第四十三回 南陽王司馬模は河間王司馬顒を殺す

 河間王かかんおう司馬顒しばぎょうは、祁弘きこうとの戦に敗れて太白山たいはくさんに逃れた。その麾下の馬瞻ばせんがようやく追いついたものの、食料を欠いたため、ともに始平しへいの太守を務める梁邁りょうまいの許に身を寄せる。

▼「始平」は『晋書しんじょ』地理志によると、治所は槐里かいり、長安の西にある。

 梁邁は長安ちょうあんに鎮守する弟の梁柳りょうりゅうに人を遣わして河間王を迎えるように言い遣ると、その相談のために長安に来るよう返書があった。梁柳が己を長安に迎えることを拒むかと河間王がおそれたため、梁邁は毒を仕込んだ濁酒を梁柳に贈る。梁柳は酒を好んだために毒にあたって死んだ。

 河間王は馬瞻を遣わして長安令ちょうあんれい蘇衆そしゅうと梁柳の許にいた朱永しゅえいまいないした。朱永たちは賂を受けると次のように上奏する。

「梁柳が病死したために長安は鎮守を欠き、人民の心は安定しておりません。仮に河間王を鎮守に迎えてまずは人心を安定させるべきです」

 河間王もまた上奏して罪を乞うたが、恵帝けいてい司馬衷しばちゅうが崩じて新帝が立った際の大赦に遭い、罪を問われなかった。新たに帝となった司馬熾しばしは、河間王により皇太弟に立てられたことを徳とし、河間王を許そうとしたものの、東海王が許さぬかと懼れた。

「ただ留意して長安を治めれば、他日に封を加えるであろうと河間王に伝えよ」

 朱永の使者にはそのように言い含めた。


 ※


 弘農こうのうの太守を務める裴廙はいよく秦州しんしゅう内史ないし賈龕かがん安定あんていの太守の賈疋かひつたちは河間王の行いを論じて言う。

▼「内史」は、諸親王の国の宰相にあたる。『晋書』武帝紀太康十年十一月條に「諸王國の相を改めて內史と為す」とあることによる。ただし、秦州は諸王の国ではなく州であり、内史は存在しない。

「河間王は戦で将兵を喪うのみならず、朝廷に罪を犯した。誅殺を免れただけでも幸いとすべきであろう。それにも関わらず、守将を害された吾らがその罪を看過かんかして長安の鎮守に迎えることなどできようか」

 三所の軍勢を会して長安に向かう。河間王は馬瞻、梁邁、朱永を遣わしてその軍勢を防がせ、裴廙たちの軍勢は大敗を喫した。賈疋は河間王を弾劾して言う。

「司馬顒は謀って梁柳を害して長安を奪い、近隣の諸郡を従えようと図っております。朝廷より軍勢を発して不道を伐たんと願う臣らに加勢を願います」

 河間王も裴廙たちが関中を奪って叛乱を企てていると上奏した。

 これらの上奏を受けた晋帝は東海王とうかいおうに事を諮って言う。

「張方は強兵を恃んで罪を犯したため、河間王は道を誤った。罪過なしとはできぬが、功績の方が多い。また、自ら元凶の張方を処断しており、その罪は許されるべきであろう。その上、宗室の長老でもあって長年関中に鎮守して衆人に重んじられておる。長安の民はいまだに河間王を慕っていよう。しかし、この一戦ですでに各所の郡太守との怨みを結んだであろう。太守たちを助けて河間王を討てば宗室の和を破り、王を助けて太守を討てば国家の忠臣を失う。思うに、河間王を洛陽に召還して事を休ませるべきであろう。王はどのように観るか」

「陛下の天恩は友愛の情に適うかと存じます。詔を下して裴廙たちには任地を守らせる一方、督護とくご糜晃びこうを遣わして梁邁、朱永とともに長安に鎮守させ、河間王は召還して司徒に任じるのがよろしいでしょう。あわせて南陽王なんようおう司馬模しばぼ司空しくうに任じ、瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい司寇しこうに任じ、東瀛公とうえいこう司馬虞しばぐを司農に任じれば、骨肉の親がいずれも朝廷にあって齟齬を生じることもございますまい」

