第四十一回 公師藩は東瀛公司馬騰を殺す

 東瀛公とうえいこう司馬騰しばとうは、自らの任地を離れてぎょうの鎮守に向かおうとしていた。帰心は矢の如きものがあったが、係累が多くて道途は捗らない。ようやく真定しんていに到ると、今度は大雪にあって進めなくなる。

▼「真定」は『晋書しんじょ地理志ちりしによると、冀州きしゅう常山郡じょうざんぐんの治所、山西さんせいから井陘せいけいを抜けたところにあり、別に中山ちゅうざんとも呼ばれる。

 軍営を置いて留まったものの、三日も降りつづいた雪は平地に三尺を超えて積もる。ただ、軍営の前、数丈四方の土地だけは雪が積もらずにいた。愕いた司馬騰は従事じゅうじ蔡剋さいこくにその理由を問うた。

「大王の福運ふくうん隆盛りゅうせいなるがゆえに起こった瑞祥でございます。地下には奇寶が埋まっておりましょう」

 その言葉を聞くと、将兵に命じて土を掘り返させた。果たして地中より玉を削って造られた馬が掘り出される。その高さは一尺(約24cm)ほど、水で濡れたように美しく輝いて内より光を発するようであった。

 洛陽の晋帝に献上すべく黄色の薄絹で包むと車に載せ、「進上しんじょう奇寶きほう」という献上物を運ぶ際に掲げる旗を先頭に挙げる。それより悠々と途を進んで歈縣ゆけんにまで到った。

▼「歈縣」は『史記しき酈商傳れきしょうでん索隠さくいんに「俞の音は歈、縣名なり。又た音は輸、河東かとうに在り」とある。ただし、同じく惠景閒けいけいかん侯者こうしゃ年表ねんぴょうの索隠には俞國について、「俞の音は輸なり。俞縣は清河に屬するなり」とある。文脈によれば、真定から洛陽に向かっている以上、司馬騰が山東にあったことは明らかであり、この歈縣は清河郡と考えてよい。ただし、太行山脈の麓にある真定に対して清河ははるか東にあり、南にある洛陽に向かう途上で経由するとは考えにくい。

 この歈縣には成都王せいとおう麾下の公師藩こうしはんが拠っていた。間諜が司馬騰の接近を報せて言う。

「司馬騰が奇寶を先頭に洛陽に向かっております。すぐこの地に到りましょう。退いて戦を避けるのが上策かと愚考いたします」

 それを聞いた公師藩が言う。

「司馬騰は王浚を助けて鄴を襲い、その恨みを雪げずにおった。此処に到るというならば、首級を挙げて恨みに報いる好機というものだ。逃げ隠れなどするに及ばぬ。退却など許さぬ。すぐに戦の準備をせよ。必ずや先の恨みに報いてくれよう」

 公師藩に従う李豊りほう皮文豹ひぶんひょうは声に応じて叫ぶ。

「吾らは将軍のために死力を尽くしましょう」

 公師藩は軍勢を発して隘路を守り、司馬騰の到来に備えた。


 ※


 司馬騰の斥候が馳せ戻り、先を公師藩の軍勢が守っていると告げた。司馬騰は怒って言う。

「公師藩の賊めが逃げ延びるだけでなく、孤の寶を奪おうとするか。誅殺してもまだ足りぬ。歈縣を踏み潰してから鄴に向かう」

 司馬騰の長子の司馬虞しばぐは勇力に優れ、次子の司馬紹しばしょうは知恵に優れる。その司馬紹が進言した。

「吾らは詔を奉じて洛陽に向かっております。すでに進軍を始めて日を送ること多く、士気も奮いません。公師藩は罪を逃れて此処で命を永らえているに過ぎません。まずは鄴に向かって軍勢を合わせ、それより軍を返せば一鼓に平らげられましょう」

「公師藩は何様のつもりでこの無礼を働くか。軍を進める最中に奇襲を受けて寶を奪われれば、世人に哂われよう」

 司馬騰が不機嫌に言うと、司馬虞も横から口添えして言う。

「公師藩は老練の将ですが、軍勢は多くありません。それに、吾がこの軍勢を率いております。どうして寶を奪われるなどということがありましょうか。家眷と財物を鄴に置いた後、戻って罪を問うても遅くはございますまい」

「孤は大鎮の鎮守を終えて五万の軍勢を率いておる。公師藩如きに敗れるはずもない。再び戻るなど迂遠なことよ。今から擒として罪を正してくれよう」

 司馬騰はついに進軍を命じた。

 崔曼さいまんを先頭に羊恒ようこうを遊軍とする先鋒を司馬虞が率いる。司馬騰は子らと蔡剋とともに後詰となり、歈縣を目指した。


 ※


 公師藩は木を削って成都王の象を造るとそれを車に載せる。それを見た将兵は王への報恩を思って戦意を高め、司馬騰への復讐に血を滾らせた。

 そこに司馬騰の軍勢が近づいているとの報が入り、李豊と皮文豹とともに一万の軍勢を率いて城外に陣を布く。

「司馬騰は多勢を恃んでおるが、戦は将にあって兵にない。卿らが協力して敵の軍旗を奪えば、自ずから敵軍は乱れて崩れよう」

 公師藩の言葉に李豊と皮文豹が頷いた。

 前駆となって近づく崔曼は城外の陣を見ると軍勢を止めて対陣に入る。崔曼が鎚を回して打って出れば、公師藩は馬を拍って馳せ向かい、前を阻んで戦に入る。十合を過ぎぬ間に李豊が加勢に駆け出せば、遊軍の羊恒が横ざまに斬り込んだ。

