第四十六回 陳敏と甘卓は結びて婚を為す

 陳宏ちんこうは自立を図る兄の陳敏ちんびんに、在野の高才大賢を輔佐に迎えるよう勧めた。陳敏はその策に従って呉王ごおう長史ちょうしであった甘卓かんたくを迎えるべく策を案じるよう命じる。

 京口けいこうを守る銭端せんたんが言う。

「甘卓は江東こうとうの高士、衆人の仰ぎ見るところです。礼物を贈って従わせようとしても、なかなか難しいでしょう。それに、吾らの叛心を見抜かれるおそれもございます。聞くところ、甘卓には娘があって年頃であるにも関わらず、まだ許婚がいないといいます。仲人を選んで公子との婚礼を整えるのがよろしいでしょう。甘卓は明公めいこうの本心を知りません。婚礼を整えるだけなら容易いこと、姻戚となれば話はまったく変わります。吾らに従わぬ懸念などなくなりましょう」

 陳敏はその計略に従い、人を甘卓の家に遣って縁談を持ちかけさせる。甘卓はそれをも拒んで帰らせようとしたものの、それを知った夫人が言う。

陳豫章ちんよしょう(陳敏、豫章は官名)は当今の豪傑です。江東に拠って廣陵こうりょうの諸郡を併せ、兵甲は林立してその富貴に比肩する者はございません。その方に婚儀を求められて拒むことなどありますまい」

「お前は知らぬだけのこと、陳豫章の行いを観るに、勢威を恃んでいずれは不軌を図る懸念がある。姻戚の縁を結んだ後に事があれば、必ずや災いは吾が家に及ぶであろう。そうなっては避けようもない。この婚儀は受けてはならぬ。それゆえに辞するのだ」

 甘卓はそう言うと、使者に適当な遁辞とんじを弄して送り返した。


 ※


 謝絶の報告を受けた陳敏は不快に思い、ふたたび諸人を集めて言う。

「お前たちの献策に従って甘卓に婚儀を持ちかけたものの、それをも断ってきおった。どのように応じるべきか」

 献策した銭端が言う。

「報告を聞くところ、甘卓の妻子は乗り気であったものの、甘卓が強く拒んだといいます。まずは礼物を厚くして甘卓の妻の弟に与え、仲人を頼むのがよいでしょう。甘卓の妻は賢明にして知識に優れ、甘卓もその言葉に従うと言います。その弟を籠絡して姉を口説き落とさせれば、必ずや婚儀を受けるよう強く勧めましょう。そうなっては甘卓も拒みきれますまい」

 陳敏はその言葉に従い、礼物を整えると人を甘卓の妻の家に遣わす。妻の家は陳敏の勢威を畏れ、礼物を受けて仲人を引き受けた。弟は急ぎ甘卓の家に向かい、姉に事情を説いて言う。

「陳豫章は姉上の息女を公子の妻に迎えたいと言い、礼物を薦められては拒みようもありませんでした。義兄上あにうえは何ゆえにこの婚儀を拒まれたのでしょうか」

「あの方は権勢に阿附することを嫌い、人の謗りを懼れて拒まれただけです」

「義兄上は高明の賢士であってその処されるところは常に正しいと思います。ただ、陳豫章は虎のような人、その麾下は狼の群のようなものです。賊徒でさえその鋭鋒を忌憚し、朝廷もその行いを掣肘できません。彼を怒らせれば、義兄上と吾の二家はみな災いに罹りましょう。姉上におかれては、義兄上をもう一度説得して二家を災いからお救い下さい」

 甘卓の妻はその言葉に従い、再三に渡って説得するも甘卓は聞き入れない。夫人が傍らより勧めて言う。

▼「夫人」は『後傳』『通俗』ともに「甘孺人かんじゅじん」としている。「孺人」は官位ある人の夫人への敬称である。

「たしかに陳豫章は不軌を企てており、女子の口出しすべきところではありません。しかし、愚見ではこの婚儀は許されるのがよろしい。これはただ一女だけのこと、一女を惜しんで一家を惜しまぬわけには参りません。思うに、しばらく婚儀を結んで難を避け、変事が出来すれば臨機に処すればよいだけのこと、口実を設けてこの家に帰らせればよいのです。その頃には、陳豫章も吾が家に構ってはおられますまい。吾らが不軌に関わらなければ、朝廷も罪することはありません。家を保って罪を犯さず、両美を全うできましょう。しんば、姻戚なるがゆえに、陳豫章より与するよう求められたところで、先に朝廷に通じた上で鉾先を返して攻めればよいのです。この婚儀を受けなければ、暗闇からの矢は避けられません」

