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2018年5月16日 22:19 編集済
いよいや、東晋の基礎づくりの始まりですな。演義劉備のような風情のある瑯邪王・司馬睿と、諸葛亮と並ぶ名声を持つ王導、晋と思えない希望が溢れる建国物語のはじまりです。本来なら陳敏の揚州刺史は自称で、そこいらはややこしいのですが、陳敏は元から晋の揚州刺史、王導は司馬睿の長史と、ここは分かりやすく工夫されています。司馬睿は、東海王・司馬越に組みしていたので、この真相は司馬睿に江南を抑えさせようとする司馬越の戦略とする説もあるのですが、川勝先生によると司馬睿はほとんど兵力を有しない状態であり、王敦の合流も遅れたので、案外、この状態が事実に近いのではないかと思います。ただ、司馬睿は瑯邪王であったため、王導が親しかったように瑯邪の王氏を人材として利用しやすいというメリットは大きかったようですね。この後の王導による江南豪族の切り崩しは見事という他ないです。若い時は王導の何がすごいのか理解できませんでしたが、軍事力をほとんど有さずに一王の名前だけで、曲芸のような政治力によって江南豪族をいいように利用し、東晋の基礎を固めたのは本当に魔術的としか表現しようがありません。【追伸】>こちらも実は穏健な長者ではなく、切れ切れの政治家>だったんじゃないかなあ、という疑いがありまして。>東晋建国当初に江南で続発した豪族の叛乱などを考えますと、>かなり厳しい豪族抑制政策をやらかしているはずなんですよね。これも正史やそれを研究した論文によると、厳しい豪族抑制政策にやらずに、というよりも建国当初は軍事力がないため、それをやれなかったのに、江南豪族を抑え得たというところに王導の本領と怖さがあります。当初は江南豪族を建てて、さりげなく、呉・会稽・丹楊の先進地域の豪族を優遇して、呉興の後進地域の周氏・沈氏・銭氏と分断をすすめ、北方から逃れていた貴族達を使い、その伝統的権威と九品制度による郷論を背景に次第に主導権を奪っていくのです。おっしゃる通り、それに反発して呉興の豪族たちは何度も反乱を起こすのですが、その一族も王朝の権威と官職を餌にさらに分断。それを尻目に、次第に瑯邪の王氏により軍事権を独占していきます。しかし、王導は決して姑息なだけの南朝の貴族政治家ではありません。民衆に対しては、民衆の生活が困難な時は積極的に助けて民衆の生活が安定するとそれを邪魔しない方針をとる、李済滄先生の言う「清静」政治を推奨するです。これにより、王導は長者というイメージを獲得していきますもちろん、これは東晋の国家の維持には貢献しますが、皇帝権力の増大は侵害しており、瑯邪王氏が繁栄する反面で、東晋は意気上がらないままであったのですが。と、川勝・金民寿・李済滄先生の論文を適当にまとめてみました(笑)これなら、厳しい豪族抑制政策なしでも、豪族の反乱が相次いだ理由が説明がつくので、賛同してもよいのではないでしょうか?王導の諸葛亮と違うところは、忠誠心については疑わしいところがある、自分だけは人望を獲得し、安全な場所にいつもいる、ところでしょうか?>かなりのワルモノなんじゃないの、と個人的には見ています。本当のワルっていうのは、こういう人間を言うのかもしれませんね(笑)王衍と王導は、実は紙一重の差だったのではないかとは思っています。(長い!)【再追伸】そうですね。私が川勝先生を信じるのは無難だからだけではなくて(笑)、都督~諸軍事というものが、学説の話し合いで、必ずしも軍権を意味するものではないとしているからです。これは、小尾孟夫先生や石井仁先生のご意見です。石井先生によると、使持節都督諸軍事は「宋書・百官志、晋書・職官志で、殺すことのできる人の身分・範囲・条件しか職掌していない。都督という官職・制度の本質、存在理由がこれ以上でもこれ以下でもない」そうです。>江南に赴任した司馬睿は一定の軍勢を伴っていたこれが川勝先生の該当論文(初期東晋政権の軍事的基礎、加賀博士退官記念中国文史哲学論集収録)が、ciniiに登録されていないので国会図書館から写しがもらえなくて(笑)、他の川勝先生の論文からの孫引きなので、これ以上、語れません。