第五十回 甘卓は偽って小女を取り返す

 顧榮こえいと別れた周玘しゅうきは、城の小西門より入って密かに甘卓かんたくを訪ねて言う。

「公は清名の士です。どうして陳敏ちんびんのために軍勢を率い、逆賊となることを選ばれるのですか。吾の観るところ、陳敏は実に凡庸の才、民を虐げて不道を行い、政令は朝令暮改ちょうれいぼかいの有様、さらに子弟は横暴を働いております。そのため、逆賊に憤る民心はすでに極まりました。これにより錢廣せんこうは心を離して陳昶ちんしょうの首級を挙げ、今や劉機りゅうきと軍勢を合わせて城に逼り、劉準りゅうじゅん應詹おうせんの軍勢も到ろうとしております。その敗亡は火を見るよりも明らか、吾らはその禍から逃れる術を案じねばなりません。万一、陳敏が平定された暁に、吾らの首級が箱に入れられて洛陽に伝わり、その題書に逆賊の陳敏ならびに悪党の甘卓、顧榮、周玘たちの首級と書かれていれば、これは万代に残る悪名、全土も知る恥辱となりましょう。湘江を流れる水であっても、その悪名を清められません。公は愚見をどのように観られましょうか」

「陳敏の不道を知らぬわけではない。それゆえ、これまで固く誓ってその信任を本心とは思っておらぬ。しかし、再三に渡って家人に請われ、一女を棄てて一家を守るために枉げてその縁談を受け入れたのだ。今となっては果たして吾は軍勢を委ねられ、ついに禍は吾が家に及んでしまった。吾が本心は公も知るところであり、公の正論は吾も重々に承知しておる。ただ、吾は兵権を委ねられたわけではなく、周囲は陳敏の一党に囲まれており、進退に窮している」

「一族の祭祀を保つのが一番の大事、それ以外は拘泥するにも及びますまい。顧彦先こげんせん(顧榮、彦先は字)は五千の軍勢を率いて城外にあり、また、劉機と錢廣は三万の軍勢を率いて城に対峙しています。公が忠義を説けば、麾下の将兵とて必ずや公に与しましょう。従わない者があっても、形勢より利害を説けば、従わざるを得ますまい」

「顧公(顧榮)はすでに牛渚ぎゅうしょに出ており、陳敏の兵勢は盛んである。策を行うにも密にして漏洩を防がねば、すぐさま族滅の禍に陥ろう。事は性急を避けて慎重に運ばねばならぬ」

「賊徒の叛乱はすでに朝野の知るところです。急がねば禍は身に及びましょう。公は敢えて一女を捨てて逆賊を討つにも、破れた靴を捨てるようにすみやかに行わねばなりません。汚名を着て死ぬよりは、陳敏の信任に背く方がましというものです。すみやかに計略を行うべきです。吾が此処に来たのは、顧彦先の依頼によります。必ずや牛渚に行ってはおりますまい。遅滞してはなりません」

「分かった。公は夜を徹して江左に向かい、兵権を握っている吾が友の紀瞻きたんに見え、賊徒の平定に助力するよう伝えられよ。顧彦先には書状を送り、軍勢を留めて進ませず、南兵の到着と吾が小女を取り戻すまで待つように伝える。時が来れば一鼓に陳敏を平らげられる」

 周玘はそれを聞くと、甘卓の許を辞去した。


 ※


 それより甘卓は書信を偽造すると、陳敏に見えて言う。

「家より便りがあり、老妻が病を患って床に就いたとのこと、昨日には一族が挙って見舞いに行って誰もが重病であると言います。先ほど受けた便りも帰省を促すものでした。ただ、今は前に敵がある危急の際、任を捨てて帰省すれば大義に背くこととなります。小女を代わって帰省させることとし、吾は敵への備えに専心したいと願っておりますが、如何でしょうか」

 陳敏はそれが偽計であるとは夢にも思わず、再拝して言う。

「公は真の親信の人、その児女は吾が骨肉の親も同じです」

 ついに船を整えると、甘卓の小女を実家に送り返して母の看病をさせるよう命じた。

 周玘も陳敏に見えて言う。

「聞くところ、錢廣は明公の威勢を懼れて瑯琊王ろうやおうに救援を求めたようです。すでに紀瞻に軍勢を与えて援軍に差し向けたとのこと、明公におかれてはすみやかに顧榮の軍勢を呼び戻して南兵を防がせれば、錢廣を擒にできましょう」

 陳敏はその言をれ、急使を発して顧榮を呼び返し、建康けんこうの軍勢に備えるよう命じる。周玘の言が計略であるとも知らず、陳敏は周玘を参軍に任じて顧榮の輔佐を委ねた。

 周玘はそれより、甘卓との約定のために建康に向かったが、二日を過ぎずに先鋒より江水を埋める軍船と出遭う。これは建康より発した軍勢であった。率いる将帥は紀瞻と卞壼べんこ、すでに京口けいこうを破って陳斌ちんひんを擒とし、勝勢に乗じて流れを遡ってきたのである。

 それを知った周玘は小船に乗り換えて面会を求め、甘卓の書状を紀瞻に呈した。紀瞻は一読すると進軍を早め、卞壼に三千の軍勢を与えて小西門のあたりに布陣させる。自らはその後に続いて南門に対する位置に陣を置いた。

 顧榮は錢廣の加勢に向かい、その一方で劉機の軍勢を遣わして陳宏ちんこうの軍勢を防ぎ、劉準を救うよう手配りを終える。甘卓は灣頭橋の梁をこぼって船はすべて東岸に留め、錢廣と顧榮の軍勢を城に渡らせる。ついに高札を掲げて将兵に示す。

 その高札には次のように記されていた。


 呉王府ごおうふ長史ちょうしにして太傅たいふの甘卓は、廣陵の兵衆に高札にて告げる。

 先に聖旨せいしを受けて聞くところ、陳敏の兄弟は謀って不軌を行い、朝廷に謀叛を企て江淮こうわいの百姓に害をなさんとしているとのことである。

 東海王は日ならず大軍とともに洛陽を発されるにあたり、先んじて壽陽じゅようの劉準、廬江ろこう羊鑒ようかん丹陽たんようの紀瞻、建康の賀循がじゅんの軍勢と会し、一斉に陳敏を平らげよとの命を吾に下されておる。

 今、襄陽じょうよう皮初ひしょ竟陵きょうりょう應詹おうせんの軍勢は到り、司馬の錢廣はすでに陳昶を誅殺して功績により罪をあがなった。顧撫軍こぶぐん(顧榮)と周安豐しゅうあんぽう(周玘)は賊徒を誘い出す計略を行い、この三日のうちに官兵は雲のように集るであろう。

 吾が大義によって逆賊を討つにあたり、命令に従わぬ者は三族を戮するであろう。各々承知しておくがよい。


 この高札を掲げるより、甘卓の許に投じる者は五千人を超え、廣陵の城中に来て戦に加わる者は一万を超えた。甘卓は檄文を各地に送り、義勇の軍勢を会するとついに城攻めに取りかかったことであった。

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