 数合を過ぎず羊恒は李豊の鎗を受けて馬下に落命し、それを見た崔曼は怖れて逃げ出した。公師藩は逃げるを許さず、背後に迫って一刀にその首級を刎ね飛ばす。

 李豊は勝勢を駆って後詰の軍勢に斬り込み、それに合わせて皮文豹も全軍挙って攻めかかる。

 司馬騰は二将の戦死を見て軍勢を返そうとしたところ、軍勢を割って進む李豊と鉢合わせる。李豊は鎗を捻ってその胸を狙い、身を貫かれた司馬騰はもんどり打って落馬した。

 司馬虞はこれを見て怒り、馬を返して李豊を追う。李豊は司馬虞を迎えて戦うこと三十合、力及ばず馬頭を返す。李豊はひたすら逃れて司馬虞はただこれを追い、十四、五里も行けば前を大河が阻んで逃げ道もない。李豊は馬を拍って河中に入ったものの、深みに落ちて溺死した。

 司馬虞が馬を返して十里も行ったところ、敗卒が駆けつけて叫ぶ。

「三公子と蔡中郎さいちゅうろう(蔡剋)はいずれも討ち取られ、賊どもは兵を返して城に籠もりました」

 この三公子は司馬騰の子の司馬紹、司馬矯しばきょう司馬確しばかく、いずれも司馬虞の弟たちであった。

 司馬虞は大哭したものの打つべき手も見当たらず、ついに逃れて洛陽の東海王に謁見して司馬騰の死を報せる。東海王はその死を憐れんで司馬虞に東瀛公の爵位を継がせるとともに、鄴の鎮守を委ねた。


 ※


 公師藩は司馬騰を破った勝勢を駆って鄴を陥れんと図る。この時、司馬虞は洛陽に逃れて鄴に到っておらず、劉輿が鄴を含む魏郡を治めていた。公師藩の軍勢が動き出したと聞いて考える。

「陳眕は公師藩とともに成都王に仕えていた身、吾を裏切って差し出すやも知れぬ」

 人を洛陽に遣わして救援を求めさせ、東海王は青州せいしゅう刺史しし苟晞こうきに詔を下して鄴の救援を命じた。苟晞は山東を発って昼夜を徹して鄴に向かい、公師藩が鄴を囲んで五日の後に到着した。

 それを知った公師藩は言う。

「苟晞が率いる青州の軍勢は勇猛、さらに智謀にも長けておる。ここは兵を返してその鋭鋒を避けるのがよかろう」

「成都王が盟主となって漢賊を防いだ折、苟晞はその恩徳に浴しております。成都王の屍を掘り起こして車に載せ、全軍は旗も鎧も白くして苟晞を説得するのがよいでしょう。王の仇に報いんとする吾らの忠心を知れば、その軍勢を止めることも考えられます」

 皮文豹がそう言うと、公師藩はその策に従うこととした。

 この時、苟晞は詔を奉じて駆けつけたものの、その本意は鄴の兼併にあった。軍勢を城下に進めると、公師藩の軍勢に攻めかかる。三度の戦を経て公師藩は一勝もできず、ついに歈縣に逃れるべく軍勢を返した。

 苟晞の将の夏暘かよう閻弘えんこうが帰路を阻んで逃さない。皮文豹は夏暘に討ち取られ、戦を棄てて逃れる公師藩を閻弘が厳しく追撃する。公師藩は成都王の屍を井戸に投げ込んで単騎で奔ったものの逃れきれず、閻弘に斬り殺された。

 公師藩を破った苟晞は軍勢を鄴に入れた。

 盧志ろしは喪に服して鄴にあり、苟晞と公師藩の戦を知ると成都王の屍を捜し回った。鄴で戦傷を受けた兵より公師藩が井戸に棄てたと聞き、人を雇って屍を引き上げると車に載せて洛陽に向かった。

 闕下に到った盧志は上奏文を奉じ、趙王ちょうおうりんを平らげて晋帝しんていを復位させ、諸侯親王を率いて漢賊を退けた成都王の功績を述べてその終わりを嘆いた。晋帝は弟である成都王への情を思い返し、王の礼によって北邙山ほくぼうさんに葬った。

 東海王はその忠心を知って用いようとしたが、盧志はなお願って言う。

「成都王が新野しんやにおられた際、馮嵩ふうすう劉弘りゅうこうに迫られて家眷を棄てざるを得ませんでした。その時、十歳の公子があり、今も新野の民家に匿われているはずです。大王が宗室の連枝を思われるならば、恩徳により成都王の家を継がせて宗室の和をお示し頂ければ、これに過ぎる幸甚はございません」

 東海王は人を遣わして成都王の公子を洛陽に連れてくると、これを縊り殺した。

 盧志はそれを知ると成都王の墓前で大哭したことであった。

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