手に入ったら、また、お伝えします。ここらは私もまだ勉強仕立てなので、学説のコピペが多くなるのですが、これは歴史小説のコメントなので、ある程度は気楽にやりたいと思います。個人的には王導が徒手空拳から名家の血筋と政治力だけで東晋の基礎をつくりあげたという話しにロマンを感じますね。【再々追伸】いえいえ、私も時々、twitterで歴史関係につっこんでしまい、突然、フォロー解除されたり、ブロックされたりしますから(笑)。ああいうのは普通に意見していい、困るならダイレクトメッセージで話すことをお願いされるだけのものと思っていましたが、どうやら違うようですね。実は、私は強固な自説など持っていないし、おっしゃることは理解できるので、どうお話しようかと思いました。実際、正史+主要史料を完全に把握して3割、論文(中国語を含む)を完全に把握して3割、さらに思想・制度などの過去からの流れを知るのが2割、そこから統合して妥当な解釈を生んで完成でしょうか。それも、新しい発見が有る度にアップデートしないといけないので、大変です。通常はそこまでは辿り着けようがないので、気楽になんでもお話されていいと思います。
作者からの返信
【再追記を受けて】どうもだめですね。90年代後半、北朝は研究しても仕方ない世界でした。みなさま、たぶんご存知だったんだと思います。その先が袋小路だと。最近は新出史料もあり、盛んになってきましたが、20年前は死んだ分野だったのです。それが悔しくて、色々調べて社会学が成立する最初の時代だよね、というわけで、新しくなにかできないか、可能性を探る日々でした。そういう北朝研究の闇を背負ってしまっているのでしょう。当時から研究テーマに事欠かない南朝に対する深いルサンチマンがあるのですね。こういう問題は内側に秘めるべきでした。しばらくは身を慎みたいと思います。北朝史に定見はあっても、南朝史に定見がないなら黙るべきです。深く反省します。失礼しました。【お詫び】ああ、、、またやってしまいました。すみません。南朝の話になると、どうもダメです。古代的な族的結合を前提とする古北朝のありように六朝貴族社会をはめ込もうとしてしまうのです。本当にそうかどうかではなく、思考のクセになって抜けられないのです。悪癖です。まめさんにはご迷惑をおかけしました。【再追記を受けて】〉都督~諸軍事というものが、学説の話し合いで、必ずしも軍権を意味するものではないとしているうーむ、都督は厄介なんですよね。結局、確定的な結論は出てなかったと思います。まあ、学者が話し合っても意味は別にないです。喋らせるなら金石を含む史料に話させるべきですね。見る限り、初出は三国志の袁紹伝じゃないですかね。紹は乃ち統ぶる所を分授して三都督と為し、(沮)授及び郭圖、淳于瓊をして各々一軍を典らしめ、未だ行うに及ばず。これ、明らかに軍権の分与の記事ですよね。後漢の事例だからセーフということかなあ。ここまででお察しの通り、個人的には石井説は採りません。最低限の権限規定にしても反証が多すぎます。つーか、そんなわけあるか、と思う。都督の名で粛殺の権を許すだけとか、名分論上から観てもあり得ない。思うに、北朝の行台尚書もそうですが、非常置の官はそのものが例外的ですから、運用も属人的に行われざるを得ません。結果、初期には規則性を見出しにくく、ほぼ常置になって運用が固まる傾向があります。それが官志。しかし、官志は意外と適当で逆に混乱を生むように思います。職掌も消長がありますし。いつ時点やねん、という疑問が。地理志も同じですけど。仰る通り、王導が徒手空拳で〜、はロマンティックではありますが、私見ではあり得ないと考えたいと思います。いや、ふつーにムリでしょ?そうであるならスゴイけど、なぜ王導にはできたのか?とかそういう疑問が湧いてきますし、実現手段を等閑にしすぎです。日本人は南朝贔屓が多いですから仕方ないかもですが、でも、できないもんはできません。武力なしの政治や外交がいかに不毛かは、日本人はみんな知っていると思うのですが。名望や家格は常に刺身のツマに過ぎないのです。