▼「司寇」は『後傳』『通俗』ともに「司馬」とするが、後段により改めた。

 晋帝はその言をれてまずは糜晃を長安に遣わした。


 ※


 詔を読んだ河間王が仔細を問えば、糜晃は晋帝の意をそのままに伝える。

 この時、長安は祁弘の軍勢に蹂躙じゅうりんされて旧の栄華はなく、河間王の軍勢も喪われてにわかに威勢を復することは難しい。河間王は詔に従って洛陽に向かうべく、馬瞻と五百の軍勢を率いて長安を発った。

 東海王は河間王が長安を発したと聞き、勅使を許昌きょしょうにある南陽王の許に遣わした。南陽王が司空に任じる旨の詔を読むと、勅使は宗室の和を望む晋帝の意を伝える。

 それを聞いた南陽王は僚佐を集めて言う。

「河間王の心は不仁である。齊王せいおうけいを助けて趙王ちょうおうりんを討ち、さらに長沙王ちょうさおうがいを唆して齊王を誅殺させた。また、長沙王が忠を尽くしたにも関わらず、成都王せいとおうに与して天子を脅かし、さらに成都王の皇太弟の位を廃して東海王の不興を買った。孤らは軍勢を会して河間王を破って先帝を洛陽にお返ししたのだ。河間王が朝廷に入れば、河間王は孤を望まず、孤も河間王を望まぬ。この事態をどのように処するべきか」

 牙将がしょう王因おういんが言う。

「大王のお言葉とおりでありましょう。先に相容れなかったものが、後日にどうして相容れるよう変わりましょうや。司徒となれば志を行うにも易く、不測の難を懸念せねばなりません」

「卿の見解は孤のそれに一致する。どのような謀によって河間王の専権を阻めようか」

「洛陽への召還は勅命であり、阻むことはできません。愚見では、精兵千人を発して新安しんあん雍谷ようこくの山中にある隘路に伏せ、その到来を待って伏兵を発すれば、その命を奪うことは掌を反すようなものです。後は、盗賊により殺されたよう偽装すれば、吾らの行いとは誰も分かりません。それでこそ後患を断てましょう」

▼「新安」は『晋書しんじょ地理志ちりし司州ししゅう條によると、河南郡かなんぐんに含まれる。また、「函谷關かんこくかんの居る所なり」とあることから、洛陽の西にあったと分かる。

「妙計である。卿は孤に代わってこれを行え」

 王因はうべなうと冷辰れいしんという大力の士とともに準備を進め、輜重を運ぶように装って五百の軍勢を先行させる。さらに、自らは客商や士大夫に装った五百の兵士を三々五々に進発させ、雍谷で落ち合って埋伏した。


 ※


 河間王は朝廷からの召還により長安を発ち、警戒もせずに道を進んでいた。滎陽えいようを出て新安に至る頃には道がにわかに狭まったため、自ら二人の子と二百の軍勢を率いて先行する。馬瞻は後軍となって輜重を保護している。

▼「滎陽」が洛陽の東にあったことは先に述べた通り、長安から見れば、新安-洛陽-滎陽と並ぶ。よって、洛陽にも到着していない河間王が滎陽にいたはずはない。

 雍谷の隘路に到ったところ、両側から数百の軍勢が湧き出して叫んだ。

「そこを行くのは何者か。金寶を置いていけば、生命だけは見逃してやろう」

 河間王が言う。

「孤は河間王である。お前たちが邪を捨てて正に帰せば、洛陽に伴って官職を与えてやろう」

 冷辰は先頭に立つ河間王に馳せ向かい、一刀の下に斬り殺す。それに従う兵士たちは二子をも合わせて討ち取った。兵士たちは愕いて後軍に逃げ出し、救いを求めて叫んだ。

「馬瞻将軍、お救い下さい」

 それを聞いた王因が冷辰に命じる。

「馬瞻は関中の上将、軽々しく立ち向かえる相手ではない。目的を達したからにはすみやかに逃れ去るのだ」

 そう言うと、河間王たちが身につけていた金玉を奪い取ると、山中に逃れ去った。

 馬瞻が駆けつけた頃には、賊徒はすでに逃げ去って河間王父子の屍が地に伏せるばかり、大哭すると屍を車に載せて洛陽に向かう。東海王に見えるとその死を報告した。

 その死を哀しんだ晋帝は、王の礼によって成都王と同じく北邙山ほくぼうさんに葬る。さらに祭祀をおこなう後嗣をも喪ったため、彭城王ほうじょうおう司馬助しばじょに河間王の跡を継がせたことであった。

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