 甘卓は妻の勧めを聞き、げて婚儀を受け入れることとした。妻の弟はそれを知ると、陳敏の許に出向いて婚儀を受け入れる旨の答礼を行った。


 ※


 甘卓の娘との婚儀が成ると、陳敏は甘卓の妻弟に厚く賂を贈った。それより聘礼の品を揃えると吉日を選んで婚儀を行い、大事を図るべく策を廻らせる。婚儀にかこつけて祝宴を大いに張り、そこに高賢の士の参集を求めて呼び集め、その場で己に従うことを強要せんと企てたのである。

 陳敏の子の陳景と甘卓の娘の婚儀を報せる書状が到り、顧榮こえい周玘しゅうきは密かに会して言う。

「陳敏の行いを観るに、必ずや非望を懐いていよう。甘公(甘卓)との婚礼に託けて江南の名士を呼び集めるつもりであろう。それゆえに吾らにも書状が送られたのである。遠からず謀叛を行うはずだ。陳敏に与すれば、仕官を避ける行いも失われよう。考えなしには応じられぬ」

 周玘が勧めて言う。

「その非望はいまだ明らかになっておらぬ。陳敏が婚礼に呼びたいというのであれば、まずは応じてみるのがよい。慶賀しつつ動静を占い、非望があればその日のうちに姿を隠せばよいことよ。何の難しいことがあろうか」

 顧榮もその言葉に従い、ともに慶賀に参じることとした。

 二人を迎える陳敏と陳宏は、慇懃いんぎんに拝礼すると歓飲すること数日、帰ることを許さない。陳敏は夜ごとに牛新ぎゅうしん羊類ようるい、錢端、谷應こくおうたちと諮って言う。

「今や江東の名士はいずれも慶賀に訪れている。挙兵して大事を行う時であろう」

 谷應が勧めて言う。

「明公が大事を行われるのであれば、必ずや端緒を求めねばなりません。それにより衆人が発奮して喜んで吾らの用をなすのです。挙兵するにも名分があれば、万事はうまく進みましょう。まずは甘長史(甘卓)を此処に迎えて相談すべきです。呉王の命令と称して明公を揚州ようしゅう大都督だいととくに任じ、江淮こうわい一帯の軍権を委ねることとすれば、外に軍勢を各地に発して賊徒をはらい、与する者を増やして民を安撫できましょう。内にあっては吾らが政事を握って麾下の者たちを官僚に任じれば、なせぬことなどございません」

 陳敏はその言を納れて書状を認めると甘卓を府に招聘し、ついに揚州大都督を自称した。


 ※


 羊奕ようえきからそのことを聞くと、顧榮と周玘の二人は辞去しようとした。陳敏はそれを許さず、顧榮を撫軍ぶぐん將軍、丹陽たんよう内史に任じ、周玘を安陸あんりくの太守に任じた。

 周玘は顧榮に言う。

「吾らは清名の士である。このような不義の職を受けてはなるまい」

「そうではない。この職を拒めば災いを身に受けることとなろう。陳平ちんぺい呂后りょごうに従った故事に倣って職を受け、その後に府中の実権を握って艱難を平らげても遅くはない」

 顧榮はそう言って職を受けた。陳敏は大いに悦んだものの、周玘はあくまで固辞して辞去を望む。それを怒って殺害せんと思うものの、まずは顧榮に職を受けることを勧るよう命じた。

 顧榮は陳敏を欺いて言う。

「明公は呉王より任を受けられ、その武勇に並ぶ者はございません。江南を安寧ならしめるには、君子を礼遇するのが近道というもの、彼の志を許して誹謗の口を塞げば、労せずして大事はなりましょう。にわかに高士を殺して非難を招いてはなりません。遇するに寛容をもってし、その心を和らげるに徳をもってすれば、檄文を送るだけで数州の地を平らげられましょう。無辜の者を殺害すれば、人々は明公を怖れて賢明の士は遠くに身を避け、輔佐する材を得られません。軍勢を発して平定したとしても、いずれは叛乱を招いて永く保ちがたいものです」

 陳敏はその言葉を納れ、周玘が去るに任せることとした。辞去にあたり、顧榮は周玘に密かに言う。

「公は遠くに身を避けず、願わくば早晩に謀って陳平、周勃しゅうぼつの功を収められよ」

 周玘はただ頷いて去っていった。


 ※


 陳敏は錢端、谷應、羊類ようるい、牛新を遣わして淮水わいすい下流域から沿海部の郡縣を平定させ、弟の陳斌ちんひん、羊奕、錢瑞せんずいを遣わして江南の郡縣を平定させた。日ならず各地より捷報しょうほうが伝えられる。