大事なのは、財力と武力だと考えます。戦後平和主義の悪癖なのかなあ。。。※【追記を受けて】こんばんは。ご教示ありがとうございます。今のところ確立した定見はありませんので、参考にさせて頂きます。勉強がてらに晋書をちょろっと見てみました。まず、司馬睿の南渡の経緯です。懐帝本紀、 秋七月己酉朔、東海王越は進みて官渡に屯し、以て汲桑を討つ。 己未,平東將軍、琅邪王睿を以て安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節と為し,建鄴に鎮せしむ。元帝本紀 東海王越の下邳に兵を收むるや、帝に輔國將軍を假す。 尋いで平東將軍、監徐州諸軍事を加え、下邳に鎮ず。 俄にして安東將軍、都督揚州諸軍事に遷る。 越の西して大駕を迎うるに、帝を留めて居り守らしむ。 永嘉の初め、王導の計を用て始めて建鄴に鎮ず。王導傳 時元に帝は琅邪王たり,導と素より相い親善す。 導は天下の已に亂るるを知り、遂に心を傾けて推奉し、潛かに興復の志あり。 帝は亦た雅相器重し、契は友執に同じうす。 帝の洛陽に在るや、導は每に勸めて國に之かしむ。 會々帝の下邳に出鎮するに、導を請いて安東司馬と為す。 軍謀密策、知りて為さざるなし。 建康に鎮を徙すに及び吳人は附かず,居ること月餘にして士庶に有至る者有るなし。 導は之を患う。ざっと見る限り、司馬睿は懐帝の詔により安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節として建康に赴任したと分かる程度ですね。ただ、司馬睿と王導の側から見ると、この出鎮は王導の計略であるとしています。王導の計略であるとするならば、懐帝というより実権を握っていた司馬越の同意を得るべく運動したであろうことは想像に難くありません。さらに、それが成功したので懐帝は出鎮の詔を発したわけですよね。単純に考えて、建康出鎮が王導の計略であるか、東海王の戦略であるかと言えば、王導の計略であり、東海王の戦略だった、という回答も矛盾はしないわけです。実相は藪の中ですが、両方成立しそう、でも王導が策動したことは確実っぽい、という感じでしょうか。一方、司馬睿に軍権がなかったかと言えば、これはおそらくあったと思います。元帝本紀を見る限り、徐州に出鎮した際は平東將軍、監徐州諸軍事を帯びており、ついで安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節を帯びて建康に出鎮しています。監と都督は明らかに後者が上ですから、徐州での働きを認められていたであろうことも窺えます。都督が一定エリアの軍権を掌握していたことはご存知のとおりですから、江南に赴任した司馬睿は一定の軍勢を伴っていたでしょうし、州の軍政機構を使って兵を徴発することもできたはずです。少なくとも司馬睿が州を統治するに足る軍権を保有していたことは確実です。しかし、それに呉の豪族が従ったかというと、また問題は別です。有名無実という言葉もあります。王導はどのようにして統治機構を動かしたかを想像するべく、主な人物の任官をちょっと見てみましょう。王敦元帝召為「安東軍諮祭酒」。會揚州刺史劉陶卒,帝復以敦為揚州刺史,加廣武將軍。尋進左將軍、都督征討諸軍事、假節。帝初鎮江東,威名未著,敦與從弟導等同心翼戴,以隆中興。顧栄元帝鎮江東,以榮為「軍司」,加散騎常侍,凡所謀畫,皆以諮焉。周玘元帝初鎮江左,以玘為「倉曹屬」。甘卓元帝初渡江,授卓「前鋒都督、揚威將軍」、歷陽內史。賀循元帝為安東將軍,復上循為吳國內史周顗元帝初鎮江左,請為「軍諮祭酒」紀瞻帝為安東將軍,引為「軍諮祭酒」,轉「鎮東長史」。「」は軍に関わる官ですね。こうして見ると、在地の豪族出身者の多くが軍政や財政に関与する官に就けられていた、すなわち、行政機構が機能するように在地の有力者を巧みに登用していたであろうことが窺われます。これらの配慮が出発点にあったわけですね。さてそこからどうなったかという点についても、論文の内容も含めて定見を持てるといいのですけど、そこまで時間を割けるかなあ。あ、そもそも北朝派なので南朝への興味が薄いのでした。。。