王の罪をも赦すとの詔を下された。今や六路の軍勢は此処にあり、吾は勅命に従うよりない。公もまた自らのために計られよ。小女は実家に帰ったものの、吾は姻戚の縁を改めるつもりはない。上表して罪を謝し、甲冑を脱いで軍勢を散じられよ。さすれば、或いは身命を全うして誅殺の難を免れられましょう」

 陳敏はその言葉に答えず、また、戦を挑むこともなかった。そこに城の東から顧榮と周玘が姿を現し、白扇を振るって言う。

「陳敏は謀叛して朝廷に背いた。そのため、朝廷は震怒して密詔を下された。陳敏だけを誅殺すれば、その余の者たちは赦免するとの仰せである。陳敏を擒とした者には、官職を許して重賞を与える。軍から離れる者は名を記録して罪を赦す。それ以外の者たちは、九族を誅殺されるものと心得よ」

 その言葉に応じて陳敏の将兵の半ばは逃げ去った。周玘は大刀を挙げて言う。

「先に吾らを祝宴に誘い、吾らは参じて慶賀した。これはみな好意によるものである。お前は何の権限により吾を官職に任じ、また、吾を害さんとしたのか。今日こそ恨みに報いる日である。戦うつもりなら早く馬を出すがよい」

 陳敏の傍らにある陳恢ちんかいが怒って軍勢を進めようとするも、将兵は誰も従わない。陳敏は将兵が戦意を失っていると知り、ついに軍勢を返して城中に逃れようと図る。城門に向かったところ、錢廞の一軍がその前を阻んだ。


 ※


 錢廞が叫んで言う。

「老賊、吾が家族を人質としておきながら、今さら城に還らせると思うな」

 言うやいなや、戟を振るって陳敏に馳せ向かう。陳恢が軍勢を率いて前を阻むところに再び叫ぶ。

「逆賊を助ける者は九族を誅戮して一人も生かさぬぞ」

 陳恢はそれを聞くと大いに怒り、錢廞に斬りかかった。そこに周玘が一軍を率いて攻めかかり、陳敏と陳恢は馬頭を返して一散に城を目指した。その後を錢廞と周玘が馬を並べて追いかける。

 陳敏の将兵は劣勢に陥ったと見ると、ことごとく逃げ散って姿を消す。ついに陳敏と陳恢は単馬で奔って西に向かった。周玘たちは厳しく追いすがって逃げるを許さず、四十余里も走ってなお馬脚を止めない。

 陳敏と陳恢には副馬そえうまもなく、夜も三更(午前零時)になろうとする頃、ついに生きながら擒とされた。

 陳敏に従う諸将のうち、靳茂林は羊奕に討ち取られ、王亨は乱戦に紛れて落ち延び、谷應だけが城に逃げ込んだ。それを追って錢廣らが城内に攻め入り、甘卓は将兵に殺掠を厳しく禁じて百姓を安撫する。城内に逃げ込んだ谷應と錢端は擒とされて斬刑に処され、錢廣の一族も解放された。


 ※


 甘卓と顧榮は陳敏の一党をすべて擒としたものの、羊穎ようえい陳政ちんせいは南門に紀瞻と賀循を防ぎ、官兵はいまだ門を破れずにいた。卞壼、周玘、錢廣が加勢に赴こうとしたところ、羊奕がそれを止めて言う。

「諸公の馬を労するにも及びません。吾が自ら出向いて彼らを連れて参りましょう」

「同族の羊穎だけならともかく、陳政、牛新ぎゅうしん、王亨も戦に加わっている。易々とは説得に応じるまい。ここで逃がしては後患を遺すことになりかねぬ」

 顧榮は懸念して羊奕のみならず卞壼たちも南門に向かわせた。羊奕の説得により羊穎は投降したものの、牛新たちは応じず逃れ去ろうと図ったものの、逃れきれずに擒とされた。

 羊奕は羊穎の助命を願い出たものの、周玘がそれを拒んで言う。

「陳敏の謀叛は陳宏、牛新、羊穎、谷應、錢端の五人が首謀したものだ。羊穎の罪は重く、投降したとて助命されるものではない。お前は幸いにも一族と羊太傅の宗祀を保ったのであるから、父祖の徳によくよく感謝するがよい」

 周玘の言葉に羊奕は無言で退いたものの、密かに甘卓に助命を歎願した。甘卓が言う。

「お前が正に帰したがため、三族は保全されて罪は羊穎の一身に止まった。これは至公至幸というものであろう。もし、羊穎の助命を重ねて願えば、瑯琊王も快く思わず、朝廷にどのように上奏されるか予想できぬ。古より『禍は僥倖により免れられず、一度起った福は二度も求められない』という。吾らも救いたくないわけではないが、この状況ではそこまで求められぬのだ」

