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2018年3月13日 23:18 編集済
ついに意外に長く続いた恵帝の治世もこれで終わりですね。八王の乱が分かりづらいのは、恵帝と羊皇后が廃位されたりしながらも、ずっと存在し続けているので最高責任者が誰なのかはっきりしないことも理由の一つだと思われます。二回前のコメントに関してですが、>司馬炎の政策が悪かったというより、司馬師から司馬昭という権力の兄弟>間継承に発した歪みが基本にあり、それを弥縫する権威者がいなかったの>が問題だったと思います。これは考えたことがありませんでしたが、なるほどと思います。司馬師は、武帝が即位後に「景皇帝」と贈号されていますが、光武帝は兄の劉縯に、孫権は孫策に、姚萇は姚襄に、帝号を贈っていません。このため、現代で孫権は兄に含むところがあったと言われますが、皇帝の権威や正統性のために正しい判断と思われます。これでは司馬攸はただの弟以上の権威を持ってしまいます。司馬衷が暗愚ならなおさらです。司馬炎が司馬攸に嗣がせたとしてもあれだけいる司馬炎の子たちが、司馬攸や司馬冏と争うことになったでしょう。>継承した弟が権威を子に引き渡せるまでに高める時間がありましたから、>それが司馬昭にはなかったかなあ、そう考えると、司馬昭の司馬攸に嗣がせるという考えは、安田二郎先生のとなえるブラフではなく、正統性の確保のための司馬昭の判断かなとも考えられます。司馬炎は能力的には特別に問題ないように見えますが、司馬昭の指揮には司馬衷はすでに六歳、夭折する時期は過ぎ、知性か人格に相当な欠落があったこと、司馬炎が廃嫡まで踏み切れないことを見抜いていたかもしれません。また、司馬昭の方針であった寛仁施策を司馬炎なら引き継がざるを得ず、世説新語で分かる通り、面と向かった批判ですら処分しない温厚ではあるが厳格さに欠ける司馬炎の性格では皇帝権力は揺るぐ一方と考えていたのではないでしょうか。その司馬昭の寛仁施策も曹髦殺害・賈充放免があるので、ただの人気取りと見られ、心服まで得られず、司馬炎の温厚さ・司馬衷の純朴さもその延長上として見られ、忠誠を勝ち得なかった。私には、そういう風に思えました。リストは洛陽陥落まで続ける予定です。司馬熾の皇后もフルネームが残っていたのですね。調べて、初めて知りました。(帝室) 恵帝:✕ 司馬衷 →懐帝:司馬熾 皇太后:空位→羊献容 皇后:羊献容→梁蘭璧 執政:司馬越 (八王) 河間王・司馬顒 東海王・司馬越 汝南王・司馬亮(死亡) 楚 王・司馬瑋(死亡) 淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり趙 王・司馬倫(死亡) 梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり斉 王・司馬冏(死亡) 長沙王・司馬乂(死亡) 成都王・司馬穎(死亡) (親王公) 瑯琊王・司馬睿 南陽王・司馬模 呉 王・司馬晏 予章王・司馬熾 → 皇帝へ 東平王・司馬楙 清河王・司馬覃 新野王・司馬歆(死亡) 東安王・司馬繇(死亡) 范陽王・司馬虓(死亡) 東瀛公・司馬騰(死亡)追伸>なかなか詩的なお名前ですね。蘭壁さんかあ。すみません。壁の字は『完璧』の『璧』でした。しかし、ここでこんなありがちなミスをするとは。>光武帝以降に豪族層を解体しなかったこと>にあるのかなあ、とか思います。光武帝ですか。確かに表面上問題を起こさないことを優先した調整型政治が豪族発展を決定づけた感はありますね。ただ、豪族に関しては、前漢以降豪族の力は強くなってきていましたから。解体に手をつけようとした気配のある王莽は失敗しましたし、時代の流れでもありますね。ただ、西晋は内部分裂はどうかなったのではないかと思うのですが、何が決定打かと言われると断定は難しいです。
作者からの返信
【追記】〉蘭璧入力するときにたしかに違和感ありましたが、「生垣みたい」とか思っただけでスルーしてました。蘭璧ならなおさら詩的ですね。〉西晋は内部分裂はどうかなったのではないかこれが内部分裂の原因だった=これがなければ事象は発現しなかった、そう考えると解法が難しい設問ですね。試論止まりになることを約束されている、とも言えます。調べたり考えたりするには、それが面白かったりするんですけどねー。※※※※こんにちは。〉意外に長く続いた恵帝の治世何しろ、わずかながら懐帝の治世まで生き抜きましたからね。超時空恵帝司馬衷です。〉最高責任者が誰なのかはっきりしない賈后垂簾からコッチ、恵帝でないことだけは確かだったかなあ、と。流されるヤシの実のようなお方でした。〉二回前のコメントまー、要因は常に絡み合って鶏と卵を見分けるのは難しいでしょうねー。少なくとも、晋だけを見ても判断はつかないかなあ、と。たぶん、根っこは光武帝以降に豪族層を解体しなかったことにあるのかなあ、とか思います。ネタがデカいとシャリもデカくなりますから。〉リストは洛陽陥落まで続ける予定ありがとうございます!今も参考にさせて頂いております。。。中心はだんだん瑯琊王に移ってしまいますが、それは後編からなんですよね。〉司馬熾の皇后もフルネームほほー、これは珍しい。女性の名前ってホントに残ってませんから。今なら#MeTooモンです。なかなか詩的なお名前ですね。蘭壁さんかあ。