※こんにちは。本作の東晋は建国譚まででほぼ終わりなのですよね。本格的な東晋の成立は次作に譲ることとなります。人材招聘が中心になりますので、読む方としては一番面白いところ、ということになります。>陳敏作中でも「陳豫章」と呼ばれて「陳揚州」と言われないのは、自称だったからなのですね。作中における陳敏の勢力圏はイマイチ想像しにくいところがありますが、豫章から長江北岸一帯が勢力圏という設定のようです。>司馬睿東海王との絡みは謎ですね。本作ではあまり強調されていない、というか、東海王の下から逃げ出した風味になっていますので、それも一つの解釈としてアリかねえ、という感じです。正史を読むとまた印象が変わるかも知れませんけども。>王導こちらも実は穏健な長者ではなく、切れ切れの政治家だったんじゃないかなあ、という疑いがありまして。東晋建国当初に江南で続発した豪族の叛乱などを考えますと、かなり厳しい豪族抑制政策をやらかしているはずなんですよね。ただ、史料にはそのあたりが残っていないので、何か人心収攬が巧みな人という感じになってしまったのかなあ、と。かなりのワルモノなんじゃないの、と個人的には見ています。まあ、そうじゃないと無縁の地に国家なんて建設できませんしね。。。
編集済
いよいや、東晋の基礎づくりの始まりですな。演義劉備のような風情のある瑯邪王・司馬睿と、諸葛亮と並ぶ名声を持つ王導、晋と思えない希望が溢れる建国物語のはじまりです。
本来なら陳敏の揚州刺史は自称で、そこいらはややこしいのですが、陳敏は元から晋の揚州刺史、王導は司馬睿の長史と、ここは分かりやすく工夫されています。
司馬睿は、東海王・司馬越に組みしていたので、この真相は司馬睿に江南を抑えさせようとする司馬越の戦略とする説もあるのですが、川勝先生によると司馬睿はほとんど兵力を有しない状態であり、王敦の合流も遅れたので、案外、この状態が事実に近いのではないかと思います。
ただ、司馬睿は瑯邪王であったため、王導が親しかったように瑯邪の王氏を人材として利用しやすいというメリットは大きかったようですね。
この後の王導による江南豪族の切り崩しは見事という他ないです。若い時は王導の何がすごいのか理解できませんでしたが、軍事力をほとんど有さずに一王の名前だけで、曲芸のような政治力によって江南豪族をいいように利用し、東晋の基礎を固めたのは本当に魔術的としか表現しようがありません。
【追伸】
>こちらも実は穏健な長者ではなく、切れ切れの政治家
>だったんじゃないかなあ、という疑いがありまして。
>東晋建国当初に江南で続発した豪族の叛乱などを考えますと、
>かなり厳しい豪族抑制政策をやらかしているはずなんですよね。
これも正史やそれを研究した論文によると、厳しい豪族抑制政策にやらずに、というよりも建国当初は軍事力がないため、それをやれなかったのに、江南豪族を抑え得たというところに王導の本領と怖さがあります。
当初は江南豪族を建てて、さりげなく、呉・会稽・丹楊の先進地域の豪族を優遇して、呉興の後進地域の周氏・沈氏・銭氏と分断をすすめ、北方から逃れていた貴族達を使い、その伝統的権威と九品制度による郷論を背景に次第に主導権を奪っていくのです。
おっしゃる通り、それに反発して呉興の豪族たちは何度も反乱を起こすのですが、その一族も王朝の権威と官職を餌にさらに分断。それを尻目に、次第に瑯邪の王氏により軍事権を独占していきます。
しかし、王導は決して姑息なだけの南朝の貴族政治家ではありません。民衆に対しては、民衆の生活が困難な時は積極的に助けて民衆の生活が安定するとそれを邪魔しない方針をとる、李済滄先生の言う「清静」政治を推奨するです。これにより、王導は長者というイメージを獲得していきます
もちろん、これは東晋の国家の維持には貢献しますが、皇帝権力の増大は侵害しており、瑯邪王氏が繁栄する反面で、東晋は意気上がらないままであったのですが。
と、川勝・金民寿・李済滄先生の論文を適当にまとめてみました(笑)
これなら、厳しい豪族抑制政策なしでも、豪族の反乱が相次いだ理由が説明がつくので、賛同してもよいのではないでしょうか?