 この時、瑯琊王ろうやおう建康けんこうに赴任した直後にあって兵糧が足りず、征討の軍勢を発することができない。事情を認めると洛陽の朝廷に上奏した。

 晋帝しんてい司馬熾しばしは上奏を得て大いに愕き、王衍おうえん謝鯤しゃこんらを召して事を諮った。二人が言う。

「今や中原には事が多く、賊徒が跋扈している上に守令の多くは朝命を奉じません。朝廷に租税を送るのはただ東呉と楚の地に限られ、これらが陳敏の手に陥れば、百官の俸禄さえ支払えなくなります。洛陽らくようは孤立したも同然となりましょう」

 王修おうしゅう阮修げんしゅうも言う。

「遅滞してはなりません。陳敏の勢威が成れば平定が難しくなります。荊州けいしゅう刺史しし劉弘りゅうこうに詔を下し、廣州こうしゅう刺史しし陶侃とうかんを主帥に任じ、張光ちょうこうらとともに陳敏の平定に向かわせるべきです。南平なんぺい郡守ぐんしゅ應詹おうせんは先に入朝して帰路にありましょう。彼も呼び戻して叛乱の平定に与らせなくてはなりません。建康には王導おうどうがあって瑯琊王を輔佐し、伏尚ふくしょう潘仁はんじんの二将も健在です。陳敏とて容易には長江の南に渡れますまい。劉準りゅうじゅん劉機りゅうきに命じて順蔡じゅんさい壽陽じゅようを守らせれば、劉弘が一挙に陳敏を平らげましょう。憂慮するには及びません」

 晋帝はその意見に従い、詔を発して各鎮に勅使を遣わす。荊州の劉弘の許に向かう勅使が先発し、昼夜兼行で日ならず郡に到着した。劉弘は病床にあったもののたすけられて詔を拝すると、即日に江夏こうか襄陽じょうように人を遣わし、婿の夏陟かちょく皮初ひしょを召し寄せた。

 二人と事を諮って言う。

「揚州の陳敏が叛乱したと言う。そのため、勅命により主帥に任じて平定を命じられた。しかし、吾は不幸にも病床にあり、おそらく勅命を行いがたい。賢婿けんせい(夏陟、劉弘の婿)と皮襄陽(皮初、襄陽は官名)は吾に代わって軍勢を率い、先行して揚州に向かわれよ。甥孫せいそん應思遠おうしえん(應詹、思遠は字)の軍勢の到来を待ち、軍勢を合わせて平定せよ。潯陽じんようより流れに乗って下り、陶士行とうしこう(陶侃、士行は字)を迎えれば事は成ったようなものである」

▼「甥孫」は甥または姪の子を言う。『晋書しんじょ』應詹傳には「鎮南大將軍の劉弘は詹の祖舅そきゅうなり」とあってこれを裏書きする。

▼「潯陽」は『旧唐書くとうじょ地理志ちりしによると江州こうしゅうに含まれる。この江州は隋の九江郡きゅうこうぐんに相当し、翻陽湖はようこと長江の合流点に位置する。次節より陶侃が廣州から九江に向かったと推測されるため、荊州を発した軍勢は九江で廣州の軍勢と会して建康に向かおうとしていたのであろう。

 二人はその命を受けると軍勢を発した。


 ※


 廣州こうしゅう刺史ししの陶侃は詔を一見すると、朱伺しゅし童奇どうきの二将を率い、張光と軍勢を合わせるべく庾嶺ゆれいから韶桂しょうけいに出た。

 その張光は夏庠かしょうに書状を与えて陶侃の許に向かわせると、自らは軍勢とともに渦河かかに出る。

 陳敏の後軍を破って徐州じょしゅうを中心に泗水しすい一帯を押さえようとしたのである。

▼「庾嶺」は『明史みんし地理志ちりし廣東こうとう南雄府なんゆうふ條には、保昌縣ほしょうけんの北に大庾嶺だいゆれい、東に小庾嶺しょうゆれいがあると記す。なお、保昌縣は廣州の治所の合浦ごうほの北東にあたり、真北に進んで長沙ちょうさに到る大道からは外れ、北東に進んで翻陽湖はようこに到る道上に位置する。廣州から翻陽湖の湖畔にある九江きゅうこうに出る際には大庾嶺を越えねばならない。

▼「韶桂」と熟する用例はない。『旧唐書』地理志の嶺南道れいなんどう韶州しょうしゅう條によると、「隋の南海郡なんかいぐん曲江縣きょくこうけんなり」とある。『晋書』地理志によると、曲江縣は廣州こうしゅう始興郡しこうぐんの治所、廣州の治所である合浦の北東にあるものの、庾嶺の手前にある。韶字が韶州を指すのに同じく、桂字が桂州けいしゅうを指すと考えれば、晋代の廣州こうしゅう始安郡しあんぐんにあたり、治所の始安縣しあんけんは合浦の北西に位置する。よって、「韶桂」が韶州と桂州を意味する場合、廣州の合浦の北に広がる一帯を指すこととなり、解しがたい。

