応援コメント

第四十三回 南陽王司馬模は河間王司馬顒を殺す」への応援コメント

  • しぶとく生き残っていた河間王・司馬顒も死に、八王の乱の第八幕が終わりました。あまり配下に恵まれていない東海王・司馬越の勝利です。河間王は、張方と李含ばかり目立って、本人の印象が薄かったですな。豪毅なところはあり、人材は好んでいたようなので、水滸伝の梁世傑に近いイメージでしょうか。

    これで恵帝・司馬衷と廃太子・司馬遹を含めて二十二名いた下のリストにいた司馬氏は、司馬越・司馬熾・司馬睿・司馬模・司馬晏・司馬楙・司馬覃
    の七名を残すのみになり、三分の一を切りました。大会戦の時には、十七名まだいたのに凄まじい死亡率です。

    八王の乱を振り返ると、洛陽内部の争いと、洛陽・長安・鄴・許昌の四大都市の支配者の争いと、二つに大きく分かれると思います。最終的には、さらにその外部の力を使うことに成功した司馬越が勝利しましたが、これからはその司馬越が四大都市を巡って外部の力と争うことになります。

    (帝室)
    懐帝:司馬熾
    皇太后:羊献容
    皇后:梁蘭璧
    執政:司馬越

    (八王)
    ✕ 河間王・司馬顒
    東海王・司馬越
    汝南王・司馬亮(死亡)
    楚 王・司馬瑋(死亡)
    淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
    趙 王・司馬倫(死亡)
    梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
    斉 王・司馬冏(死亡)
    長沙王・司馬乂(死亡)
    成都王・司馬穎(死亡)

    (親王公)
    瑯琊王・司馬睿
    南陽王・司馬模
    呉 王・司馬晏
    予章王・司馬熾 → 皇帝へ
    東平王・司馬楙
    清河王・司馬覃
    新野王・司馬歆(死亡)
    東安王・司馬繇(死亡)
    范陽王・司馬虓(死亡)
    東瀛公・司馬騰(死亡)

    作者からの返信

    こんにちは。

    司馬顒と司馬穎の違いが、作中で優遇されているかそうでないか、くらいしか感じられなかったのは残念でした。もうちっとやりようはあったようにも思うのですけどねえ。李含を登用した話とかを考えても、司馬顒は非主流派の星として描けたような。。。


    > 八王の乱

    作中ではこれをもって八王の乱は終了、以降は江南に逃れる司馬睿、それに本作のもう一つの主眼、永嘉の乱に焦点が移っていきますね。


    > 司馬越・司馬熾・司馬睿・司馬模・司馬晏・司馬楙・司馬覃の七名

    これから劉漢との本格的な戦に入るわけですが、それ以前にボロボロになっております。いやー、キツイっす。三國志演義蜀漢派のみなさまとしては、シュートサインを出すしかないですよね。


    > 洛陽・長安・鄴・許昌

    鄴と許昌は三国時代を通じて魏の本拠地として発展し、漢の都であった長安、洛陽に比肩するに至ったわけです。都市の消長というのもなかなか面白いものですね。

    この中で、鄴は幽薊・山西と河南に通じる立地により河北政権にとって重要拠点でありつづけ、北齊のように政治中心は山東の鄴、軍事中心は山西の晋陽という機能を分けた国家も出現することになります。
    一方、洛陽から徐州を結ぶ線上にある許昌は残念ながら戦乱で荒廃した後、かつての栄華を取り戻すことはありませんでした。少なくとも、国都とした国はありません。

    これはまあ、徐州つまり淮水方面への連絡路が当時はそれほど重視されておらず、南北に分裂した後は戦場となる淮南に近すぎる、という理由もあって忌避されたということかも知れませんね。彭城なんかは南北朝必争の地となってしまったわけですし。

    隋に入って大運河が完成すると、徐州の重要性はさらに下がっていったんだろうなあー。(長いわ)