王導の諸葛亮と違うところは、忠誠心については疑わしいところがある、自分だけは人望を獲得し、安全な場所にいつもいる、ところでしょうか?
>かなりのワルモノなんじゃないの、と個人的には見ています。
本当のワルっていうのは、こういう人間を言うのかもしれませんね(笑)
王衍と王導は、実は紙一重の差だったのではないかとは思っています。
(長い!)
【再追伸】
そうですね。私が川勝先生を信じるのは無難だからだけではなくて(笑)、都督~諸軍事というものが、学説の話し合いで、必ずしも軍権を意味するものではないとしているからです。これは、小尾孟夫先生や石井仁先生のご意見です。石井先生によると、使持節都督諸軍事は「宋書・百官志、晋書・職官志で、殺すことのできる人の身分・範囲・条件しか職掌していない。都督という官職・制度の本質、存在理由がこれ以上でもこれ以下でもない」そうです。
>江南に赴任した司馬睿は一定の軍勢を伴っていた
これが川勝先生の該当論文(初期東晋政権の軍事的基礎、加賀博士退官記念中国文史哲学論集収録)が、ciniiに登録されていないので国会図書館から写しがもらえなくて(笑)、他の川勝先生の論文からの孫引きなので、これ以上、語れません。手に入ったら、また、お伝えします。
ここらは私もまだ勉強仕立てなので、学説のコピペが多くなるのですが、これは歴史小説のコメントなので、ある程度は気楽にやりたいと思います。
個人的には王導が徒手空拳から名家の血筋と政治力だけで東晋の基礎をつくりあげたという話しにロマンを感じますね。
【再々追伸】
いえいえ、私も時々、twitterで歴史関係につっこんでしまい、突然、フォロー解除されたり、ブロックされたりしますから(笑)。ああいうのは普通に意見していい、困るならダイレクトメッセージで話すことをお願いされるだけのものと思っていましたが、どうやら違うようですね。
実は、私は強固な自説など持っていないし、おっしゃることは理解できるので、どうお話しようかと思いました。
実際、正史+主要史料を完全に把握して3割、論文(中国語を含む)を完全に把握して3割、さらに思想・制度などの過去からの流れを知るのが2割、そこから統合して妥当な解釈を生んで完成でしょうか。それも、新しい発見が有る度にアップデートしないといけないので、大変です。
通常はそこまでは辿り着けようがないので、気楽になんでもお話されていいと思います。
作者からの返信
【再追記を受けて】
どうもだめですね。
90年代後半、北朝は研究しても仕方ない世界でした。みなさま、たぶんご存知だったんだと思います。
その先が袋小路だと。
最近は新出史料もあり、盛んになってきましたが、20年前は死んだ分野だったのです。
それが悔しくて、色々調べて社会学が成立する最初の時代だよね、というわけで、新しくなにかできないか、可能性を探る日々でした。
そういう北朝研究の闇を背負ってしまっているのでしょう。
当時から研究テーマに事欠かない南朝に対する深いルサンチマンがあるのですね。こういう問題は内側に秘めるべきでした。
しばらくは身を慎みたいと思います。北朝史に定見はあっても、南朝史に定見がないなら黙るべきです。
深く反省します。失礼しました。
【お詫び】
ああ、、、またやってしまいました。すみません。
南朝の話になると、どうもダメです。
古代的な族的結合を前提とする古北朝のありように六朝貴族社会をはめ込もうとしてしまうのです。
本当にそうかどうかではなく、思考のクセになって抜けられないのです。悪癖です。
まめさんにはご迷惑をおかけしました。
【再追記を受けて】