▼「渦河」は『明史』地理志ちりしによると、鳳陽府ほうようふ南陽府なんようふに存在したらしい。鳳陽府は淮水わいすい下流の南岸で徐州じょしゅうの南にあたり、南陽府は襄陽の北にある南陽を思えばよい。後文で徐州を中心とする一帯を押さえる目的であったとする以上、鳳陽府を流れる渦河を指すのであろう。

 劉弘はこの動きに応じ、李興りこうに命じて張光に糧秣を供給させた。


 ※


 それより二日が過ぎると劉弘の病はやや快方に向かい、自ら輜重を引いて陶侃の軍勢に合流し、陳敏を破る方策を議論せんと図った。僚佐はそれを止めて言う。

「明公の病はいまだ癒えておらず、軽率に軍勢を発してはなりません。陶士行は陳敏と郷里を同じくし、かつ、同年の友人でもあります。すみやかに軍勢を発したとはいえ、その心事は測りがたいのです。襄陽と江夏の軍勢の動きを観て、報告を得た後に動かれるべきです。陶廣州とうこうしゅう(陶侃、廣州は官名)が忠心より国家のために行い、私情を捨てたと分かった後に軍勢を発しても遅くはございません。心事が明らかならぬうちに動いて変事があれば、この荊州さえ失われましょう」

 劉弘が言う。

「陶廣州の心は昔からよく承知しており、決して他意はなかろう。まして同郷など私情を挟むにも及ぶまい。さらに、軍勢を合わせて叛乱を平定するにあたり、まず友軍を疑ってかかるようでは、どうして賊徒を平定できようか。無用の猜疑を生じてはならぬ。清正の士を疑って自ら行かなければ、陶廣州の心は安んじず、将兵も命を捨てて戦うはずがない。その到着を待って軍勢を発することとしよう。人を遣って陶廣州の到来を探らせよ」

 陶侃の軍勢が荊州との境に到ったところ、劉弘の軍勢は姿を見せない。心に疑惑を感じるところ、劉弘の麾下にある友人より密書が届いた。披いて見れば、次のように記されている。

「荊州の僚属たちは、明公と陳令通ちんれいつう(陳敏、令通は字)が同郷の友人であると言い、劉荊州りゅうけいしゅう(劉弘、荊州は官名)に軍勢を合わせぬように勧める者が多くあります」

 それを読むと、陶侃は嘆息して言う。

「天が奸人に味方しているのか。陳敏を平定せずに主帥が讒言に惑わされるとは。吾らの軍勢は劉荊州の輜重を頼みに此処まで進んできた。それが期待できぬとなると、陳敏を平定するなど及びもつかぬ」

 そう言うと、子の陶洪とうこうに書状を与えて荊州に向かわせた。これは、子を質として二心がないことを示すために行ったのである。


 ※


 劉弘は陶侃の書状を得ると衆人に示して言う。

「吾は陶士行が正人であると知っておった。危うく国事を破るところであったではないか」

 帰途に就く陶洪を送る際、書状を手渡して言った。

「ともに力を合わせ、陳敏を破ろうぞ」

 陶洪は帰ると劉弘の書状を陶侃に呈する。書状には次のように記されていた。

「聞くところ、匹夫でさえも信には背かぬといい、まして大丈夫となれば言うにも及びません。士行の心はよくよく承知しております。余人の言に猜疑の心を起こさず、力を合わせて賊徒を平定せねばなりません。糧秣は吾が自ら発して届けること、疑われるには及びません。婿の夏陟を先に遣わしておりますので、ご指導頂けますようお願いいたします。賊徒に謀られてはなりません。皮襄陽は古くからの部下、歴戦の将帥であれば、任用して頂いても誤りは犯しますまい。それ以外の瑣事は一々ご相談には及ばず、士行の善処を期待しております」

 陶侃はその書状を読み終えると、子を質に留めない劉弘の徳望に感じ入った。ついに軍勢を前に陳敏の平定を誓うと、将兵に命じて言う。

「吾らの懸念は糧秣の不足のみ、荊州の糧秣はすでに発せられた。お前たちは心を一つにして忠を尽くし、賊徒を破るのだ。叛乱を平定すれば、劉荊州は皮襄陽を保護されたように吾らも保護されよう」

 その言葉に将兵は鬨の声を挙げて応じたことであった。

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