十九章 五馬の南渡

第四十四回 瑯琊王司馬睿は江を渡って賢を招く

 河間王かかんおうが殺された経緯を探り、馬瞻ばせんはそれが南陽王なんようおうの仕業と知った。訴えたものの、東海王とうかいおうは河間王の罪過と南陽王の功績を考えて捨て置いた。ただ、南陽王を司空しくうとして招聘することは見合わせた。

 瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい平東へいとう将軍に任じられていたが、東海王が司寇しこうに任用せんとしていると知って猶予していた。そこに、河間王が南陽王に害されたとの報が入り、ついに洛陽に赴くことを取り止めた。

「今や恵帝けいていは世を棄てて新帝が立ち、東海王は朝権をほしいままに振るっている。その臣下はいずれも経国の才を欠く。新に元老を召して輔弼を命じたとはいえ、いずれも放縦にして飲酒を好む者に過ぎぬ。晋の天下は遠からず崩れ去る。かつて先生は東に難を避けるよう孤に勧め、その良言は肺腑はいふに刻んで忘れておらぬ。昨日、洛陽らくようより司寇に任用するとの勅命があったものの、孤はそれに従おうとは思わぬ。聞くところ、司徒しとに任じられた河間王は害され、司空しくうに任じられた南陽王がそれを唆したという。これでこの一件は沙汰止みとなろう。喜ばしいことだ。ただ、より遠くに禍を避けるにはどのようにすべきであろうか」

 瑯琊王は王導おうどうにそう問うた。

「人の言うところによれば、揚州ようしゅう刺史しし陳敏ちんびんは、亡命者を匿って不軌を企んでいるそうです。遠からず叛乱を引き起こしましょう。東海王もまた、このことを憂慮されていると聞きます。荊楚けいそ廣南こうなんの地は国家の糧道ですから、人を選んで鎮守を委ねようとされるでしょう。しかし、江南では陳敏を制する人を得られずにいます。東海王は妃の裴氏はいしを寵愛され、その言葉を聞かぬことがなく、進める策をすべて行うといいます。金寶佳飾を賂し、京口の鎮守を委ねられるように願われればよろしいでしょう。大王の父君(司馬覲しばきん)は建康けんこうの鎮守を永く務められました。江東への赴任を命じられる公算は十分です。任を得れば建康に入り、英雄を麾下に収めて天下の変事を待てば、ただ富貴を保つのみならず、晋朝は大王により支えられることとなりましょう」

 王導の言葉に従い、瑯琊王は珍珠、寶玉、金の首飾り、江南の珍しい織物を裴氏に贈った。


 ※


 瑯琊王のまいないを受けた裴妃は東海王に勧めて言う。

「先に瑯琊王の嫡子がぎょうを逃れて大王に降られました。それより兵卒を募って兵站を担い、いずれも任を果たしたことはご承知のとおりです。骨肉の親の中でも腹心となさるのがよろしいのではございませんか」

「諸親王はいずれも狡猾でなければ詐略に長じ、兇悪でなければ権力に執着し、多くは善い終わりを迎えられなんだ。ただ、呉王ごおうと瑯琊王の二人は東南に鎮守して誰にも追従せず、褒貶ほうへんいずれをも受けておらぬ。瑯琊王の嗣子は漢賊の平定に従って鄴に趣いたものの、それより一向に登用されておらず、孤も任用せんと思っておったが、相応しい職が見つからぬのだ」

「瑯琊王は純粋善良、功を誇らず人に驕らず、器量は比肩する者がありません。聞くところ、陳敏なる者が亡命者を募って不軌を図っていると言います。揚州が乱れれば、江東の糧秣を洛陽に届けられなくなりましょう。万一に備えねばなりません。呉王は京口けいこうに移して瑯琊王に建康の鎮守を委ねるのがよろしいのではありませんか。建康は先代の瑯琊王が長年に渡って鎮守した地、その嗣子であれば任せて不安はございません。江東の英雄を募って銭糧を積ませ、危急の際の頼みとすれば、瑯琊王も大王に心を寄せましょう。陳敏を牽制するとともに、万一の際の備えともなります。一石二鳥ではありませんか」

▼「建康」から北に向かい、長江を渡ると「京口」に到る。この二つの城邑は唇歯の関係にある。

 裴妃の言葉は、王導が使者に伝えて入れ知恵したものであった。東海王はその言に深く同じ、晋帝に上奏して瑯琊王を安東あんとう将軍、都督ととく揚淮諸軍事ようわいしょぐんじに任じ、正式に瑯琊王に封じて建康の鎮守を委ねた。また、呉王は京口に鎮守して陳敏に備えさせることとした。

 瑯琊王はその詔を奉じると東海王に謝し、合わせて輔佐に任じる人物の推挙を願い出る。東海王は王導を長史ちょうしとし、潘仁はんじん伏尚ふくしょうの二将を平東へいとう都尉といに任じて輔佐を委ね、一同は建康に赴任すべく洛陽を発った。