〉都督~諸軍事というものが、学説の話し合いで、必ずしも軍権を意味するものではないとしている
うーむ、都督は厄介なんですよね。
結局、確定的な結論は出てなかったと思います。
まあ、学者が話し合っても意味は別にないです。喋らせるなら金石を含む史料に話させるべきですね。
見る限り、初出は三国志の袁紹伝じゃないですかね。
紹は乃ち統ぶる所を分授して三都督と為し、(沮)授及び郭圖、淳于瓊をして各々一軍を典らしめ、未だ行うに及ばず。
これ、明らかに軍権の分与の記事ですよね。後漢の事例だからセーフということかなあ。
ここまででお察しの通り、個人的には石井説は採りません。最低限の権限規定にしても反証が多すぎます。つーか、そんなわけあるか、と思う。都督の名で粛殺の権を許すだけとか、名分論上から観てもあり得ない。
思うに、北朝の行台尚書もそうですが、非常置の官はそのものが例外的ですから、運用も属人的に行われざるを得ません。
結果、初期には規則性を見出しにくく、ほぼ常置になって運用が固まる傾向があります。それが官志。
しかし、官志は意外と適当で逆に混乱を生むように思います。職掌も消長がありますし。いつ時点やねん、という疑問が。地理志も同じですけど。
仰る通り、王導が徒手空拳で〜、はロマンティックではありますが、私見ではあり得ないと考えたいと思います。
いや、ふつーにムリでしょ?
そうであるならスゴイけど、なぜ王導にはできたのか?とかそういう疑問が湧いてきますし、実現手段を等閑にしすぎです。
日本人は南朝贔屓が多いですから仕方ないかもですが、でも、できないもんはできません。
武力なしの政治や外交がいかに不毛かは、日本人はみんな知っていると思うのですが。
名望や家格は常に刺身のツマに過ぎないのです。大事なのは、財力と武力だと考えます。
戦後平和主義の悪癖なのかなあ。。。
※
【追記を受けて】
こんばんは。
ご教示ありがとうございます。
今のところ確立した定見はありませんので、
参考にさせて頂きます。
勉強がてらに晋書をちょろっと見てみました。
まず、司馬睿の南渡の経緯です。
懐帝本紀、
秋七月己酉朔、東海王越は進みて官渡に屯し、以て汲桑を討つ。
己未,平東將軍、琅邪王睿を以て安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節と為し,建鄴に鎮せしむ。
元帝本紀
東海王越の下邳に兵を收むるや、帝に輔國將軍を假す。
尋いで平東將軍、監徐州諸軍事を加え、下邳に鎮ず。
俄にして安東將軍、都督揚州諸軍事に遷る。
越の西して大駕を迎うるに、帝を留めて居り守らしむ。
永嘉の初め、王導の計を用て始めて建鄴に鎮ず。
王導傳
時元に帝は琅邪王たり,導と素より相い親善す。
導は天下の已に亂るるを知り、遂に心を傾けて推奉し、潛かに興復の志あり。
帝は亦た雅相器重し、契は友執に同じうす。
帝の洛陽に在るや、導は每に勸めて國に之かしむ。
會々帝の下邳に出鎮するに、導を請いて安東司馬と為す。
軍謀密策、知りて為さざるなし。
建康に鎮を徙すに及び吳人は附かず,居ること月餘にして士庶に有至る者有るなし。
導は之を患う。
ざっと見る限り、司馬睿は懐帝の詔により安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節として建康に赴任したと分かる程度ですね。ただ、司馬睿と王導の側から見ると、この出鎮は王導の計略であるとしています。
王導の計略であるとするならば、懐帝というより実権を握っていた司馬越の同意を得るべく運動したであろうことは想像に難くありません。さらに、それが成功したので懐帝は出鎮の詔を発したわけですよね。