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ついに意外に長く続いた恵帝の治世もこれで終わりですね。八王の乱が分かりづらいのは、恵帝と羊皇后が廃位されたりしながらも、ずっと存在し続けているので最高責任者が誰なのかはっきりしないことも理由の一つだと思われます。
二回前のコメントに関してですが、
>司馬炎の政策が悪かったというより、司馬師から司馬昭という権力の兄弟
>間継承に発した歪みが基本にあり、それを弥縫する権威者がいなかったの
>が問題だったと思います。
これは考えたことがありませんでしたが、なるほどと思います。
司馬師は、武帝が即位後に「景皇帝」と贈号されていますが、
光武帝は兄の劉縯に、孫権は孫策に、姚萇は姚襄に、帝号を贈っていません。このため、現代で孫権は兄に含むところがあったと言われますが、皇帝の権威や正統性のために正しい判断と思われます。これでは司馬攸はただの弟以上の権威を持ってしまいます。司馬衷が暗愚ならなおさらです。司馬炎が司馬攸に嗣がせたとしてもあれだけいる司馬炎の子たちが、司馬攸や司馬冏と争うことになったでしょう。
>継承した弟が権威を子に引き渡せるまでに高める時間がありましたから、
>それが司馬昭にはなかったかなあ、
そう考えると、司馬昭の司馬攸に嗣がせるという考えは、安田二郎先生のとなえるブラフではなく、正統性の確保のための司馬昭の判断かなとも考えられます。
司馬炎は能力的には特別に問題ないように見えますが、司馬昭の指揮には司馬衷はすでに六歳、夭折する時期は過ぎ、知性か人格に相当な欠落があったこと、司馬炎が廃嫡まで踏み切れないことを見抜いていたかもしれません。
また、司馬昭の方針であった寛仁施策を司馬炎なら引き継がざるを得ず、世説新語で分かる通り、面と向かった批判ですら処分しない温厚ではあるが厳格さに欠ける司馬炎の性格では皇帝権力は揺るぐ一方と考えていたのではないでしょうか。
その司馬昭の寛仁施策も曹髦殺害・賈充放免があるので、ただの人気取りと見られ、心服まで得られず、司馬炎の温厚さ・司馬衷の純朴さもその延長上として見られ、忠誠を勝ち得なかった。私には、そういう風に思えました。
リストは洛陽陥落まで続ける予定です。司馬熾の皇后もフルネームが残っていたのですね。調べて、初めて知りました。
(帝室)
恵帝:✕ 司馬衷 →懐帝:司馬熾
皇太后:空位→羊献容
皇后:羊献容→梁蘭璧
執政:司馬越
(八王)
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
追伸
>なかなか詩的なお名前ですね。蘭壁さんかあ。
すみません。壁の字は『完璧』の『璧』でした。
しかし、ここでこんなありがちなミスをするとは。
>光武帝以降に豪族層を解体しなかったこと
>にあるのかなあ、とか思います。
光武帝ですか。確かに表面上問題を起こさないことを優先した調整型政治が豪族発展を決定づけた感はありますね。
ただ、豪族に関しては、前漢以降豪族の力は強くなってきていましたから。解体に手をつけようとした気配のある王莽は失敗しましたし、時代の流れでもありますね。
ただ、西晋は内部分裂はどうかなったのではないかと思うのですが、何が決定打かと言われると断定は難しいです。
作者からの返信
【追記】
〉蘭璧
入力するときにたしかに違和感ありましたが、「生垣みたい」とか思っただけでスルーしてました。
蘭璧ならなおさら詩的ですね。
〉西晋は内部分裂はどうかなったのではないか
これが内部分裂の原因だった=これがなければ事象は発現しなかった、そう考えると解法が難しい設問ですね。試論止まりになることを約束されている、とも言えます。
調べたり考えたりするには、それが面白かったりするんですけどねー。
※※※※
こんにちは。
〉意外に長く続いた恵帝の治世
何しろ、わずかながら懐帝の治世まで生き抜きましたからね。超時空恵帝司馬衷です。
〉最高責任者が誰なのかはっきりしない
賈后垂簾からコッチ、恵帝でないことだけは確かだったかなあ、と。流されるヤシの実のようなお方でした。
〉二回前のコメント
まー、要因は常に絡み合って鶏と卵を見分けるのは難しいでしょうねー。少なくとも、晋だけを見ても判断はつかないかなあ、と。たぶん、根っこは光武帝以降に豪族層を解体しなかったことにあるのかなあ、とか思います。
ネタがデカいとシャリもデカくなりますから。
〉リストは洛陽陥落まで続ける予定
ありがとうございます!
今も参考にさせて頂いております。。。
中心はだんだん瑯琊王に移ってしまいますが、それは後編からなんですよね。
〉司馬熾の皇后もフルネーム
ほほー、これは珍しい。女性の名前ってホントに残ってませんから。今なら#MeTooモンです。
なかなか詩的なお名前ですね。蘭壁さんかあ。