第四十八回 劉弘は死して陶侃と張光は兵を回す

 陶侃とうかんとの戦に敗れた錢端せんたんは、歴陽れきように退き、人を廣陵こうりょうに遣わした。

▼「歴陽」は『晋書しんじょ地理志ちりしでは揚州ようしゅう淮南郡わいなんぐん條に含まれる。治所は壽春じゅしゅん揚州ようしゅう南康郡なんこうぐん條には「永興えいこう元年、廬江ろこう尋陽じんよう武昌ぶしょう柴桑さいそうの二縣を分かちて尋陽郡じんようぐんを置き、江州に屬せしむ。淮南わいなん烏江うこう、歷陽の二縣を分かちて歷陽郡を置く」とある。

▼「廣陵」は『晋書』地理志では徐州じょしゅう廣陵郡こうりょうぐんに含まれる。治所は淮陰わいいん。揚州條には「武帝は江都を改めて廣陵と曰い、皇子のしょを封じて王と為し、以て徐州に屬せしむ」とある。位置関係を図示すると、以下のような概念図となる。


      瓜歩●   ●廣陵

     ┏━━━━長江━━━━━━

     ┃● ●建康 ●京口

     ┃石頭城

 烏江● ┃←溧洲

     ┃

 歴陽● ┃

     ┃←牛渚

     ┃


 廣陵にある陳敏ちんびんは敗報に接して大いに懼れ、諸将を集めて方策を諮る。牛新ぎゅうしんが進み出て言う。

「すみやかに人を遣わして各鎮に命じ、関津かんしんや険要の地を守って軽々しく戦わず、持久戦に持ち込むよりありますまい。数ヶ月に渡って軍を留めれば、糧秣は尽きて退かざるを得なくなります。その機に乗じて追撃すれば、一戦に打ち破れましょう」

 陳敏はその計に従うこととし、陳敏に与する各鎮では、官兵の攻撃が烈しければ出て戦い、緩やかであれば守りに徹するようになった。それより、陶侃と張光ちょうこうの軍勢も易々とは敵を破れず、瞬く間に一月が過ぎた。大小の戦を重ねたものの、これといった戦勝は得られない。

 二人は事態を憂慮し、夏陟かちょくの許に人を遣わして糧秣を催促しようとした。それに先んじて夏陟からの使者が糧秣を携えて到着し、二人に報せる。

「昨日、荊州けいしゅうからの急使があり、劉大人(劉弘りゅうこう)の病はいよいよ篤く、後事を託したいとのことでありました。敵への防備は二公を煩わせて自らは大人の看護に尽くした後、再び軍議の場を持ちたいとの伝言です」

 陶侃と張光はそれを聞いて色を失った。ついに軍事を朱伺しゅし夏庠かしょうに委ねると、江夏こうかに戻って夏陟と会し、三人して荊州に向かう。

 三人を迎える劉弘は涙を流して言った。

「まさに公らと力を合わせて陳敏の逆賊を平らげ、ふたたび中原を清めるべきところ、期せずして死病に冒されてしまった。再び起つことはできまい。天は太平を欲さず、この身を殺して賊徒を蔓延はびこらせるつもりなのであろうか」

「公はまず御身を自愛されよ。賊徒どもは吾らが平定に力を尽くして御覧に入れる。意に介されるには及びません」

 陶侃と張光の言葉を聞いても、劉弘はただ頷くだけであった。二人は劉弘の命により軍に戻って賊徒に備えることとなり、荊州を発つ。劉弘の死はその数日後のことであった。


 ※


 皮初ひしょと夏陟は荊州の僚佐と相談し、劉弘の子の劉蟠りゅうばんに荊州牧の官を継がせるよう上奏して願った。晋帝しんてい東海王とうかいおうに是非を問うと、東海王が言う。

「いけません。この上奏を認めれば、朝命によらぬ人事が行われることとなります。悪しき前例となるおそれがございます」

 ついに侍郎じろう山簡さんかん荊襄けいじょう都督ととくに任じて劉弘に代えることとした。

 この山簡は酒を好んで政事に務めず、日々飲宴して暮らす手合いである。荊州に赴任してもその悪癖を改めず、賊徒が並び起って民に寧日はない有様となった。そのため、朝廷でも劉蟠を挙げて賊徒を平定させるべきという意見が出て、劉蟠は順陽じゅんよう内史ないしに挙げられた。

▼「順陽」は『晋書』地理志では荊州順陽郡に含まれる。治所はさん。襄陽から漢水を遡った北岸にあり、荊州でも西部にあって関中かんちゅうの入口である武関ぶかんに近い。

 劉弘の子が任用されたと聞くと、賊徒はいずれも官に降って良民となる。山簡は劉蟠が己より優れることを嫉み、かつ、職を奪われるかと懼れて密かに上奏した。

「劉蟠は賊徒を殲滅するのではなく、すべて降伏させて麾下に収めております。賊徒となった者の心が正しかろうはずもなく、いずれは再び叛乱を引き起こしましょう。そうなっては禍は浅くはございません。陶侃と張光に命じて殲滅させるのが上策です」