 羊奕はついに謝して退いた。

 甘卓は陳政、牛新、錢穀、王亨など六人を斬刑に処し、その首級を晒した。一軍を牛渚に差し向けて陳宏を討ち取り、淮水と泗水の沿岸にある郡縣を取り戻す軍議をおこなっていたところ、劉準からの急使があって言う。

「劉機が陳泓の首級を提げて牛渚に到り、陳宏に投降を呼びかけたものの応じませんでした。そのため、二軍で挟撃して陳宏を討ち取り、その将兵はことごとく投降いたしました。淮南の夏文盛はすでに城を挙げて降り、夏文華も陳敏に与する者の首級を届けて参りました」

 甘卓、顧榮たちはそれを聞いて大いに悦び、さらに近隣の郡縣に人を遣わして長江沿岸はことごとく平定された。また、上奏文と陳敏たち十人の首級を箱に収め、羊奕に命じて洛陽に向かわせ、叛乱の平定を報告して朝廷に謝罪させたことであった。


 ※


 晋帝は上奏文を見て悦び、東海王に命じて酒宴を設けて叛乱の平定を慶賀した。その酒宴には公卿をすべて呼び集め、陳敏たちの首級を披露する。

 顧榮と周玘には石氷せきひょうと陳敏を平定した功績があり、紀瞻には齊萬年を誅殺した武略があり、それぞれ老成の宿将であることから、東海王の司馬越は高く評価した。そのため、詔を下して顧榮を侍中じちゅうに任じ、紀瞻を車騎しゃき将軍に任じ、周玘を親軍しんぐん司馬しばに任じ、劉準を廣陵太守に任じ、劉機を壽陽じゅよう太守に任じ、甘卓を京口尹けいこういんに任じ、羊奕を豫章の参軍に任じ、それぞれを任地に向かわせた。

 ただ、顧榮と周玘の二人は除任されても喜ばず、洛陽に向かう途上で徐州に到ったところ、北方がまさに乱れようとしていると知り、ついに相談して江南に引き返した。


 ※


 江南は平穏を取り戻したものの北方は戦乱がつづいており、晋帝は日夜苦悩して国務に専心していた。自ら万機を総べて政事に参与し、日中は後宮に帰ることはない。その官制は武帝司馬炎の泰始の頃の制度に倣って整えられていた。また、朝野の誹謗を懼れて清河王せいかおう司馬覃しばたんを皇太子に冊立したものの、病に罹ったためにその弟の司馬詮しばせんを皇太子とした。 晋帝が政事に専心したため、権臣が国政を壟断するようなことはなく、黄門こうもん侍郎じろう傅宣ふせん宣帝せんてい(司馬懿)が生き返ったようだと嘆じて言った。

 東海王は志を行えず、さらにこのまま時を移せば己に不利となるかと懼れ、劉洽りゅうこうに自安の策を諮った。劉洽は許昌きょしょうに鎮守して難を避けることを勧め、東海王はそれに従って上奏して裁可を得た。

 晋帝を自らが立てたと心驕っている東海王は、吾が意に任せて知士を王府の官に任じる。晋帝もそれを止められず唯々諾々と従うのみであった。許昌に遷るにあたっては腹心の何倫かりんを洛陽に置いて晋帝の輔佐を命じ、朝廷の監視をも兼ねさせる。

 この時、朝臣の多くは東海王により抜擢された者たちで占められ、何倫は晋帝の相談役を務める形となった。勢威を恃む何倫は日に日に横暴となって後宮の嬪御を辱めるにまで至り、晋帝はそれに怒っても手の打ちようがない。

 そのため、常には隠忍して不満を口にもしなかったものの、密かに王衍おうえんに言う。

「卿らは朝廷にあって朕を輔佐しているが、何倫の横暴を抑えられぬ。一朝に司馬越が異心を懐けば、朝廷でそれを抑える者がいるであろうか」

「不測の事態は未然に防がねばなりません。しかし、身近なところに備えを置けば、必ずや東海王の疑いを招きましょう。南陽王なんようおう司馬模しばぼを涇梁雍秦の都督に任じて長安の鎮守を命じられるのがよろしいでしょう。関中の兵士は強壮です。軍備を整えて糧秣を積んで備えさせるのです。さらに江東の瑯琊王と通じられれば、必ずや東海王を掣肘できましょう」

 王衍の献策を受け、晋帝は南陽王に与える詔を認めたことであった。

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