単純に考えて、建康出鎮が王導の計略であるか、東海王の戦略であるかと言えば、王導の計略であり、東海王の戦略だった、という回答も矛盾はしないわけです。
実相は藪の中ですが、両方成立しそう、でも王導が策動したことは確実っぽい、という感じでしょうか。
一方、司馬睿に軍権がなかったかと言えば、これはおそらくあったと思います。元帝本紀を見る限り、徐州に出鎮した際は平東將軍、監徐州諸軍事を帯びており、ついで安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節を帯びて建康に出鎮しています。
監と都督は明らかに後者が上ですから、徐州での働きを認められていたであろうことも窺えます。都督が一定エリアの軍権を掌握していたことはご存知のとおりですから、江南に赴任した司馬睿は一定の軍勢を伴っていたでしょうし、州の軍政機構を使って兵を徴発することもできたはずです。
少なくとも司馬睿が州を統治するに足る軍権を保有していたことは確実です。
しかし、それに呉の豪族が従ったかというと、また問題は別です。
有名無実という言葉もあります。王導はどのようにして統治機構を動かしたかを想像するべく、主な人物の任官をちょっと見てみましょう。
王敦
元帝召為「安東軍諮祭酒」。
會揚州刺史劉陶卒,帝復以敦為揚州刺史,加廣武將軍。
尋進左將軍、都督征討諸軍事、假節。
帝初鎮江東,威名未著,敦與從弟導等同心翼戴,以隆中興。
顧栄
元帝鎮江東,以榮為「軍司」,加散騎常侍,凡所謀畫,皆以諮焉。
周玘
元帝初鎮江左,以玘為「倉曹屬」。
甘卓
元帝初渡江,授卓「前鋒都督、揚威將軍」、歷陽內史。
賀循
元帝為安東將軍,復上循為吳國內史
周顗
元帝初鎮江左,請為「軍諮祭酒」
紀瞻
帝為安東將軍,引為「軍諮祭酒」,轉「鎮東長史」。
「」は軍に関わる官ですね。こうして見ると、在地の豪族出身者の多くが軍政や財政に関与する官に就けられていた、すなわち、行政機構が機能するように在地の有力者を巧みに登用していたであろうことが窺われます。
これらの配慮が出発点にあったわけですね。
さてそこからどうなったかという点についても、論文の内容も含めて定見を持てるといいのですけど、そこまで時間を割けるかなあ。
あ、そもそも北朝派なので南朝への興味が薄いのでした。。。
※
こんにちは。
本作の東晋は建国譚まででほぼ終わりなのですよね。本格的な東晋の成立は次作に譲ることとなります。人材招聘が中心になりますので、読む方としては一番面白いところ、ということになります。
>陳敏
作中でも「陳豫章」と呼ばれて「陳揚州」と言われないのは、自称だったからなのですね。
作中における陳敏の勢力圏はイマイチ想像しにくいところがありますが、豫章から長江北岸一帯が勢力圏という設定のようです。
>司馬睿
東海王との絡みは謎ですね。本作ではあまり強調されていない、というか、東海王の下から逃げ出した風味になっていますので、それも一つの解釈としてアリかねえ、という感じです。正史を読むとまた印象が変わるかも知れませんけども。
>王導
こちらも実は穏健な長者ではなく、切れ切れの政治家だったんじゃないかなあ、という疑いがありまして。東晋建国当初に江南で続発した豪族の叛乱などを考えますと、かなり厳しい豪族抑制政策をやらかしているはずなんですよね。
ただ、史料にはそのあたりが残っていないので、何か人心収攬が巧みな人という感じになってしまったのかなあ、と。
かなりのワルモノなんじゃないの、と個人的には見ています。
まあ、そうじゃないと無縁の地に国家なんて建設できませんしね。。。