 東海王はその言を信じて劉蟠を越騎えつき校尉こういに転任させ、劉蟠は荊州を去った。

▼「越騎校尉」は『後漢書ごかんじょ百官志ひゃっかんしによると、「宿衛の兵を掌る」とされ、『晋書』輿服志よふくしによると「屯騎とんき校尉こうい」とともに皇帝の行列の左右に従うこととされている。皇帝の警護にあたる職であると考えればよい。


 ※


 陳敏に備える陶侃と張光の軍勢は、荊州からの糧秣を欠いて進退に窮していた。錢端はそれを知ってにわかに猛攻を繰り返し、官兵は連戦して敗北を積む。張光が憂慮して言った。

「山簡は軍事を軽んじて賊徒のことを忘れている。糧秣を欠いては戦はできぬ。ここはしばらく鎮所に還って糧秣を集め、その後に再戦を期するのがよかろう」

「賊徒を平定せよとの勅命を受けて、妄りに軍勢を返すことなど思いもよらぬ」

 陶侃の反駁を聞くと、張光が言う。

「公の言は正しい。ただ、吾らは糧秣を荊州に頼っている。劉公りゅうこう(劉弘)が世を去って朝廷は公子(劉蟠)を用いず、山簡はただ飲宴して日を送るのみならず、公子を弾劾して荊州から追い出してしまった。明かに功を嫉んでのことであろう。それゆえ、糧秣は送られず、吾らは進退に窮している。陳敏が旧によって堅守し、此処で持久戦に引きずり込まれれば、全軍が飢え死にする虞もある。この有様で勲功を建てるのは無理というものだ」

 ついに陶侃も撤兵に同じ、二人は軍勢を返した。

 陶侃と張光が軍勢を返したと知り、陳敏は追撃を固く禁じる。それより近隣の郡縣に兵を遣わして長江の北、淮水わいすい泗水しすいの沿岸までを占領した。ついに、淮水以南、三呉以北は陳敏の手に落ちたのである。

 陳氏の子弟は勢威を頼んで圧制を敷き、重税も相俟って民は塗炭の苦しみを舐めた。


 ※


 顧榮こえいは密かに周玘しゅうきに面談して言う。

「仁者は民を救うことを旨とする。先に石氷せきひょうが民を苦しめた際、陳敏はそれを平定した。ゆえに民心を得てそれに拠り、非望を懐いたわけだが、その行いを観るに、久しからずして斃れることとなろう。吾らは樹に絡みついた藤蔦のようなもの、樹が倒れる時にはともに倒れるよりない」

 二人して嘆息するところに、廬江ろこうの内史を務める羊鑒ようかんという者から書状が届く。二人が披いて見れば、次のように記されていた。

「陳敏は地を掠めて淮南に拠っておりますが、その勢威は朝露のようなものです。今や聖上は長安より洛陽に戻られ、朝廷には俊英の士が満ちております。これより大軍を発して賊徒を平定せんとされるでしょう。その暁には、諸賢は何の面目があって朝廷の士大夫に見えられるのですか」

 二人は恥じ入ってついに陳敏を謀る計略を案じ、周玘が言う。

「かつて陳敏は壽陽じゅようを呑もうと企て、劉準りゅうじゅんが朝廷の命に従わず、劉機りゅうきを将として石氷の残党を引き集めていると責めた。また、先に聞くところ、ついに軍勢を発して劉準を襲い、一戦して勝ちを収めたという。これで陳敏と劉準は仇讐となった。現に、劉準は州境に軍勢を止めている。まずは矢文で劉準と約を結び、彼は兵を発して外から攻め、吾らが内応をなすのがよいだろう。さらに、鉾先を返して陳敏を攻め、禍を免れるよう公が錢廣せんこうに説けば、必ずや従うはずだ。錢廣の軍勢を切り崩せば、陳敏を打ち破れよう」

 顧榮はその策に同じ、すぐさま書状を認めると切った髪を同封して誓いの証とする。その書状を腹心の者に持たせると、劉準の許に遣わした。


 ※


 劉準は書状を一読すると、人を遣わして劉機を呼び寄せ、事を諮った。陳敏が己を叛徒と呼んだ遺恨もあり、劉機は顧榮の策に同じて自ら前駆となることを願う。

 劉準はそれを止めて言う。

「陳敏の軍勢は強大になっている。一軍では如何ともし難い」

「吾らは朝廷より賊徒を平定せよとの勅命を受けております。名分は備わっており、将兵の士気は盛ん、軍令も行き届いております。さらに顧榮と周玘が内応するとまで言っておるのですから、勝てぬ道理がございません」