▼「平東都尉」という官は晋代にはない。

 この時、汝南王じょなんおう司馬亮しばりょうの子である西陽王せいようおう司馬承しばしょう汝南王じょなんおう司馬佑しばゆう南頓王なんとんおう司馬宗しばそう、それに長沙王ちょうさおう司馬乂しばがいの子の司馬沈しばちんの四人は洛陽に閑居していた。東海王は彼らを登用せず、彼らもまた中原は遠からず乱れるであろうと観ており、密かに瑯琊王に従って江南に渡った。

 後に、瑯琊王とこの四人を指して「五馬が長江を渡って一馬は龍と化した」と言われるようになる。


 ※


 瑯琊王は京口に到着すると呉王に見え、ついに建康に入った。これより政事の一切は王導に委ねられることとなる。

「河北の混乱により衣冠の名家はいずれも江南に難を避けんと考えておりましょう。大王が驕ることなく謙虚にされれば、俊傑の心をってともに大事をなせましょう。賢人や君子を逃してはなりません」

 王導がそう勧めると、瑯琊王はその言葉を服膺ふくようして心を尽くした。それでも、その名望は知られておらず、心を寄せる者は多くない。建康にあっても名家や智謀の士の訪問は絶えてなかった。

 瑯琊王はこれに悩んで王導に諮ったが、名望ばかりは如何ともし難い。

 三月に入って清明節せいめいせつが近づいていた。王導も陽気に誘われて余暇に散策し、隠逸の賢人たちが遊覧するのに出遭った。それを見物する者に何をしているかと問うと、その者が言う。

▼「清明節」は旧暦の三月、春分の日から十五日目にあたる清明からさらに十五日を過ぎた穀雨こくうまでの間を指す。『漢書かんじょ律暦志りつれきしにも見えるため、発祥は古い。

「江南では清明節の前後三日は貧富貴賎を問わず、墓所に先祖を祀ります。読書人や在野の賢人が山水を遊覧するのはこのためです」

 王導は一計を案じると、帰って瑯琊王に言う。

「この佳節にあって江南の賢人君子は先祖の墓を祀り、客商や旅人も故郷に帰っております。大王が賢人を求めておられるにも関わらず誰も訪れないのは、世評を欠くがゆえのことです。大王が自ら野外に出られて山川や鬼神を祀るにあたり、儀仗を備えて衛兵を連ね、郊外に設えた祭壇を護らせます。そこに、旌旗せいきを並べて傘蓋さんがいを差し掛け、駿馬に乗った大王が臣と肩を並べて向かわれれば、呉の人々はそれを見物するでしょう。威儀赫々たる大王が臣と並んでいるのを見れば、識者は大王が賢者を敬われると知りましょう。その噂が広まれば、賢人や名家の材であっても千里を遠しとせずに到りましょう。かつて、郭隗かくかいえん昭王しょうおうに説いて、賢人をお求めになるのであれば、まずはこの郭隗から始められるのがよろしい、と申したそうですが、これも同じことです」

▼「郭隗」は「隗より始めよ」の故事成語で知られる。燕の昭王とともに戦国時代の人、昭王は前三一二年から前二七九年の在位である。

 瑯琊王はその言をれ、翌日には儀仗を備えて王導と轡を並べ、郊外の野に出かけた。


 ※


 郊外に向かう瑯琊王の行列は、高士の卞壼べんこ賀循がじゅんと行き会った。

 その様子から瑯琊王が賢人を好んで士人を敬うと知り、二人は道の左に寄って見物に加わる。瑯琊王は馬から下りると二人に賓客の礼を尽くし、拝謝して別れた。

 王導が言う。

「すみやかに賢人を募らねばなりません。遅れては応じる者がいなくなります。先の卞壼と賀循は呉中の高士であり、人々に重んじられております。彼らと面識を得たからには、急いで登用すれば人心を得られましょう。彼らを得れば、余人は募らずとも身を寄せて参ります」

 翌日、瑯琊王は二人を府に迎えるべく、王導を遣わした。王導は二人に礼物を薦めると瑯琊王の意を具に申し述べる。ついに卞壼と賀循は王府に到って命を奉じ、従事じゅうじ司馬しばに任じられた。それより、江南の名士で瑯琊王の許に投じる者が後を絶たなくなる。

 この頃、瑯琊王は酒を好んで酩酊することが多く、それを見た王導が諌める。

「諸親王が浪費する一方、天下の米穀は不足しております。士庶の心を収めなければ、人は反して従いますまい。大王は謙虚に士大夫を待ち、倹約して浪費を省かねばなりません。倹約と謙虚を保って新旧の人々を慰撫すれば、残らず心を寄せましょう。洛陽の士大夫は飲酒を好んで政事を顧みず、ついに天下を破りました。大王の飲酒はそれに倣っておられ、先轍を忘れた行いです」

 王導に諌められ、瑯琊王は賀循たちを前に誓って言う。

「今日より禁酒する。先生たちはその証人だ」

 言うと、酒盃を地面に投げつけて言った。

「孤は二度とお前を使わないだろう」

 それより、瑯琊王はついに酒を止めた。先に謳われた「五馬が長江を渡って一馬は龍と化した」の一馬とは、この瑯琊王を指していたことであった。

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