第四十五回 陳敏は謀叛して江東に拠る

 晋の永嘉えいか元年(三〇七)は、漢の劉淵りゅうえん永鳳えいほう二年、成の李雄りゆう建興けんこう元年にあたる。洛陽らくように都を置いた晋は八王の争いに乱れ、河間王かかんおうの命を受けた張方ちょうほう長安ちょうあんへの遷都を強いられた。

 荒廃は洛陽に止まらず、祁弘きこうの長安攻めの際にも激しい掠奪が行われ、ついに中原かほくの大都ではぎょうが残るのみとなった。その鄴も鮮卑せんぴ烏桓うかんに襲われて覆され、重要性が増しつつある襄陽じょうよう一帯も張昌ちょうしょう杜弢とそうの叛徒に掻き乱され、民は塗炭の苦しみにある。

 山西さんせい并州へいしゅうに目を転じれば、治所の晋陽しんよう羌族きょうぞく馬荷ばか盧禾ろかに占拠され、いくばくもせず廃墟と化した。塩の産地である淮水わいすい南岸も李辰りしん石氷せきひょうに陥れられ、奪還はしたものの陳敏ちんびんが拠って半ば自立し、洛陽への租税を納めない。

▼洛陽・長安・鄴・許昌の位置関係を示す概念図は以下のとおり。


      ┃山西┃ ▲  山東

 河套地方 ┃晋陽┃ ▲太

      黄 ●汾 ▲行

      河  水 ▲山

      ┃  ┃ ▲脈

      ┣━━┛ ▲  ●鄴

   蒲坂津Z     ▲

      ┃風陵津

━━渭水━━┻И━━黄河━━━━

 長安●  ◇潼関    ●滎陽

  関中 ▲▲   ●洛陽   

     ▲▲ ▲▲▲▲▲  ●許昌

▲▲▲▲◇▲▲▲        

終南山▲武関   ●南陽    

▲▲▲   新野●       

▲▲       ●樊城    

━━━━漢水━━━━┓

       襄陽●┃

          ┃


▼淮水方面の概念図は以下のとおり


━黄河━━┯━━┛

 ●滎陽 │      彭城(徐州)

     └─汴水─┐ ●│

   ●許昌 譙郡●└──┤●下邳

             泗  ┏海

──┐          水  ┃

  └潁水─┐陳留●   └─┏┛

      └──┐     ┃

      項城●│     ┃

 上蔡●     │    ┏┛●盱眙

    新蔡●  │   ┏┛

━━━淮水━━━━┿━━━┛

         │●壽春

         ├─┐

         │芍│

         │陂│

         └─┘

           合肥●

             


 豫章よしょう武昌ぶしょうかんといった長江沿岸でも汪可東おうかとうなる者が叛乱して洛陽を顧みる暇はない。平陽、太原たいげん常山じょうざん真定しんてい渤海ぼっかい汲郡きゅうぐんはいずれも漢に陥り、兗州えんしゅう瀛州えいしゅう魏郡ぎぐんの一帯は漢との争奪の地となった。

 繁栄を極めた中原に安寧はなく、民は窮乏して余財はない。ただ、成国せいこくの王を自称する李雄が拠るしょくだけが平穏を保っていた。


 ※


 李雄の叔父の李譲りじょうが言う。

「お前の母が吾が家に入った頃、部屋に二條の虹が生じて眩い光を発し、その光は中堂から天に上がる夢を見たという。その一條は徐々に淡くなって消え去り、もう一條はより強く輝くと五色の色を発し、ついに天に上った。その後に生まれたのが李蕩りとうとお前だ。李蕩が志半ばで世を去ったのは、消え去った虹に応じるのだろう。それならば、天に上った光はお前に応じるはずだ。つまり、お前は天子にならねばならぬ。今や晋朝は崩壊して漢は日々に攻勢を強めている。尊号を称して国体を盛んにし、蜀に拠って鼎立ていりつした劉備りゅうびに倣うべきであろう。その後、時勢を観望して隙あらば北の関中かんちゅう隴西ろうせいあるいは東の荊州けいしゅう襄陽じょうようを狙い、そのいずれかを得れば中原進出の足がかりとなろう。区区くくたる巴蜀はしょくに逼塞して王号に甘んじていられようか」

 李雄はその言をれて吉日を選び、ついに大成皇帝に即位して建興元年と改元したのである。これにより、中原の晋、山西の漢、巴蜀の成という三国の鼎立がなる。この時、呉の滅亡より数えて二十七年が過ぎていた。


 ※


 晋の司馬氏は宗族が互いに争って殺し合い、ついに天の怒りを買って災異を招いた。季夏きか六月には昼にも関わらず太白星たいはくせいが現れ、その四日後には数千里に渡って雹が降る。十余の郡が被害にあって牛羊の屍が道に連なり、老人幼児には凍死する者まで出た。ただ、豪族の羊氏ようしが治める光義縣こうぎけんに限っては、天は晴れ渡って雹の一つも降ることがない。

◆「光義縣」の位置は不詳。『晋書しんじょ劉聰りゅうそう載記さいきにある「光義の人の羊充の妻は子を產むも二頭あり、其の兄はぬすみて之を食し、三日にして死す」によるものと見られる。劉聰が相國しょうこくとなった際の記述であるため、当時の領内にあったかと思われる。

 それより十日ほどが過ると、一族の羊充ようじゅうという者の妻の鮑氏ほうしが子を生んだ。その子は両頭四手があり、一族は愕いてその子を郊外に埋める。その後、羊充の兄の羊亢ようこうという者がその子供を盗んで喰らった。さらに五日の後、羊亢は突然に虎に変じて一族二十数名を傷つけた末、童女により殺された。