 劉機の言からその意気込みを知り、劉準は劉機をかり揚州ようしゅう総管そうかんに任じ、二万の軍勢を率いて廣陵との境界に向かい、顧榮と周玘を助けるように命じる。自らは一万の軍勢を三万と偽り、瓜歩かほまで進んで後詰となった。道すがら、さらに應詹おうせんが三万の軍勢を率いて後に続いているとの流言を撒く。

▼「瓜歩」は廣陵のやや上流、滁河水じょかすいが西北から長江に合流する地点にあたる。この合流地点は近くにある瓜步山ほかさんより、後代には瓜埠かふとも呼ばれた。位置関係は先の概念図を参照。

 廣陵の守兵たちは、劉機の進軍を知ると急使を発して陳敏に報せた。

「陶侃と張光を退けてより、江南をも兼併せんとしておるにも関わらず、劉準の賊めが邪魔立てするか。義に背く賊めが、許さぬぞ」

 陳敏は怒って言うと、羊奕ようえき牛新ぎゅうしん、顧榮たちを呼んで対策を講じる。

「少々邪魔ではありますが、難しいことはございません。陳昶ちんしょうに一万の軍勢を与えて烏江うこうを押さえ、陳弘ちんこうにも同じく一万の軍勢を与えて牛渚ぎゅうしょを押さえれば、劉準の軍勢が十万であっても怖れるに足りません。まして、十万にも及ばぬ寡兵であっては問題にもなりますまい」

▼「烏江」は『晋書しんじょ地理志ちりしでは揚州ようしゅう淮南郡わいなんぐん條に含まれる。後に歴陽とともに歴陽郡に再編されたことは前段に述べたとおりである。

▼「牛渚」は『後漢書』黨錮列傳の注に「牛渚は山の名なり。江中に突出し、謂いて牛渚圻と為す。宣州當塗縣の北にあるなり」とある。位置関係は烏江とともに先の概念図を参照。

 陳敏はその言をれ、陳昶と行軍司馬の錢廣に二万の軍勢を与えて烏江に向かわせ、陳弘と羊奕に同じく二万の軍勢を与えて牛渚に向かわせ、三弟の陳宏は廣陵に残って輔佐にあたらせることとした。


 ※


 顧榮は密かに周玘を錢廣の説得に遣わした。

「今や朝廷には新帝が立って俊英が位を占めており、法は円滑に行われております。劉準が北から、瑯琊王が南から、應詹が西から攻め寄せており、日ならず陶侃と張光も到着するでしょう。東海王が自ら大軍を率いて洛陽を発したとの情報もございます。六軍が攻め寄せてきたとして、陳豫章ちんよしょう(陳敏、豫章は官名)はそれを防ぎきれるでしょうか。昨日、朝廷より密詔が下りました。それによれば、甘卓、顧榮、それに将軍とともに陳敏を謀って朝廷のために働き、逆賊の汚名を着ぬよう務めよとの仰せです。将軍はどのように身を処されますか」

「吾の観るところ、陳豫章の行いでは民心を得られるまい。民心を得ねば大事は成らぬ。しかし、彼は吾を信任して事を委ねておる。信任に背く行いは不義というものだ」

「将軍は間違っておられます。陳豫章は刑政を行うに律を欠き、子弟は横暴を働いて百姓は深く怨んでおります。その敗亡は掌を返すようににわかに訪れましょう。将軍は大才がありながら、史書に悪名を遺されるおつもりですか」

「それならば、公はどのような計略により吾を禍から救おうとされるのか」

「逆賊を助けて反乱を起こすより、国家のために兇徒を平定することが優れていることは自明です。忠義を行って叛徒を討つのは、将軍にとって掌を返すように容易いこと、ただ禍を転じて福とするのみならず、萬民の命を救って不世の大功を建て、千年の後にも伝わる功績を史書に遺せましょう」

「軍勢を率いて外にある身であれば、陳敏に叛くことは容易い。ただ、陳敏に叛けば吾が家眷は皆殺しにされよう。そうなっては、吾がために一族の老小を犠牲に供することとなる」

「顧榮と吾が内にあり、必ずや将軍の一族をお救いいたしましょう。将軍におかれてはまず陳昶を除かれよ。その後、偽って劉機の軍旗を掲げるのです。夜を徹して軍勢を返し、陳敏に攻めかかれば、防戦に終われて将軍の一族を刑戮する暇などございません」

 ついに錢廣は周玘の説得に応じ、密かに人を遣わして劉機と密約を通じる。劉機は密約を受けてもその真偽を見極められず、厳戒態勢を布いてその到着を待ちうけたことであった。

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