 異変が頻発しているとの報告を受けた朝廷は、詔を下して郡守、縣令に刑罰を慎んで倹約に務め、天変を祓うよう命じる。


 ※


 詔は揚州ようしゅうにも到り、それを読んだ陳敏は弟の陳宏ちんこうに言う。

「天は晋朝の不道を憎んで災異が頻発しておる。これは天命が革まらんとする証左であろう。吾は江南にあって河北とは何の関わりもない。この地に拠って自立しておるようなものよ」

「この詔は吾らにとっても好都合、従われるのがよろしいでしょう。漢と成は日に日に盛んとなって朝廷も平定できません。さらに王浚おうしゅん苟晞こうきも半ば自立して租税を洛陽に入れず、辺境でほしいままに振舞っております。吾らの軍勢は強く、李辰、石冰、汪可東より郡縣を取り返して守令を置き、それらの者たちはいずれも兄上の統制に従っております。ただ京口けいこうのみは呉王ごおうが拠っておりますが、人となりは懦弱だじゃくで与し易いのみです。新たに瑯琊王ろうやおう建康けんこうに着任したものの、軍勢は練られておりません。豫章、臨淮りんわい九江きゅうこう柴桑さいそう廬陵ろりょうにまで吾らの支配する地域を広げて京口と建康を呑めば、長江沿岸に憚るものはなくなりましょう。その後、建康を都とすれば、孫氏の呉と同じく鼎足の勢を保てます」

 陳宏の言葉を聞いた陳敏はそれに同じ、陳宏のほかに陳昶ちんちょう陳泓ちんおう陳恢ちんかい錢廣せんこう錢端せんたんを各地に遣わして鎮守させ、糧秣を貯えさせる。その一方で壽陽じゅよう劉準りゅうじゅんに書状を遣って己と結ぶように持ちかけ、劉準もそれに従った。


 ※


 それより幾ばくもせず、京口の呉王がこうじた。その子の司馬常しばじょうは暗愚であったため、東海王とうかいおうは呉王の長史ちょうし甘卓かんたくに引き続き輔佐させようとした。しかし、司馬常の無能は輔佐に堪えぬと考えた甘卓は病に託して任命を拒み、老親を養うために帰郷したいと申し出た。

▼「薨」は貴人が死んだ際に使う。「しゅつ」は士大夫に用い、「ほう」は皇帝にのみ用いられる。

 陳敏はその機を逃さず、銭端を遣わして輔佐するように偽り、その実、司馬常の兵権一切を奪い取らせた。銭端の後任には子の陳景をあてる。京口を押さえた陳敏はいよいよ不軌を図る心を決め、陳宏、陳昶、銭端たちに事を諮って言う。

「もはや晋朝に人はおらぬ。賊徒は四方に蜂起して西北は漢に蝕まれ、幽州ゆうしゅう王浚おうしゅん涼州りょうしゅう張軌ちょうきは一方の覇と言ってよい。鮮卑せんぴ拓跋部たくばつぶ陰山いんざんからだいに入り、慕容部ぼようぶ段部だんぶ遼河りょうが沿岸を押さえている。関中では氐族ていぞく蒲洪ほこうと羌族の姚弋仲ようよくちゅうも虎視眈々と自立の機を狙っていよう。漢賊はすでに内地を侵して襄國じょうこく西河せいかを奪い、呼延晏こえんあんが洛陽に侵攻せんとしておる。吾らは長江に拠って呉と楚の半ばを納め、淮南わいなん淮西わいせい壽陽じゅようはすでに降った。精兵は敵を破るに足り、糧秣は蔵より溢れんばかり、今こそ荊楚けいその地を併せて大事を行うべきであろう。お前たちの意見はどうか」

 子の陳景が言う。

「大事を行われるには、必ず高賢の士を得ねばなりません。朝廷は父君の勲功をもって数郡の統治を許し、藩屏としております。叛いたと知れば、軍勢を発して征討せんと図ることは必定、その際に高才大賢の人を欠いては防ぎきれますまい」

「江南には高賢と呼べる者が数名あるが、みな官を棄てて野に潜んでおる。屈して吾らに与するように仕向けるのは難しかろう」

 陳宏が懸念すると、陳敏が駁する。

「才華に秀でて行いの清い者は、林泉に隠れても名は朝野に知られるもの、吾もよく承知しておる。かつて朝廷が度々抜擢しようとしたものの、これらの者たちは諸親王の行いを見て仕官を避けた。甘卓と顧榮こえいは顕官に就いたものの齊王せいおうが諫言を納れぬため、張翰ちょうかん周防しゅうぼうとともに江東こうとうに帰った。賀循がじゅん卞壼べんこ周玘しゅうきは江南の士人が宗主と目する者たちであるが、賀循と卞壼は瑯琊王に仕えたと聞く。それ以外の者たちはいまだ野にあり、彼らを迎えて事を諮れば、大事は必ずや成るであろう」

 ついに陳宏も同じて言う。

「甘卓は呉王の長史として京口に鎮守しておりましたが、司馬常の無能を知って病と称し、郷里に退きました。甘卓の協力を得られるならば、呉王の命であると称して各地を従え、大事も行いやすくなりましょう」

 その言葉を陳敏は納れ、甘卓が協力せざるを得なくなる計略を案じるよう、諸人に命じたことであった。

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